いきる

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「僕を噛んでも美味しくないよ」 何度そう言っても、弓月は僕を喰む。猫が甘噛みするように、でも実際はもっと激しく、上歯をくっと突き立てる。正直、痛い、それなりに。でも、こうなったらどう言っても聞かないことをわかっている僕は、そっと、とりあえず弓月の黒い短い髪を撫でる。そうすると、白くて細い指先が、僕の深緑のカーディガンをくっと掴む。 この部屋は、西日だけはよく入る。八畳の部屋が一気に赤紫に浸されていく。薄いレースのカーテンは端に寄せられたままで、部屋の真ん中にただただ立っている僕らを遮るものは何もなかった。 パーマがかかっりっぱなしの僕の少し伸びた髪はかきあげられ、肩から首のあたりをがぶがぶとされ、そのまま耳を舐め上げられた。ねっとりしとした生き物の熱だ。こういう時、そういえば僕らは動物だったな、と急にまざまざと思い出す。普段ならつけっぱなしのテレビも、ニュースなんかを伝えることもなく、オブジェみたいにただ、ひっそりと佇んでいる。じわりと、静かな、静かな時間が進んでいく。 どれだけそうしていたかわからないけど、彼女の唇が僕の肩から外れ、そのままからだごとぎゅっと抱きしめられた。 「気が済んだ?」 「ん。まあまあ」 「まあまあですか」 何か、耐えられないようなこととか、かなしいことがあった時。たぶん、そういう時に、弓月は僕を噛むんだと思う。特に何か言うわけではないんだけれど、からだから発される空気が、なんとなく、きゅうと張り詰めている時が多いから。 からだが離れたので、部屋の隅にある茶色いソファに腰掛けた。とてとてとついて横に座る彼女に、肩を抱いてやる。 「夕食は何が良いかな?」 「キムチ鍋が良い。なんか、辛くて、あったかいやつ」 「まだまだ寒いもんね、良いね」 「宗介がつくってくれる?」 「じゃあ弓月はチョレギサラダ担当ね」 カラッと笑う顔が、少し和らいでいる気がしたから、なんとなくほっとした。 はじめて「君を噛んで良い?」と聞かれた時は、少々面食らったのを覚えている。少し不安を感じながら、「噛みたいの?」と、返すと、こくんと彼女は頷いた。 その日も赤く、部屋が染まっていた気がする。閉じていく一日、終わっていく時間。なんでだろう、部屋の中が夜に塗り替えられていく時間は、寂しさを孕んで、助長させている気がする。 まだ噛み方を知らない彼女はだいぶ強く僕を噛んで、その時はとても痛かった。痛いよ、と静かに伝えると、ごめんね、と謝って、別の場所をもう一度噛んだ。左肩にはくっきりと小さな彼女の歯形が残っていた。 でも、その跡はすぐに消えた。なんとなく、僕には、行き場のない感情の塊のように見えた。僕には、それを僕がどうにかすることは難しいように思った。だから、されるがままにした。それで彼女の気が済むのなら良いか。黒く塗り替えられていく世界の中で、少し震えた肩を見下ろしながら思った。僕に何かできることは、ない。 「今日のキムチ鍋、いつもより美味しかった」 「豚以外にシーフードミックス入れたからかな」 「なんか、辛くて良かった」 「それはどうも」 夕食を食べ終え、テレビをつけて、土曜の夜のバラエティ番組を見る。弾けるようなバラエティの笑い声に、仮初でも、部屋が明るくなったように思う。腹を満たし、どうでもいい話をして、笑いあう 僕らはそうして、毎日をのりこえている。
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