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「レタさん!」  ミィの声を背中で聞きながら全速力で走る。数歩走ったところで傘を忘れたことに気付いたが、今は少しの時間も惜しい。さっきまでぼーっとサンドイッチを食べていたことを後悔する。いや、そんなことを考えている場合ではない。  もう一度ヒィカに通話をかける。しかし、聞こえるのは呼び鈴だけだった。そのまま画面を切り替えて、救急センターにつなぐ。 「お電話ありが――」 「一番!」  音声ガイドの説明を無視して、救急のコールセンターにつながる番号を叫んだ。 「こちら救急センターです。どうされました?」  女性の肉声が受話口から聞こえた。僕は息を切らしながら要件を伝えていく。 「友人からの連絡が途絶えました」 「その方は今どこにいるか分かりますか?」  僕は半年前、ヒィカを送り届けたときのことを必死で思い出す。 「彼の自宅です。C区の……、五丁目の二番地のえっと……」 「マンションの名前か、識別番号、識別マーカーは分かりますか」 「マーカーが、確か赤二本と黒一本だったはずです」 「あなたは今どちらにいらっしゃいますか?」 「A区六丁目です。ここから……もうすぐC区の四丁目に入ります」 「あなたのお名前をいただいてもいいですか?」 「レタです!」 「出動の準備が整いました。今から現場に向かいます」 「どれくらいでつきますか?」 「五分二十三秒の予定です」 「分かりました!」 「只今、おそらくご友人のご家族からも通報がありました。正確な住所も分かりましたのでご安心ください」  どうやらミィも同じような通報をしたらしい。今思えば、通報はミィに任せてもよかったかもしれない。 「それでは一度、電話を切らせていただきます」 「分かり、ました。よろしくお願いします……!」  僕は息も絶え絶えに電話を切り、走る速度を早めた。雨とレインブーツのせいで、思うように走れない。タクシーも考えたが、ここまでくればもう走ったほうが早い。冷静な判断ができていないと分かっていても、今はただ、自分の体を前に進めることしかできなかった。  雪崩れ込むようにしてヒィカのマンションに駆け込み、警備室のドアを叩く。すると、すぐに屈強な警備員が一人現れた。 「友人からの連絡がないんです!」 「レタさんですね。今さっき連絡が入ったので、部屋に向かいましょう」  警備員はエレベーター横にある階段から上の階へのぼっていった。全速力で走ったせいで足はもうまともに動かない。でも、僕の体は勝手に警備員を追っていた。  警備員は三階で階段を逸れ、廊下を走りだした。僕は警備員の姿を見失うギリギリのところをなんとかついていった。自分の呼吸がうるさいせいで、周りの音が遠くなっている。  ヒィカの部屋と思われるドアを警備員が叩いていた。僕はふらつきながら足を止めて、ようやく息を整える。  呼吸音で聞き取れなかったが、警備員が一言なにか言って胸ポケットから鍵を取りだした。先に警備員が部屋の中に入る。一瞬僕の方を見てなにか言ってきたが、上手く聞き取れなかった。酸欠で、頭がぼーっとしているせいもあるかもしれない。  僕は警備員に続いて玄関をくぐった。先に入った警備員は家の奥、おそらくリビングらしきところから次々とドアを開けて様子を確認していた。  ただ、僕にはなぜか、彼のいる場所が分かった。  もしかしたらそれは、偶然だったのかもしれない。  玄関から一番手前の部屋のドアノブに手を掛けて、ゆっくりとドアを開ける。  そこに、ヒィカはいた。  僕はゆっくりとヒィカの元へ近づき、膝をつく。彼がうつ伏せになって倒れている床には、いくつもの錠剤と、吐瀉物が散らばっていた。  目を見開いたまま、寸前の苦しさを残して弛緩した表情。首筋には、爪で引っ掻いたような跡があった。  僕の息は整いはじめ、呼吸の音も静かになり始めているのに、なにも聞こえなかった。  警備員の腕が後ろから伸びてきて、そのまま僕を抱えて部屋の外へ連れだそうとした。僕はどういうわけか離れたくなくて、必死に抵抗した。しかし、警備員の力に敵うはずもなく、すぐに玄関の外に投げだされた。それと入れ替わるように救急隊員がヒィカの家に入っていく。  それから、目や耳から入ってくる情報の一切が認識できなくなって、気が付いたときには一階の警備室のソファに座っていた。警備員にヒィカのことを聞くと、数分前に救急車で運ばれていったとのことだった。  僕は警備員に礼を言ってマンションをあとにする。傘を持っていなかったので警備員に一度呼び止められたが、適当なことを言って外にでた。ミィが帰ってくるまで待ったほうがいいと頭では分かっていたが、体がふわふわとして、動かさないと落ち着かなくて、とにかく、どこかへ行きたいという気持ちだけで歩いた。  そういえば、傘は雑貨屋に置いてきてしまったのだった。コートも濡れている。今度クリーニングに出さなくては。ミィはこっちに向かっているのだろうか。無料にしてもらったコーヒーのお礼は、ヒィカと一緒にするのが店員も安心するだろうか。  雨の音が聞こえる。  雨の音以外、なにも聞こえない。  彼は、  死んでしまったのだろうか。  そう思った瞬間、体に力が入らなくなり、僕はその場に倒れこんだ。大粒の雨は絶えず、そして容赦なく僕の体を打ち付ける。  レベッタを見送ったときに似た感覚が、僕の体にじんわりと染みていく。なにかが欠けてしまったような、今見ている景色に、ぽっかりと真っ黒な穴が空いているような喪失感。  今まで触れることのできた人たちが、目の前から消えていく。  当たり前にあったものが、なくなっていく。  僕は一体、どうしてこんなにも傷ついているのだろう。倒れるヒィカを、その表情を見てしまったからだろうか。それとも、失ってしまうから?  失う?  僕はなにを失おうとしているのだろう。  そもそも僕は、なにを手に入れていたのだろう。  思い出?  共感?  体温……?  それらを失うことのなにが怖いのだろう。  僕の一部が、欠けてしまうから……?  そこで、気付いてしまう。  僕は、歩み寄ってしまったのだ。  そしてそれが、当たり前のことになっていた。  平穏に目を覚まして、安心して眠りにつく。その当たり前を守れていたから、満足していた。油断していた。けれど、そのなかに少しずつ、レベッタのことを考えたり、ヒィカと過ごすという当たり前が紛れ込んでいた。日常の一部になっていたのだ。  それは自分の、僕の日常の一部のはずなのに、僕の手が届かない場所で勝手に消えてしまう。  それは、僕自身が最も恐れている欠けた状態。一人では、僕一人では自分を満たせない状態。  苦しい。  悲しい。  虚しい。  痛い。  ふと、無機質な声が聞こえた。  そうだ。この声は……。  目を開けると、ミィが僕のことを覗きこんでいた。 「レタさん」  ミィは泣いていた。傘をさしているので、雨が伝っているわけでもなさそうだった。 「風邪、引きますよ」  彼女の声で、僕の頭は思考の世界から現実に引き戻されていった。  僕は道路の端で仰向けに寝転んでいた。近くにタクシーがあるので、自宅に帰ろうとしているミィが見つけたのかもしれない。  ミィは傘を二つさしている。一つは彼女自身に、もう一つ、僕が雑貨屋に忘れていった傘は、僕の頭の上に。 「ここは、どこ?」 「C区の……多分四丁目です。うちのマンションから連絡があって、急いで帰るところで」  どうやら僕は、無意識のうちに雑貨屋へ戻ろうとしていたらしい。彼女から傘を受け取って、立ち上がろうとする。 「あ、レタさん!」  よろけて転びそうになった僕を、ミィが支えてくれた。 「ごめん、足が……」  全速力で走った疲労なのか、体がとても重く感じた。 「でも、もう大丈夫。ごめん、濡れちゃった」 「それは全然いいです」  ミィは服の袖で涙を拭った。 「帰りながら、マンションの管理人さんにいろいろ聞きました」 「ヒィカの、様態は?」 「あまり、よくないと」 「そっか」  僕はそれ以上、なにも言えなくなってしまった。  後ろから、タクシーのクラクションが聞こえる。 「あ、行かなきゃ」  ミィは僕の手を掴んだ。 「今から、行き先を変えて病院にいくところだったんです」 「病院……」  ヒィカは今ごろ、応急処置をされながら病院についたころだろうか。確かに、救急車で運ばれたとなれば、病院に行くのは普通の行為だろう。  ただ、僕が今の今までそれを思いつかなかったのは……。  倒れているヒィカが一瞬フラッシュバックする。 「レタさん?」  ミィが顔を覗きこんできた。僕は慌てて首を振る。 「いや、なんでもない。行こうか」  そのまま、僕とミィはタクシーに乗って病院へと向かった。着いてすぐミィの名前が呼ばれ、僕はその付添人として一緒に案内された。その際、流石に濡れそぼった格好で病院を歩くわけにはいかないので、病院着とタオルを貸してもらった。  そのあと、僕たち二人は案内された集中治療室前のベンチで時間が過ぎるのを待った。 「……レタさん」  どれくらいの時間が経ったか分からないなか、不意にミィがつぶやいた。 「なに?」 「兄は、レタさんのことを、とても気に入ってました」 「……そうなんだ」  どうして今、こんな話をするのだろう。 「だから、レタさんがこうして、兄のことを想って色々してくれて、喜ぶと思います」  ミィは俯いていた顔を両手で隠した。 「私も……。感謝してて……」  抑えきれない嗚咽が、ミィの喉元から聞こえる。彼女も冷静ではないのだろう。 「私、今日はきっと仕事が終わるまで気付けなかったから」 「それを言うなら、僕だってもう少し早く気付くことができた」  ミィは僕に体を預けてきた。僕は自然と、ミィの体を抱きしめていた。傷の舐め合いだと分かっていても、こうしてお互いをただ慰めることしかできなかった。  そして数時間後、僕たちの気持ちが落ち着いてきたころに、ようやくヒィカの顛末が告げられた。
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