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 週末。ひどく雨が打ち付ける音で目が覚めた。数分ほど雨の音を聞いたあと、今日はヒィカと会う約束をしていたことを思い出す。少しだけ憂鬱な気持ちになったが、それだけで予定をキャンセルするのは気が引けたので、意を決して体を起こした。  ベッドから降りてすぐ、テーブルに広げられた便箋が目に留まる。手紙はほとんど書けているのだが、サプライズとしてヒィカのサインをプレゼントしようかと思っていた。ヒィカに断られたらそれまでだが、もしそれを送ることができたら、レベッタもきっと喜ぶだろう。 「おはようございます。レタ様」  生活音から感知したのか、通信端末からジプタの声が聞こえた。 「おはよう」 「朝ごはんはいかがなさいますか?」 「シリアルで」  僕は通信端末の画面を見ずに答える。 「和食、洋食もございますが……」 「ゆるめのヨーグルトもつけて」 「それだけでは、必要な栄養素がとれません」 「だからなに?」 「レタ様の健康が守れなくなります」 「別にいいよ」 「かしこまりました」  ジプタがそう言った瞬間、通信端末の画面に『準備中』と表示された。コハルはここまでしつこくなかったのに、ジプタはそれが自分の使命かのように毎回別の食事を提案してくる。今のニーズに合った機能なのかもしれないが、僕にとっては余計なお世話だった。  これから、こうしたやり取りが増えていくのかと思うと気が重くなる。きっと僕も、やめて欲しいことをしつこく伝えれば減っていくのだろうが、コハルと同じくらいスムーズに意思疎通をするためには、相当な会話量が必要になってくるだろう。  コハルのバックアップがあれば、とも思ったが、大家の様子だとなにも残していないだろう。それにコハルの体も、もうこの世にない。  僕は気持ちが落ちる前に自分の書いた手紙を手に取る。誤字脱字がないか確認していると、すぐに朝食が運ばれてきた。 「お食事をお持ちしました」 「ありがとう」 「シリアル用のミルクもお付けしておきました」  トレイを見ると、シリアルとヨーグルトのほかに、ミルクが入った小瓶が乗っている。 「気を使ってもらったところ悪いけど、ミルクは飲めないんだ」 「大変失礼いたしました。回収いたします」  懇切丁寧に謝罪するジプタに小瓶を返して、早々に玄関のドアを閉めた。このまま話していると、また憂鬱な気持ちになってしまいそうだった。  テーブルにトレイを置いて、イスに腰掛ける。雨の音は依然強いままだった。今日はきっと一日中雨だろう。僕はヨーグルトをかけたシリアルを食べながら、ヒィカのことを考える。  会ったときの第一声はきっと、天気についてだろう。彼はいつも天気や気温など、他愛もない話題から始めることが多い。そして僕の調子を聞いたあと、毎回同じような文言で励ましてくれる。人によっては適当に感じるかもしれないが、僕はアンドロイドと話しているようで気が楽だった。もちろん、そう思うのが失礼だということは分かっているので、一度もヒィカに伝えたことはない。  ただ、そのあとの話は多岐に渡る。ヒィカ自身の創作の話や、この国の話、故郷から去ってしまった友人の話やミィの話をすることもある。正直、どの話題も興味はそそられないが、ヒィカが話している表情や身振り手振りを見ていれば、不思議と飽きはこない。  本当に、不思議だった。どうして僕は、とくに中身があるわけでもないお茶会に毎度のこと出席しているのだろう。  気が付くと、朝食を食べ終わっていた。これといって不味くもなく、美味しくもない。なんとも無機質な食事だった。  僕は立ち上がり、そのまま体を傾けてベッドに倒れる。 「ジプタ」 「お呼びでしょうか」 「十二時過ぎに起こして」 「かしこまりました」  最近、特にヒィカに会う日は、こんな風に時間を潰すことが多くなっている。本を読んだり、散歩に行く気にもなれない。ただこうして、時間が過ぎていくのを待つことしかできない。少し前の僕からは考えられない時間の潰し方だった。  雨の音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じる。水の中に落ちていくかのように、僕の意識は沈んでいった。  昼になり、ジプタの声で目が覚める。 「レタ様。十二時を少し過ぎました」 「おはよう」 「おはようございます。昼食はどうされますか?」 「外で食べるから、いらない」 「かしこまりました」  僕は体を起こして上半身だけ伸びをした。そういえば、今回のことに限らず、最近は外食が多くなったように感じる。  ヒィカとの約束の時間まではまだ少しあるが、早めにA区の喫茶店へ行くことにした。あそこは確か、サンドイッチなどの軽食もあったはずだ。  ロングコートを羽織り、レインブーツを履いて玄関のドアを開けた。玄関前の手すりに掛けてあった傘を持って階段を降りる。 「いってらっしゃいませ」  不意にジプタの声が聞こえたので辺りを見回す。しかし、ジプタの姿は見えなかった。 「本日は雨ですので、足元にお気をつけ下さい」  そこで僕は、胸元にしまってある通信端末から声がしていることに気が付く。 「驚くからやめてくれない?」 「かしこまりました」  ため息をついて傘を広げる。雨足は少しだけ弱まっているようだが、それでもいつもより強い雨だった。  雨の中、聞き耳を立てながら無人の道を歩いていく。近くで鳴っている雨の音、遠くで鳴っている雨の音。幾重にも重なるような雨音は、喫茶店で流れている音楽よりもよっぽど心が落ち着いた。  雨音を聞きながらの散歩を楽しみ過ぎたのか、思っていた時間よりも遅れて喫茶店に着いた。時刻はちょうど、ヒィカと約束をしていた時間だった。 「いらっしゃいませ」  店に入ってすぐ、店員が挨拶をしてくる。 「すごい雨だね」  ヒィカの第一声だと思っていた話題を振ってしまい、僕は思わず笑ってしまった。 「こんな豪雨は三年ぶりですかね」  店員は訝しげに僕を見つつも、世間話を続けてくれた。 「そうだね。それくらいだと思う」  傘立てに傘をしまい、壁にあるハンガーにコートを掛ける。店員はいつの間にか、僕たちがいつも座っている席にメニューを置いていた。 「そういえば、先に誰か来てない?」 「いつも一緒にいらっしゃる方ですか?」 「うん」 「今日はまだ見ていませんね」 「そっか」  ヒィカも僕と同じように、雨の音に聞き入って遅れているのかもしれない。僕はオーダーをしながらイスに座り、一息つく。  上がり気味だった息が落ち着いてきたころ、店員がオーダーしたメニューを持ってやってきた。 「コーヒーとサンドイッチになります」  コトン、コトンと皿を置く音が響く。 「以上でよろしいですか」 「うん。ありがとう」 「それではごゆっくり」  店員は頭を下げて立ち去った。僕はその様子を見ながらコーヒーを飲む。最近になって、この店の水の味が変わってしまったので、代わりにコーヒーを飲むようにしていた。  窓の外を見る。雨が霧のようになっていて、いつもは見えているはずの建物も見えなかった。  僕はヒィカを待ちながら、ゆっくりとサンドイッチを食べた。相変わらず味が薄いが、家で食べるものよりかはマシだった。  サンドイッチも食べ終わり、コーヒーのおかわりを注文する。  時計を確認すると、約束の時間からすでに三十分以上過ぎている。彼の性格からして、一秒でも遅れようものならすぐにでも連絡をしてきそうだが、そういった連絡も一切ない。  念のため、僕のほうからも通話をかけてみたが、ヒィカからの反応はなかった。 「コーヒーをお持ちしましたが……」  顔を上げると、店員がコーヒーを持ってきているところだった。僕の表情を見て、なにかを察したのかもしれない。 「悪いけど、お会計いいかな」僕は立ち上がってコートを羽織る。「それも払うよ」 「救急センターに通報しましょうか?」 「いや、ここの近くで妹が働いてるはずだから、まずはそっちで聞いてみる」  僕からカードを受け取った店員は、小走りでレジへ向かう。 「緊急ですので、おかわりのコーヒー代は結構です」  店員はそう言いながら会計を済ませて、僕にカードを返した。 「ありがとう。また来るよ」 「お待ちしてます」  傘を持って店を出たあと、急ぎ足でミィが働いてる雑貨店へ向かった。ドアを開けてすぐ、ミィの溌剌とした声が聞こえる。 「いらっしゃいませ。あ、レタさん」 「今日、ヒィカと会った?」  ミィは目を丸くして固まってしまった。今言った言葉を思い返し、自分が思っている以上に焦っていることに気付く。僕は小さく謝って、一度頭の中で言葉を整理した。 「えっと、今日ヒィカと会う約束してたんだけど、まだ来てなくて」 「え、来てないですか? お兄ちゃん、朝は楽しみにしてましたけど」 「そっか。来れない心当たりとかない?」 「そうですね」ミィは一瞬考えるような素振りを見せたが、すぐに思いついたような表情になる。「お薬飲んでました。多分、睡眠薬かな」 「睡眠薬?」 「はい。私が出る直前まで作業をしていたみたいで……。でも、今日は昼過ぎからレタさんと会うからちゃんと寝なきゃって」 「なるほど。それなら……」  ミィの話を聞く限り、睡眠薬を飲んで今現在も寝ているという説が有力な気がした。彼の生活サイクルまでは知らないが、不規則で寝る時間もバラバラだと聞いたことがある。  きっと、バイオリズムが合わずに寝過ごしているのだろう。  ミィと目が合った。とても不安そうにしている。僕は反射的に目をそらして窓の外を見ようとした。  しかし、窓に反射していた僕の顔も、ミィと同じような表情だった。 「兄に、なにかあったんでしょうか?」 「分からない……」  嫌な予感が、じわりと体に染みていく。 「そうだ。アンドロイドは?」 「いえ、二人暮らしなので……」ミィは首を振る。「ヘルスケア系の機械も、兄は付けたがらなくて」 「緊急通報の条件づけは?」 「一応、部屋のドアの開閉間隔でお互いの端末に通知が来ますけど」  そう言いながら、ミィはレジカウンターに置いていた通信端末を確認しに行った。 「どう?」 「特に来てません。でも、部屋に篭もるときは何時間も出てこないこともあるので、長めに設定してて……」  目眩がした。足元がふらつく。 「でも、朝は楽しそうに話してたんですよ」 「そっか」ミィに心配させてはいけないと平静を装う。「やっぱり寝坊してるのかな」 「だと、いいんですけど……」  一瞬、会話に不自然な間が空いた。そこで僕は、自分の心臓の音が大きく鳴っていることに気付く。  本当に、ヒィカは寝ているのだろうか。 「やっぱり私、家に……」  ミィが言い切る前に、僕は走りだしていた。
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