第一番 ゆっくりと苦しみをもって Lent et douloureux

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第一番 ゆっくりと苦しみをもって Lent et douloureux

「あなたはこの先も、孤独のままでいられますか?」  僕は手のひらサイズの通信端末が映す広告文を読みあげた。目を覚まそうと声に出してみたが、思った通りの効果は得られなかった。窓から差し込む光を見るに、もう朝がきてしまったらしい。  根が張っているように重い上半身を起こす。いつも起きている時間より数分早い。  遅れて、中途半端な時間に送られてきた広告メッセージに苛立ちを覚えた。しかし、どんな文言だったかはもう思い出せない。 「コハル」  返事は返ってこなかった。僕の声は、薄暗い部屋に吸い込まれていく。  端末を持ったままベッドから降りて、部屋の真ん中にあるテーブルへと向かう。タイルの床がひんやりとしていて、気持ちがよかった。  テーブルに端末を置くと、身震いをするように一瞬だけ振動した。どうやらコハルもこのタイミングで目を覚ましたらしい。 「おはようございます。リタ様」通信端末からコハルの声が聞こえる。 「おはよう」  天井に吊るしていたライトが灯り、部屋がほんの少しだけ明るくなる。床と壁は真っ青なタイル張り、天井は打ちっ放しのコンクリート。物置だった部屋を無理やり居住部屋にしたと大家からは聞いているが、この無骨さといい、無機質さといい、毎日住んでも飽きないくらい僕好みのワンルームだった。 「お食事はどうされますか?」  僕は再び端末を手にとる。画面には『トースト』『シリアル』と表示されていた。 「トーストで」 「かしこまりました」  画面が切り替わる。『ハムエッグ』『ベーコン』『ベリージャム』の表示。 「今日のトーストって、いつもの?」 「はい。C区のパン屋で仕入れたものです」 「じゃあ、トーストだけでいいや。あとは紅茶を持ってきて」 「かしこまりました」  また画面が切り替わる。『準備中』と表示されていた。  配膳に十分以上掛かるときはコハルがそう言ってくれるので、きっとすぐに朝食が運ばれてくるだろう。いつもはここで一息つくが、今日はそういうわけにもいかないらしい。僕は端末をテーブルに置いて、洗濯機を回すことにした。  シャワールーム前のドアに置かれた、服でいっぱいになったカゴを抱える。最近は雨続きだったせいで、これでもかというほどに洗濯物は溜まっていた。  ベランダに続くガラス戸を開けるのと同時に、濡れた土と草の匂いがした。昔、幼なじみとよく遊んでいた公園の匂いを思い出して、懐かしい気持ちになれる。僕がここに住むことを決めた理由の一つだ。  湿り気のあるスリッパを履いてベランダに出る。身を隠すように設置されている洗濯機に服を投げ入れ、洗剤を入れて適当なボタンを押す。洗濯機は気の抜けた電子音を鳴らし、気だるそうに駆動しはじめた。  朝食までにやらなくてはならないことは終わったので、手すりが乾いているところを探して両肘をつき、そのままアパート裏の公園をぼーっと眺めた。  公園といっても、二階にある僕の部屋からでも隅まで見渡せる程度の広さで、遊具もない、ただの緑地だった。昨年までは、モチーフの分からない網目状の球体のような遊具があったが、それで子どもが怪我をしたという理由で撤去されてしまった。  大体そういった土地にはすぐに買い手がついてマンションが建つのだが、広さが中途半端なことと、この地区があまり人気がないこともあって、一年間緑を保ち続けている。 「リタ様」  部屋の方からコハルの声が聞こえる。端末越しに喋ったのだろう。僕はサンダルを脱いで部屋に戻った。 「ごはん?」 「はい。お持ちしました」 「分かった。今開けるよ」  僕は最低限の会話をして、玄関のドアを開けた。 「トーストと紅茶をお持ちしました」 「ありがとう」  コハルはたどたどしくトレイを差しだした。僕はそれを慎重に受け取る。 「レモンをお付けしたのですが、よろしかったですか?」 「ああ、そっか。言い忘れてた」  トレイを見ると、ティーカップの隣に輪切りのレモンが小皿で添えられていた。僕がいつもレモンティーを頼んでいるので、気を利かせてくれたらしい。 「大丈夫。これでいいよ」 「かしこまりました。それでは失礼いたします」  コハルは恭しくお辞儀をして僕の部屋から去っていった。僕はいつものようにコハルが転ばないか、外廊下から階段を降りるところまで見守って玄関のドアを閉めた。  トレイをテーブルに置いてイスに座る。すぐに仕事のことを思い出し、手を伸ばしてベッドの袖机にしまってある開閉式の薄型パソコンを取りだした。  幼なじみからは化石のようだと揶揄されるような古い型のパソコンだったが、表示画面と入力端末が上下に分かれており、それを重ねるように折りたためるので片付けやすく、一目見て購入を決めた愛用品だった。  電源ボタンを押すと、すぐに画面が光った。部品やソフトウェアはさすがに互換性がなかったので取り替えている。画面には『起動中』と表示されていた。  僕はパソコンが起床をするあいだに朝食をとることにした。起きたては僕も頭が回らない。その点でも、このパソコンに親近感を持っていた。  トーストを半分ほど食べたあたりで、パソコンは操作を受け付けるようになった。そのまま会社のソフトをいくつか立ち上げる。一昨日片付けたはずの仕事が、休日を一日挟んだだけなのに一昨日の倍くらい溜まっていた。  僕は現実逃避をするために会社のソフトを閉じ、メッセージソフトを立ち上げた。仕事は始めていないから、今はまだプライベートの時間だ。と自分に言い聞かせる。  と言っても、なにか真新しいメッセージが届いているわけでもなく、いつものように機材や食品の広告を流し読みして削除した。  いつもより早く仕事を始めれば、それだけ早く終わることができる。やることもなくなったので仕事を始めてしまおうか。と考えはじめたのと同時に、パソコンからメッセージを受信した旨を知らせる通知音が鳴った。  広告業界ではあえて中途半端な時間に送るのが流行っているのかと思ったが、メッセージの送り主は幼なじみからだった。  彼女が僕にメッセージを送ってくるときは、ほとんどが今から会えないかという旨の内容だ。ただ、こんなに朝早くにメッセージが来るのは、この時間に送られてくる広告と同じくらい珍しいことだった。 【件名】おはよー 【内容】話したい事があるから今から会えない?  予想通りの内容ではあったが、会うことに理由をつけている部分だけはいつもと違っている。小さな違和感を覚えつつ、僕はメッセージを開く前から考えていた断りの文言で返信をする。  このまま彼女とメッセージを送り合ってもいいが、返信を待つあいだは結局なにもすることがない。僕は気持ちを切り替えて会社のソフトを開き直した。  最後の一口だったトーストを紅茶で流し込み、会社に勤務開始の申請を送ろうとしたとき、彼女からメッセージが届く。 【件名】RE:RE:おはよー 【内容】最近断ってばっか どうせ用事って仕事でしょ?  彼女は僕の仕事について、なにか勘違いをしているらしい。家でする仕事とはいえ、会社からはパソコンの操作を常にチェックされているし、しばらく入力がなかったり、報告なく離席するとすぐに確認の連絡が飛んでくる。トイレや郵便物の受け取りですら報告しなくてはならないし、休憩も一秒単位で管理されている。つまり、人と会う余裕などないのだ。  返信文を考えていると、ベランダから電子音が聞こえた。どうやら洗濯が終わったらしい。丁度よかったので、洗濯物を干しながらメッセージを練ることにした。  頭の中で申し訳なさそうにしている自分を想像する。こうすると、自分が思っているよりも気の利いた文章が書けるような気がした。  洗濯物を干し終えて部屋に戻り、メッセージの返信文を入力していく。 【件名】RE:RE:RE:おはよー 【内容】悪いとは思っているけれどサボれない仕事だから。夜なら会えるけど。  送信ボタンを押してからメッセージソフトを閉じ、すぐに会社へ出勤の申請をした。「おはようございます」という機械的な効果音が鳴ったあと、勤務時間が一秒単位で記録され始める。  準備運動がてらすぐに終わりそうな仕事からこなしていき、件数的に半分をこなしたころ、パソコンの横に置いてあった端末からコハルの声がした。 「あと十分で十二時になります。お食事はどうなさいますか?」 「今日のメニューは?」僕は仕事をしたまま尋ねる。 「本日はカルボナーラのパスタ、ハンバーグ、野菜炒めがございます」 「ハンバーガーはない?」 「具材はいかがなさいましょう」 「ビーフパティとベーコン、レタスとトマト。マスタードっぽいソースだと嬉しいかな」 「材料がありませんので、少しお時間をいただきます」 「どれくらい?」 「二十分ほどいただきます」 「じゃあそれで」 「かしこまりました。お飲み物はどうなさいますか?」 「炭酸のやつがいい」 「コーラとソーダがございます」 「じゃあ、コーラで」 「かしこまりました」  最低限の情報を交換して、僕とコハルはそれぞれ仕事に戻った。コハルとの会話には、明確な理由と目的がある上に、無駄がないからストレスなく話すことができる。  コハルとの会話で乱れた集中が戻りかけたとき、部屋のインターホンが鳴った。  この国で事前連絡のない来客はほとんどない。定期便の配達かとも思ったが、確かそれも来週だったはずだ。  もしかするとコハルかもしれない。なにかが噛み合わず、急に部屋まで配膳しに来ることが数カ月に一度のペースであるからだ。  僕は会社へ休憩する旨を伝えて席を立つ。コハルがハンバーガーを持っている姿を想像しながら、玄関のドアを開けた。  しかし、そこに立っていたのはコハルではなかった。予想外の来客に、僕は呆然とする。  そんな僕を見て、彼女はくすくすと笑った。
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