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遠慮していても、目の前に料理が並んでしまえば食欲は抑えられない。
メニューを差し出しても「私は大丈夫です」の一点張りで、なかなか料理を選ぼうとしない少女に対して、唐沢は少女の分も勝手に注文して様子を見ることにした。
結果として二人の前には温かいご飯と豚カツと味噌汁がそれぞれ並ぶことになった。
手を合わせてから食べ始める。サクサクの衣の豚カツを噛みしめると中から肉の旨味が出てきて、それが口の中いっぱいに広がる。とても美味い。
空腹は最高のスパイスというが、そうでなくてもこの店が当たりなのはよく分かった。しじみの味噌汁も美味い。
向かいの席の少女に目をやると、彼女はまだ箸にすら手をつけていなかった。
遠慮しているのだろうが頑固な娘である。人からの恩を恩とも思わない娘よりかはマシだが、これではせっかくの料理が無駄になる。
「早く食え。冷めるぞ」
唐沢が促すと、少女はやっと観念したようで「ありがとうございます」と目を伏せたまま呟くように言ってから食べ始めた。
お腹が満たされれば気持ちに余裕ができる。そうなれば少しは自分のことを話す気になるかもしれない。そんな打算的な考えが頭の中にはあったが、少女が美味しそうに食事をしているのを見ていると、なんだかそれだけでホッとしている自分がいることにも気がついた。
「俺の名前は唐沢憲司という。都内で内科医をしている。良かったら名前くらいは教えてくれないか」
名前を聞く時にはまず自分から名乗るもの。そうすることで相手の警戒心を少しだけ弱めることができる。
「柊、和泉です」
少女はキャベツの千切りを食べながら答えた。
明るいところで改めてよく見てみると、なかなか可愛い顔立ちの娘である。どことなく、癌の闘病中に不慮の事故で亡くなってしまった、有名な女性ヴォーカリストに雰囲気が似ているような気がした。
「柊さんは何処に住んでいるんだ? 近くなら送っていくが?」
「駅までで大丈夫です」
「じゃあ、多少のお金は持っているんだな?」
何の荷物も持っていないようだが。
少女は再び黙りこんでしまった。ある意味、正直な娘である。やはり警察に連絡した方が良いのではないだろうか。
食事を終えて店を出る。時計を見るともうすぐ十時だった。
言われたとおり駅前のロータリーまで車を走らせて、少女を降ろす。
「食事まで奢っていただいて、本当にありがとうございました」
「気をつけてな」
言いたいことや聞きたいことはたくさんあったが、深入りすると厄介そうだ。このくらいで素っ気なく別れておくべきだろう。
でも、多分彼女は無一文だ。気にはなる。
『ケンちゃんは本当に優しいんだから』
十年以上前に亡くなった恋人が頭の片隅で笑ったような気がした。
なかなかの紳士っぷりだっただろう? 自然と口元に笑みが浮かんでしまう。
さて、帰ろう。
サイドブレーキを解除してギアをドライブに切り替えようとしていると「やめてください」と先ほど別れたばかりの少女の叫びが聞こえてきた。
慌てて声の方に目をやると、少女が三人の若者たちに絡まれていた。
知り合いではなさそうだ。だとしたらナンパだろうか。こんな夜遅くに複数の男で一人でいる若い女をナンパするのは健全ではないと思うのだが、それは俺の偏見だろうか。でも、嫌がっている女を強引に連れていこうとするのは問題だろう。
放っておけばいい。俺以外にも駅前には人がいる。彼女が助けを求めれば、きっと善良な誰かが助けに入るさ。
俺は山の中で困っていた少女を助けて夕飯までご馳走したんだ。これ以上、あの少女に付き合う義理はないし、そもそも厄介事は御免なんだ。
『で、どうするの?』
頭の中で、恋人が微笑みながら尋ねてきた。
意地悪だな、君は。
分かったよ。
唐沢は覚悟を決めて車のドアを開けた。
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