逃亡者

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逃亡者

 目の前に広がっているのは真っ暗な闇だった。  月のない夜。市街地から遠く離れた山の中。周囲には鬱蒼とした樹木が人の手も入らない状態で自然のままに生い茂っている。歩みを止めて夜空を見上げてみれば、いくつかの星の光りくらいは確認することもできるのだろうが、今はそんな余裕はない。  背後からは複数の猟犬の息づかいと草を掻き分け踏みつぶす音が迫ってくる。そしてそんな犬たちを駆使して捜索を行っている連中のライトがまるでサーチライトのようにターゲットを求めて動いていた。  追跡者たちから逃げているのは二十歳(はたち)にも満たない一人の少女だった。癖のないセミロングの髪にまだどことなく幼さの残る卵形の顔、意思の強そうな黒い瞳に細めの眉、薄いピンク色の唇から少々荒い息が洩れているのは、追われている緊張感と散々走りまわった疲労からである。  体型としては痩せ型になるのだろうか。少し色褪せたデニムジャケットを羽織り、黒のスキニーパンツを履いている。一見、特に変わったところは見受けられない。しかし、彼女を追う追跡者たちからはとても普通とは思えない物々しさが漂っている。ただの家出娘とそれを追う捜索隊でないことは、その状況を見ても明らかだった。  常人離れした体力があるわけでもなければ土地勘があるわけでもないのに、足場の悪い夜の獣道を走りまわるのは流石に無理がある。捕まるのはもはや時間の問題だと思われたその時、彼女の踏み出した一歩が夜露で湿った草を踏んで滑った。  やばいと思った時にはもう遅い。少女は体勢を立て直す間も無く、一気に斜面を滑り落ちた。そして斜面の先の崖下に勢いを削ぐこともできずにそのまま落下した。 「くっ」  一瞬、激痛で息が止まる。  とても痛い。だけど、声を上げたら気付かれる。  三メートルくらいは落下しただろうか。背中から強く地面に叩きつけられたが、後頭部を強打したわけではないので意識はしっかりしている。衝撃で全身が痺れてはいるが、大した怪我はなさそうだった。  痛みをこらえながら、よろよろと立ち上がる。  崖の上の方からは相変わらず犬の荒い息づかいが聞こえてくるが、追跡者たちがこちらに気づいた様子はない。  崖に身を寄せて降ってきたライトの明かりを(かわ)した少女は、悟られないようにゆっくりと、徐々に早足になって再び走り出した。  唐突に現れた白いガードレール。車道である。  上りと下り、どちらに進めばいいのかなんて分からない。だけど、当てもなく山道を逃げ回るよりかはマシだ。  追跡者たちはまだ山中を探しているのだろうか。舗装された道を足早に進み続けていると、不安ばかりが膨らんでいく。逃げゆく先に別動隊が待ち構えていたとしたらもう為す術がない。  どうすれば良いのだろう。どうすれば良かったのだろう。思いは頭の中を駆け巡る。しかし、明確な答えが見つかるはずもない。  そんな時、遠くから車の明かりがこちらに向かって近づいてくるのが見えた。  近くにキャンプ場のようなレジャー施設もないのに、こんな夜中に山の中を一人で歩いている自分は明らかに不審者の類いである。警戒されるのは仕方ないし、無視されて通過されてしまう可能性も高い。  だけど、助けてほしい。  少女は一縷の望みを賭けて、近づいてくる車に向かって大きく手を振ってみせた。
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