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 週末の昼間。僕はA区の喫茶店でヒィカを待っていた。迷わないよう迎えに行ってやろうかと思っていたが、彼はこの国の移動に慣れたいと言って、僕の迎えを断った。  最初に注文した水に入っていた氷がすべて溶けたころ、ヒィカが店に入ってきた。彼は店内を見回したあと、僕を見つけてゆっくりと歩いてきた。 「すみません、おまたせしちゃって」  ヒィカは控えめな音を立ててイスに座った。すぐさま店員が湿ったタオルとドリンクメニューを持ってくる。 「ブレンド一つ」  ヒィカはタオルだけ受け取った。店員は黙ってドリンクメニューを懐にしまって去っていく。 「静かなところですね」 「この国でうるさいところはないよ」 「そうですか」ヒィカはしきりに辺りを伺う。「ここも、誰もいないんですね」 「うん。店員と僕らだけだね」  ヒィカは着いた安心からか、ふぅと一息ついてコートを脱いだ。 「どう? この国は」 「そうですね……」  コートを背もたれに掛けたあと、ヒィカは口を開いた。 「人混みもなくて過ごしやすいです」 「それはよかった」  僕はほんの少しだけ嬉しくなり、それと同じくらい小さく微笑んだ。 「レタさんはなにか頼まないんですか?」  ヒィカは僕の前に置いてある水を見ていた。 「これを頼んだ」僕は水を一口飲む。 「でもここ、カフェじゃないんですか?」 「そうだね」 「水だけでいいんですか?」 「ちゃんとお金は払ってるから」 「え?」 「美味しいんだ。ここの水」  僕の言葉にヒィカは呆然としていた。 「お水にお金を?」 「うん。そう言ったと思うけど」 「め、珍しいですね」 「そうかな」  彼が言いたいことは分かっていたが、あえて分からないフリをした。きっと、どこでも飲める水なんかにお金を出してもったいないと思っているのだろう。 「よく来るんですか? このお店」  ヒィカは話題を切り替えた。これ以上この話を広げても仕方ないと思ったのならば、懸命な判断だ。僕は彼の判断力に免じて、丁寧に答えてやる。 「たまに、かな。基本的には外に出ないから」 「そうですか」 「この国の人たちは、みんなそんな感じだよ」 「そうみたいですね」 「だからこうして、一緒のテーブルを挟んでお茶を飲む人も滅多にいない」 「それは、レタさんの話ですか?」ヒィカは首をかしげる。 「ううん。この国の人の話」 「なるほど」  つぶやくように言ったヒィカの言葉を遮るように、店員がコーヒーをテーブルに置いた。 「ご注文は以上でよろしいですか?」 「はい。ありがとうございます」ヒィカは頭を下げた。  店員もヒィカと同じくらいの深さでお辞儀をして、音もなく去っていった。 「いい香りだ」  ヒィカは目の前のコーヒーを覗きながら言った。  それから僕たちは、どちらから話すわけでもなく、ぼーっと外の景色を眺めていた。マンションの隙間を縫って届いた日光が、すぐそこの歩道を照らしている。 「いい天気ですね」  ヒィカは穏やかな声色で言った。 「そうだね」僕は短く答える。 「レタさんは、この国に来られてどれくらいなんですか?」 「生まれてからずっとだよ」 「え、そうなんですか?」 「うん」 「この国の人って、みんな外の人かと思ってました」 「じゃあ僕はみんなに含まれてないってことだ」  ヒィカはどういうわけか、急に焦ったような素振りを見せた。 「あ、いや……。気を悪くされたのならすみません。そう噂で聞いていたもので」 「噂?」 「はい。この国に住んでる人のほとんどは、外の国の人って……」 「そのことに関して言えば、その通りだよ」僕は水を飲んだ。「この国に生まれた人は、みんな外に出たがる」 「そのみんなに、レタさんは……」 「もちろん、含まれてない」  ヒィカは照れくさそうに笑った。誘導のような問答だったが、思い通りに僕が答えたことが嬉しかったのだろう。僕はただ、自分が思っていることを言っただけだったが、それで喜んでもらえるのなら悪い気はしない。レベッタと話していたら、こうはならないだろう。 「そうですか」ヒィカは口元を隠すようにコーヒーを飲む。「俺の周りにも、この国出身の人がたくさんいました」 「そっか」 「どうして、みんなこの国を出て行くんですか?」 「孤独が嫌いだから、かな? 多分」 「孤独の国なのに?」 「うん」  僕は手のひらを組んでテーブルの上に置いた。 「君のように、外から来る人は孤独を好んでやってくる。けれど、その人たちが産んだ子どもたちは、親の孤独に付き合わされることになる」  ヒィカは一瞬、眉間に皺を寄せた。僕は気にせず続ける。 「子ども自体、この国にあんまりいないから、学校で友達を作ることも難しいし、偶然近場で遊んでて、そこで友達になるってことも滅多にない」 「じゃあ、誰かに会いたくなって、この国を出て行くんですね」 「そういうこと」 「この国から来た人は、みんな寂しがり屋でした」 「そう」  ヒィカは神妙な面持ちで僕の言葉を聞いていた。少しわざとらしいなと思ったところで、彼はなにかを思いついたような表情になる。 「レタさん」  僕は返事をせずにヒィカと目を合わせた。 「この国で、なにか気をつけることってありますか?」 「気をつけること?」 「はい。例えば、文化の違いとか、法律的なこととか……」  僕は考える。いくつか思いついたが、そのなかでも一番大切なことをまず教えることにした。 「突然だけど、この国の死因ナンバーワンって知ってる?」 「え?」 「この国の人が死ぬ一番の原因」 「えっと……マンションが多いので、落下事故、とか」 「はずれ」  ヒィカは顎に手を当てて考える素振りを見せる。最初の答えで落下死を出すあたり、適当に話を聞いているわけではなさそうだった。  しかし、いくら考えても答えはでなかったらしく、ヒィカは首を振った。 「すみません、分かりません」 「そっか」  僕はうなずく。もったいぶっても仕方がないので、すぐに答えを言った。 「正解は、孤独死」  ヒィカは目を見開いた。 「孤独、死」 「ちなみに、孤独が辛くて死ぬことじゃないよ」 「ええ、それは……。えっと、なにかあっても助けがこない、ってことですか?」 「そう。突発的な怪我とか、病気で倒れたときに、助けてくれる人が近くにいない」 「なるほど」 「だから、この国には暗黙のルールがある」 「暗黙のルール、ですか」 「そう。例えば、知り合いくらいの付き合いの人でも、音信不通になったり、急に姿を見なくなったときは、万が一のために電話で連絡をして、安否の確認をとるんだ。そして、その電話すらとられないときは、通報か、その人の家まで様子を見に行く」 「そこまでするんですか?」 「間に合わなかったらいけないからね」 「間に合わないことはあるんですか?」 「さぁ……。僕はまだ、そういう場面に出くわしたことはないかな」 「そうですか」  ヒィカは口元を緩ませた。 「この国の人って、他人に無関心だと思っていたんですが、違うんですね」  僕はヒィカの言葉の意図が分からなかったので、黙って次の言葉を待った。 「人の命を尊重していることは、とてもいいことです」 「そういうことなら……」僕は腕を組んだ。「他人の命を尊重してる、といえば聞こえはいいけど、実際はちょっと違うと思う」 「どういうことですか?」 「明日は我が身。自分が助かりたいから、やってるってだけのこと」  ヒィカは俯いたあと、黙ってしまった。  この国の在り方を考えれば考えるほど、僕の考え方に合っていて感動を覚える。ヒィカも同じだと勝手に思っていたが、この様子を見ると違ったようだ。  この国に住みたがる人間は、みんな同じような思想を持ってやってくる。しかしそれは、あくまで〝同じような〟で、〝同じ〟ではない。だから最終的に、この国の思想に微調整をする工程が必要になる。そして、それができなかった人間は、この国を去っていく。  ヒィカはなにか考えているのか、俯いたままだった。そのあいだ、僕はなにもすることがなかったので外の景色を眺めていた。 「この店で流れているの、クラシックですね」  不意に、ヒィカがつぶやいた。 「クラシック?」  ヒィカに言われて、初めて店内に音楽が流れていることに気が付いた。わざわざ聞き耳を立てなければ分からないくらい、小さな音量だった。 「サティですよ」 「へぇ」僕は適当にうなずく。 「俺、この曲好きなんです」 「そう」  僕は興味がないことを包み隠さずに相槌を打つ。 「レタさんは聴かないんですか? クラシック」 「うん。そもそも、音楽を聞かない」 「え?」  ヒィカは声にならない声を上げた。 「ほ、本当ですか?」 「うん」 「一度も……?」 「厳密に言うと、こういう店で流れているのは聞くね」  ヒィカは僕を見たまま、イスに背中をもたれた。 「あとは、そうだな、親が聞いているのを聞いたことはある」 「それは、聞こえた。が正しいかもしれませんね」 「確かに、その通りだ」僕は思わず笑ってしまう。 「えっと、それで、例えばレタさんの親御さんが聞いている曲が聞こえて、なにか思ったりしませんでした?」 「なにかって?」 「格好いいとか、綺麗とか」  僕はそのときのことを思い返してみる。 「思想を変えようとする、下品な歌詞が印象に残ってる」 「そう、ですか……」  ヒィカは悔しそうにつぶやいた。
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