第二番 ゆっくりと悲しさをこめて Lent et triste

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 ふと、緊迫した声が聞こえた気がした。  もう一度。  コハルの声だろうか。 「リタ様! 大丈夫ですか!」  頭が上手く回っていない。なぜコハルは僕のことを心配しているのだろう。 「登録住所の管理者へ通報します。あと、二十五秒」  コハルのものではない、無機質なシステム音声が聞こえた。  その瞬間、僕は飛び起きた。  部屋はいつの間にか薄暗くなっている。僕は飛び起きた勢いのままテーブルに置いてある通信端末をとった。 「リタ様!」  コハルはいつもよりも大きな声で僕に訴えかけている。端末の画面には危険という文字が赤色に点滅していた。 「コハル」  声を発した途端に、端末の画面は元に戻った。 「リタ様、体調はいかがですか?」 「大丈夫。心配いらいないよ」  声が掠れていたので、咳払いをする。 「ただいまお部屋に向かっています」 「大丈夫だよ。えっと……」僕は端末の画面を切り替えて今の時間を確認する。「うん、ちょっと寝すぎただけだから」 「お薬をお持ちいたしましょうか?」 「ううん」 「かしこまりました」  僕は時間をかけて深呼吸をする。改めて通信端末を見ると、時刻は夕方の十六時を過ぎていた。どうやら、部屋に帰って本を読みながら眠ってしまい、昼過ぎにくるコハルからの呼びかけも無視していたらしい。  心臓が高鳴っている。僕はもう一度だけ深呼吸をした。数年に一回、どうしてもこの手のミスをしてしまう。危うく、大騒ぎになるところだった。  念のため、端末から救急の通知が飛んでいないかを確認する。安否の確認が一定時間とれないとき、確認者の判断で救急の通報をしなくてはならない。この場合、コハルからの通報を受けたアパートの管理人がその判断をすることになる。僕はコハルに、就寝時以外の時間で四時間以上返事がない、かつ生活音がしないときに通報するよう伝えてある。  僕は冷蔵庫から水の入ったビンを取りだして一気に飲み干した。あと二十五秒、起きるのが遅かったら一階に住む大家が僕の部屋に押しかけてくるところだった。 「コハル」  僕は再びテーブルに戻り、通信端末を手にとった。 「いかがなさいましたか?」 「なにか飲みたい」 「炭酸でよろしいですか?」 「ううん。なにか、落ち着くものがいいな」 「ハーブティはいかがでしょう」  今までコハルからハーブティを勧められることがなかったので少し驚いたが、よくよく考えると今の気分にぴったりかもしれない。 「じゃあ、甘めで、渋くないものを」 「かしこまりました。五分ほどでお持ちいたします」 「うん。ありがとう」  コハルと会話して気が緩んだのか、体の感覚が鮮明になりつつあった。まだあたたかい季節だが、妙に肌寒い。そこで僕は、先ほどの失態で汗をかいていたことに気が付く。 「コハル」 「いかがなさいましたか?」 「今からシャワー浴びるから、十五分後に持ってきてもらえる?」 「かしこまりました」  端末の画面が切り替わったことを確認して、シャワールームに向かう。洗濯用のカゴに服を投げ入れ、シャワールームのドアを開けた。夕暮れの日が差し込んでいるおかげで、電気をつけなくても十分に明るかった。  すっかり立て付けが悪くなったドアを閉め、ゆっくりとコックをひねる。すぐに丁度いい温度のお湯が頭から降り注いだ。  ふと、どういうわけかレベッタのことが頭をよぎる。あの誕生日以来、体の調子が変になった気がする。今日ほどではないが、思っていたより長く寝てしまう日も増えたし、なにより、レベッタのことを考える時間が多くなっていた。  彼女が僕と一緒にいたい理由は一体なんだろう。もし、彼女自身の尊厳や自尊心を守るために僕の存在を利用しているのであれば、それは危険なことだと伝えなければならない。  僕はレベッタの期待に応えられないし、万が一応えたとしても、自分の性質を守るためにまた一人になりたがるだろう。  でも、それがこの国では当たり前のこと。  レベッタが求める一緒は、きっと物理的な話だけではないはずだ。彼女が本当に求めているものはなんだろう。  思い出?  共感?  体温……?  どうして彼女は、寂しいことを恐れるのだろう。  孤独でいることの、なにが寂しいのだろう。  一人でいれば、人は孤独になるのだろうか。  寂しいことと、一人でいることは同じではないはずだ。  衣食住が当たり前に充足していて、更にそれらが機械によってほとんど自動化されているこの世の中で、わざわざ人とふれあう必要はあるのだろうか。本当の自分を切り売りしてまで、他人に執着する必要があるのだろうか。  考えがまとまらないうちに、全身を洗い終えてしまった。コックを締めるのと同時に思考回路にも蓋をする。  シャワールームから出て着替えを済ませたタイミングで、通信端末からコハルの声が聞こえた。 「ハーブティをお持ちしました」 「ありがとう。今開けるよ」  僕はタオルを頭にかぶせて、玄関のドアを開けた。コハルからティーカップを受け取る。 「ありがとう」 「それでは、失礼します」  そう言うと、コハルはそそくさと戻っていった。二十四時間対応してくれるとはいえ、コハルにはコハルの時間があるのだろう。  閉めたドアにもたれかかって、ハーブティを一口飲む。お腹のあたりがじんわりと温かくなるにつれ、引きずっていた焦りや不安が和らいでいった。  僕の気分が元に戻ったことを見計らったかのように、テーブルの上の通信端末から通知音が聞こえた。端末のアドレスはほとんど誰にも教えていない。どこからのメッセージか記憶を辿って、すぐ答えに行き着いた。 【件名】今日はありがとうございました。 【内容】こんばんは。ヒィカです。先ほどはご案内頂きありがとうございました。おかげさまで妹とも合流できて、今は部屋でのんびり二人でお茶を飲んでいます。ついさっき妹と相談しまして、今度レタさんを家に招こうかという話になっているのですが、ご都合が良い日時ってありますか?  僕はテーブルから端末を拾い上げて、ベッドに寝転ぶ。予想通り、今朝連絡先を交換したヒィカからだった。どうやらヒィカは、兄妹で引っ越しをしてきたらしい。  彼のメッセージは話をしたときと同様、距離感は近いものの、気を使っているのが見て取れた。悪く言えば気を使っているとわざわざアピールをしているような文章、とも取れるが、変に取り繕って本論がおろそかになるよりかは数倍ましだった。つまり、僕は彼の文章が嫌いではない。  仕事柄、人の使う言葉がどうしても気になってしまう。とはいえ僕も、偉そうにできるほど立派な文章は書いていないので、評価も程々に返信文を考える。 【件名】RE:今日はありがとうございました。 【内容】こんばんは。合流できたのならなにより。それと、明日から週末まで仕事だからあまり都合はよくないかな。お気遣いありがとう。またの機会に。  遠慮します。の一言に、最大限の装飾を付け加えてメッセージを送り返した。僕は仰向けになって伸びをする。このまま再び寝てもいいが、あと数時間で夕食の時間がきてしまう。もうないとは思いたいが、日に二度も同じ失敗はしたくない。  ベッドに置いてあった本を手に取る。読みかけの小説が表示されたが、今はただ頭を空っぽにして適当に文字を流し読みしたい気分だった。本を操作して一覧に戻り、入っているデータから適当な論文を表示させた。  しばらく目に文字を映していると、通信端末から再び通知音が聞こえた。 【件名】招待の件につきまして 【内容】レタさんが案内してくれたおかげで、ついさっき引っ越し作業が一段落しました。あのまま迷子だったらきっと明け方まで徹夜だったと思います……。それと、表題の件ですが、ちょっと気が早かったですね、すみません。なにかのついででもよいので、またの機会にぜひ、よろしくお願いします。  僕は今まで読んでいた文章と同じようにメッセージを流し読みする。一度本を読むと、なかなか戻って来られない。僕の場合、小説も論文も同じだった。  少しずつ頭をチューニングして、ヒィカからのメッセージを読み返す。徹夜のくだりはどういった意図を持って書いたのか分からなかったが、概ねよい文章といえるだろう。あくまでも僕にとって、だが。  次のメッセージでやりとりが終わる文章を考えはじめたとき、ふと、もう一度ヒィカに会ってみてもいいかもしれない。という思いが湧いて出てきた。もし話が合うようだったら、レベッタが抱いているであろう寂しさについて、第三者から意見を聞けるかもしれない。気まぐれであることに違いはないが、少なくとも会って不快に感じることはなさそうだった。 【件名】RE:招待の件につきまして 【内容】週末の昼頃なら空いているから、A区の喫茶店でお茶でもどう?  メッセージを送って数秒後、すぐに返事が返ってきた。 【件名】RE:RE:招待の件につきまして 【内容】本当ですか! 週末は俺も空いてるので、レタさんの都ご合に合わせます!  誤字を指摘したい気持ちをぐっと堪え、詳しい日時を提案するメッセージを送ってすぐ、通信端末を枕の横に放り投げた。  自然とため息がでる。自分で決めたこととはいえ、これ以上やりとりをすると約束したことを後悔しそうだった。  それから僕は夕食の時間まで本の文字に目を滑らせた。断片的に頭に入ってくる文字が、あの日の出来事を意識させる。きっと、僕自身がそういう言葉を選びとっているのだろう。  レベッタに押し倒されてベッドに寝転んだあのとき、彼女を受け入れていたら、今頃どうなっていただろう。意味のない仮定だと分かっていながらも、頭は勝手に想像を続ける。  腕のなかで眠るレベッタ。それを微笑みながら見つめる僕。もしかしたら強く抱きしめるかもしれない。そして、それに気付いたレベッタも僕のことを抱きしめる。その瞬間、僕はレベッタの体温がたまらなく愛おしくなるだろう。  果たしてそこに、孤独は存在しないのだろうか。  どんなに甘い言葉を交わしたって、どんなに激しく体を交わしたって、僕らは一人。一人ずつ。一人同士の人間だ。  きっとそれらの行為は、孤独を紛らわせているだけなのだ。その瞬間は孤独を忘れられるのかもしれない。だが、限りなく早い速度で迫ってくる孤独の恐怖から逃れるために、言葉と体で孤独を躱し続けなくてはならない。そして、それを続けるためには、同じ思想を持った相手同士でなくては成り立たない。  そうしてまた、ふとした瞬間に、自分は孤独だ。ということを思い出すのだ。  そんなことを繰り返すくらいないら、初めから孤独を受け入れるべきなのではないだろうか。孤独からの開放を求めれば求めるほど、誰かに歩み寄らなくてはならないし、結局は息苦しくなって本当の自分を見失ってしまう。  その瞬間こそ、恐れるべきなのではないだろうか。  それはきっと、孤独よりも寂しくて、一人よりも少ない。つまり、欠けている状態。  もし僕が、レベッタなしでは生きられなくなったとして、そこにはどれほどの恐怖と苦痛が待っているのか。  逆に、レベッタがそうなったとしたら……。  だから僕は―― 「リタ様。ご夕飯はいかがなさいますか?」  コハルの声で我に返る。時計を見ると、確かに夕食の時間になろうとしていた。思っていたよりもずっと考えにふけっていたらしい。 「今日のメニューは?」  僕はいつもと同じようなやりとりをしてオーダーを済ませる。  いつもと同じ。  僕はこれを守るために一人でいたいのかもしれない。  きっとそれはレベッタにとって、なに一つ価値のないことなのだろう。
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