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 僕はヒィカの様子をよそに、店員を呼んでもう一度水を頼んだ。二杯目の水が運ばれ、店員が去って行くと、ヒィカは意を決したように僕の方を向いた。 「俺、実は音楽やってるんです」 「へぇ、音楽」 「驚きました?」 「正直」  驚いたことを伝えただけのつもりだったが、ヒィカは照れくさそうに笑った。どうやら僕が彼に一目置いたのだと勘違いしたらしい。  ふと僕は、いつの間にかヒィカから目が離せなくなっていることに気が付く。彼が持つ表情のバリエーションは、今までに会った誰よりも豊富だった。見ていて飽きないと思うと同時に、表情でここまで細かく意思表示をできるのかと感心もしていた。言葉だけが、この世界における唯一のコミュニケーションツールだと思っていた僕にとって、この発見は一つの衝撃だった。 「もともと五番……えっと、芸術の国の出身だったんですが、いろいろあってこっちに来たんです」 「そうなんだ」 「はい。あそこにいる人たちとは、馬が合いませんでした」ヒィカは表情を曇らせた。「本当に、ダメなところですよ、あそこは……」  その表情は、ヒィカにしては珍しい、憎しみを感じさせる表情だった。 「あ。すみません」  自分の表情に気付いたのか、ヒィカは慌てて笑顔を作った。しかし、その笑顔の裏でなにか別のことを考えているのが見て取れた。 「せっかくだから聞かせてよ。外の国の話」  外の国に興味はなかったが、ヒィカがなぜあの表情をしたのかが気になったので話を掘り下げることにした。 「えっと、そうですね……」  ヒィカは一瞬だけ困ったような表情をしたが、それは僕に促されたから仕方なく話すというアピールのための表情に見えた。もしかしたら、外の人間はこうやって表情でも会話ができるのかもしれない。 「レタさんは、芸術ってなんだと思います?」 「さぁ」  僕は考えるフリをした。 「俺は、魂の具現化だと思うんです」 「なるほど」  今の相槌は適当すぎたかと思ったが、ヒィカは気にしていないのか話を続けた。 「だからこそ……魂から生まれるものだからこそ、それに嘘を吐くことはできないんです」  ヒィカの表情に憎しみの色が滲んでくる。 「今、あの国で活躍している奴らは、それを捨てて、評価されるものだけを作って成功しただけなんですよ。つまり、魂を捨てている」 「魂を?」 「そうなんです。俺は、あいつらが許せない」  温厚そうに見える彼から、驚くほどの憎しみが溢れ出ていた。 「それを支持している奴らも、金目当ての奴らばっかりです」 「支持しているというのは、聞いてる人ってこと?」 「どちらかいえば、制作側……いやパトロンのほうが正確ですね。誰が作っても変わらない。同じようなものがあの国には溢れている。売れるからという理由でね」 「でも、お金という対価をもらっているのなら、それが本来あるべき形なんじゃないかな?」 「それは、おっしゃるとおりです。だけど、それが絶対的に正しいものになってしまったら、芸術はこの先どんどん廃れていきます」  ヒィカの表情が曇った。この話をし始めたときの表情だ。 「芸術家も、パトロンも、受け手も、お金が集まるものが一番だと錯覚しているんです。いや、錯覚させられている。芸術家の魂を金に変えるために」  興味があったのもつかの間、彼は自分の後悔を誰かに共有することで解消しようとしていることに気付いた。新しい表情もない。僕は早々に話を切り上げることにした。そもそも芸術自体に興味はないし、それを金にしようがしまいが、どちらでもよかった。 「それで君は、この国に来たってことか」 「はい。そういうことになります」  ヒィカは目をそらして俯いた。もともと居た国が自身のコンプレックスになることは、今の時代よくあることだ。話を切り上げたのは彼にとってもよかったかもしれない。 「あの、すみません。国の話というより、芸術の話でしたね」  ヒィカは冷静になったのか、僕を一瞬見て頭を下げた。 「どの記事で読んだかは忘れたけれど」僕は一応の謝礼として、申し訳程度のフォローをすることにした。「国が掲げる思想が先鋭化して、本来の意味からかけ離れていくってことは珍しくないみたいだよ」  ヒィカはゆっくりと頭を上げる。 「本来の意味、とは?」 「さっき、この国には子どもが少ないって話をしたけど、出生率が低いこともあって、過保護な親が多くなっているんだ。もちろん、無関心な親も一部いるけどね」 「なるほど。子どもには干渉する、というケースもあるんですね」 「そう。子どもは欲しいけど他人と干渉はしたくない。つまり、子どもを育てるチャンスがどうしても少なくなるから、自分の理想を押し付けてしまうらしい」  ヒィカは悲しそうにため息をつく。 「親の孤独に付き合わされる、とさっきレタさんが仰いましたが、それ以外にも親の影響は大きいんでしょうね」 「子どもはとくに、会える人が限られているから」僕はうなずく。「特に身体的な願望に関しては、僕も色々苦労した」 「レタさんも、ですか?」ヒィカは驚いた表情をする。 「うん。親の理想は内面的なことだけじゃないからね。容姿や所作だったり、まぁ、色々とね」 「そうですか……。そんな問題があるんですね」 「でも、これはまだ理由が分かる方かな」  僕はヒィカを見習って、呆れていると伝わるように首を振ってみる。 「最近は、この国に引っ越してきたのに誰彼構わず会いたがる、干渉したがる人が増えているらしい」 「なるほど」ヒィカは苦そうにコーヒーを飲んだ。 「最近は新聞やニュースでもそういったことを煽る記事が増えてきてる。〝あなたは一生、孤独のままでいいですか?〟なんて記事もたまに見るくらい」 「それじゃあ、なんのためにここへ来ているのか分かりませんね」 「嫌なら、ただ出て行けばいいだけなのに」 「確かに、そうですね」ヒィカは僕の言葉を聞いて、自嘲するように笑った。「この国から出て行く人は、どの国に行くんでしょう」 「大体は二番か、三十五番かな」 「三十五番って、どこでしたっけ?」 「天動の国」 「あそこにいくんですか? この国の人が?」 「うん。あそこは自己顕示欲の解消を掲げている。外からは馬鹿にされているみたいだけど、この国で鬱々と暮らしていた人にとっては、理想的な思想なんだと思う」 「想像できないですね……」 「そうかな」 「この国の人は、それでいいって思っている人が住んでいるものだと思っていました」 「それでいい?」 「自己顕示欲がない……いや、目立ちたくない人、ですかね」 「それは、外から来た人だけだと思う」 「確かに、それもそうですね」ヒィカはうなずいた。 「そうだ。本来の意味とかけ離れているといえば、さっき言った二番の国でも、同じようなことが起きているらしい」  僕はすっかり得意になって話した。 「二番目は……」 「愛情の国」 「その国も?」 「愛を与え合うの意味が少しずつ変わっていって、今では貞操観念のない人ばかりが集まっているらしい」  ヒィカは顔をしかめて首を振った。 「結局、どこの国にも歪みはあるってことですね」 「思想は、一人につき一つじゃないから」  ヒィカは片手で目を覆ったあと、大きなため息をついた。 「本当に自分に合った国を見つけるのは、難しいんですね……」  僕はなにも答えずに窓の外を眺めた。この世に生を受けた場所が、自分に一番合う思想を掲げているというのは、実はすごく恵まれていることなのかもしれない。 「でも多分、俺はこの国が一番合うんじゃないかと思ってます」  窓の外に向けた僕の視線を戻すように、ヒィカは話しはじめた。 「俺が好きな芸術家は、みんなこの国に住んでるんですよ」 「そうなんだ」 「なにかを作る人は、孤独を愛する人が多いんです」  僕は適当に相槌を打つ。創作をする人が孤独を愛している、という話は聞いたことがなかった。もしかすると、彼は早々になんでも決めつける癖があるのかもしれない。
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