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「だから俺も、ここで自由に音楽を作ろうと思っているんです」
さっきまで険しかったヒィカの表情は、いつの間にか穏やかになっていた。
「この国は、自分の時間を大切にしている人がたくさんいる」
「そうかな」
「そうですよ」
ヒィカの表情が晴れやかになる。まるで、自分が核心をついたことを言ったかのような表情だった。あまりピンとこないのは、僕が彼の話を聞き流していたからだろうか。
「そういえば、レタさんはどうして、この国に住み続けているんですか?」
念のために今までの会話を思い返そうとしたとき、ヒィカが次の話を始めてしまった。僕は思考回路を元に戻すために、水を飲んで時間を稼いだ。
なぜこの国に住み続けているか。答えは決まっているが、どう言えばヒィカに理解してもらえるだろう。
「……自分を飾らなくていいからかな」
結局、言葉通りなにも飾らずに答えた。
「やっぱり、そうですよね」
ヒィカは思っていたよりも満足そうに頷いた。
「レタさんと出会えてよかったです。本当に」
「それはなにより」
ヒィカは機嫌を良くしたのか、コーヒーをもう一杯頼んだ。店員がコーヒーを持って戻ってきたとき、彼は店員に話しかける。
「この曲、サティですよね」
「ええ」
「お好きなんですか?」
「私はあまり。オーナーがお好きなようで、よくかけています」
「オーナーは今どちらに?」
「本日は休みをいただいています」
「そうですか……。ありがとうございます」
ヒィカが会釈すると、店員は足早に去っていった。
僕はヒィカの発言に耳を疑っていた。彼の言動はついさっき僕が言った〝この国に引っ越してきたのに他人に干渉したがる人間〟そのものだった。やはり彼も、この国にいながら他人との関わりを欲しているのかもしれない。
ただ、それでも僕が席を立つほど不快に思わないのは、彼自身の思想を僕に押し付けようとしていないからだろう。なにかを試されているような緊張感も、自分の話が絶対的なものだと言わんばかりの威圧感もなかった。
ヒィカは一杯目と同じようにコーヒーの香りを楽しんでから、カップに口をつけた。
「いいコーヒーだ」
僕はしばらく、上機嫌でコーヒーを嗜むヒィカを眺めた。なにかを僕に伝えようとしているのかと思うくらい大げさな動きだったが、特に伝わってくるものはなかった。もしかすると、彼は本当にコーヒーを楽しんでいるだけなのかもしれない。
「あ。そういえば」ヒィカは我に返ったような表情になって、通信端末を取りだした。「遅いな……」
誰かからの連絡を待っているのか、ヒィカは腕時計を確認した。
「待ち合わせでもしてるの?」
興味はなかったものの、話を振ってみる。
「妹です。面接が終わったら、ここで落ち合うことになっていたんですけど……」
「え、ここに来るの?」
「はい。レタさんのことを話したら、挨拶したいって聞かなくて」
ヒィカは申し訳なさそうに笑った。
「ちょっと通話してみてもいいですか?」
そう言うと、ヒィカは僕の了承を得ずに妹に連絡をし始めた。僕はその様子を見ながら、適当に帰るタイミングを探っていた。
妹からの反応がなかったのか、ヒィカは不服そうに端末をしまった。
「うーん。まだなにか話してるんですかね……」
「近くの店?」
「はい。この通り沿いにある雑貨店みたいです」
「ああ、あそこの」
「ご存知ですか?」
「一ヶ月に一度行くか行かないかだけど」
「そうなんですね。じゃあ働けたら、そのうち会えるか」
僕は会話が一段落したと思い、一口だけ残っていた水を飲んだ。コップをテーブルの上に置いたとき、ヒィカは鼻から息を漏らすように笑った。
「もうそろそろ行きますか」
どうやら、僕が帰ろうとしているのを察したらしい。ヒィカはコーヒーを一口飲んで立ち上がった。
「今日はありがとうございました」
僕はうなずき、そのまま席を立つ。
「また機会があったら、お茶しましょうね」
「うん」
「すみません、お会計お願いします」
ヒィカは店員を呼びつけ、カードを差しだした。
「あ、僕も払うよ」
「いいですよ。このあいだ案内してもらったお礼です」
「そんなつもりで案内したわけじゃないよ」
「分かってます。これは、俺がそうしたいからそうしているだけです」
ヒィカがうなずいたのを合図に、店員はそのままレジに向かっていってしまった。話してみてなんとなく察していたが、彼は一度決めたら人の話を聞かなくなるタイプのようだ。レベッタにも近しい性質があることを考えると、僕の周りにはそういう人が集まる傾向があるのかもしれない。
「美味しかったです。また来ます」
ヒィカはそう言い残して店から出て行った。僕はなにも言わずヒィカの後ろについていく。
「レタさん。これから雑貨屋に行ってみませんか?」
「今から?」
「はい」ヒィカは輝く目を僕に向けている。
「悪いけど、今日は帰らせてもらうよ」
僕は迷わず答える。ヒィカは残念な気持ちを包み隠さず肩を落とした。
「そうですか……」
「それじゃあ。僕はこれで」
「あ、そしたら俺も帰ります!」
僕が帰ろうとすると、ヒィカは急ぎ足でついてきた。
そのまま僕たちはなにも話さずに街路を歩いた。厳密にいうと、ヒィカがなにかを話したがっている様子だったので、僕は黙ってそれを待っていた。
しばらくして、ヒィカは話しづらそうに口を開けた。
「俺、その……、本当のことを言うと、逃げてきたんです」
特に言うことがなかったので、次の言葉を待った。
「芸術の国で、俺の作った音楽、結構評判よかったんです」
「へぇ」僕は興味なさげに相槌を打った。ヒィカにもそれは伝わっているだろう。
「でも、パトロンがだんだん俺の作品の方向性や売り方に口を出してきて……。よりによって、俺がさっき言ったような、流行っているものに変えろって」
ヒィカがこの話でなにを伝えたいのか、僕には分からなかった。
「裏切られた気がしたんです」
「誰が、なにを?」
要領の得ない話に、少しだけ苛立つ。
「俺はシンプルに、自分がいいと思うものを作ってきました」ヒィカは僕の態度を無視して話を続ける。「パトロンも、そんな俺の作品を気にいっているとばかり思っていました」
ヒィカは首を振った。
「要求を飲めなかった俺に、あいつは言ったんです。お前は、自分のためにしか作品を作れない能なしだってね」
全く簡潔ではないが、僕の質問に答えてくれていたらしい。つまり、彼の作品を気に入って金銭的な支援をしてくれていたと思っていたパトロンが、実は自分の作品を使ってお金儲けをしようとしていたという話らしい。芸術のことはよく分からないが、そういった欲を綺麗に装飾してアウトプットするものだということは僕でも知っていた。だからこそ、ヒィカのようなタイプの芸術家は活動しづらいのかもしれない。
「衝撃的でした。自分の魂を形にしている芸術家は、この国では必要とされていなかったんだと」
ヒィカの目は、この国の人間と同じように光が灯っていなかった。しかし、その奥にはなにかギラついた、黒い炎のようなものが見えた気がした。
「それで失望したんです。あの国の芸術にね」
吐き捨てるように言ったあと、ヒィカは何度か瞬きをする。コマ撮りの映像のように、瞬きをする度にヒィカの目に光が戻っていった。
「すみません。こんな話をしちゃって」
「べつに」僕は首を振る。
「そうですか、よかった」
ヒィカはほっと胸をなでおろす。僕は真面目に聞いていなかったからと付け足したかったのだが、良いように解釈されて会話が終わってしまった。
わざわざ訂正をするほどでもなかったので黙って前を向く。すぐ先にC区の看板が見えた。あまり会話に集中していなかったとはいえ、それなりに時間が経っていたらしい。
「今日はありがとうございました」
分かれ道の前でヒィカは深々と頭を下げる。
「こちらこそ」
「それじゃあ、失礼します」
「うん」
僕は適当に手を振って帰路につく。後ろから足音が聞こえてこなかったので、もしかするとヒィカは僕の姿が見えなくなるまで見送っているのかもしれない。そういえば、レベッタもたまに同じようなことをする。
そんなことを考えながら道を曲がる。そこで僕は、レベッタが言っていた寂しさについて、ヒィカに意見を聞こうとしていたことを思い出した。
僕は今さっき通った曲がり角に戻り、分かれ道を確認する。
しかし、そこにはもう誰もいなかった。
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