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 ヒィカの死から二日後の昼間、なんの前触れもなく部屋のインターホンが鳴った。泥をまとったような気だるさを引きずりながら、玄関のドアを開ける。するとそこには、しかめっ面をしたミィが立っていた。 「レタさん、どうしたんですか?」 「それは、こっちのセリフだけど」 「だって、その……ひどい顔ですよ」 「僕を貶しにきたの?」 「あ、いえ、違うんです!」ミィは慌てて首を振った。「今日はその、兄のことでいろいろ報告がありまして」 「報告?」 「はい。でも、その前に……」ミィは僕の髪の毛を触った。「レタさん、ちゃんとお風呂入ってますか?」 「なに、突然」 「だって、髪の毛もボサボサだし、肌も荒れてますよ」  僕はなにも言い返せなくなる。実際、ミィの言うとおり二日前に病院から帰ってきて以降、ほとんどなにもしていなかった。仕事もずっと休んでいる。 「そんな状態じゃ、話せるものも話せません」 「……分かったよ」  僕は急に恥ずかしくなり、ミィを招き入れたあとシャワールームのドアを開けた。 「あ、レタさん」 「今度はなに?」 「服、そこで脱ぐんですか?」 「そうだけど」  ミィは焦っているのか玄関のドアノブに手をかけていた。 「僕の部屋、更衣室ないから」 「そう、なんですか……」 「恥ずかしいなら目でも瞑っておいて。イス、座ってていいから」 「分かりました」  ミィは素早くイスを回転させ、僕に背を向けて座った。  僕はため息をついたあと、服を脱いでシャワールームに入った。  この二日間、ミィが来る瞬間までほとんど記憶がなかった。ジプタと話したような気もするし、一人でなにかをつぶやいた気もする。会社に休むことを伝えたのは間違いないのだが、どんな理由で休みをとったのかも全く覚えていなかった。  早々に髪の毛と体を洗い終えて、シャワールームのドアに手をかける。 「あがるよ」  僕はそう言いながらシャワールームのドアを少し開けて、隙間から部屋の様子を伺った。部屋にはなぜかお茶を運んでいるジプタと、相変わらず後ろ向きに座っているミィがいた。 「なに、どうしたの?」  僕は思わずたずねる。 「すみません。レタさんの通信端末から声がしたのでお話してたら、お茶を持ってきてもらうことになっちゃって……」 「来客用ですので、料金は追加されません」  ジプタは二人分のカップを置いたあと、僕に語りかけてきた。 「悪いけどジプタ。今度からそういうことはやめてくれない?」 「かしこまりました」 「それも頻度落として」 「かしこまりました。以後気をつけます」  そう言って、ジプタは部屋を去っていった。僕はさっとタオルで体を拭き、近くに掛けてあった部屋着に着替える。 「なにを頼んだの?」  僕は髪の毛をタオルで拭きながらカップの中身を見る。 「ハーブティを頼みました。すみません、勝手なことしちゃって」  ミィは振り向いて僕の様子を確認したあと、イスの向きをテーブルの方に戻して座り直した。 「勝手なことをしたのはジプタだから」僕はベッドに座った。「それで、報告って?」  ミィは僕の方を向いてにこやかに笑った。 「今日は、報告することがたくさんあるんです」  その笑顔は、いつも彼女がする笑顔よりも穏やかな印象だった。 「兄の葬式の日取りが決まりました」 「そっか」  僕は改めて、ヒィカが死んでしまったことを実感する。 「いつやるの?」 「明後日です」 「明後日か」 「私たちの故郷でやろうと思ってるんです」 「え?」 「だから今日は、レタさんにお別れを言いに来たんです」  呆然として、言葉が出てこなかった。 「これから、兄と一緒に実家に帰ります」 「今日、行くんだ」 「はい」  芯の通った声で、ミィは返事をする。 「もう支度は終わってて、あとはこの国を出るだけです」 「そうなんだ」  僕はゆっくりと、何度もうなずいた。 「レタさんも、いらっしゃいますか?」 「行きたいけど」僕はため息をついた。「僕は、パスポートを持ってないんだ。今から発行しても、間に合わないと思う」 「そうですか」  ミィは残念そうにつぶやいた。 「本当に、もう行くの?」 「はい」  当たり前だが、ミィの返事は変わらない。  どうして、僕の周りに居る人は、突然去ってしまうのだろう。それならばどうして、僕と出会ったのだろう。そして、これからいなくなるという瞬間に、どうして僕に会いにくるのだろう。どうして、僕に名残惜しい気持ちを味わわせてから、去っていくのだろう。 「一応ですが……死因は窒息死でした」  僕の考えていることを無視して、ミィは話しはじめる。 「窒息死って」 「睡眠薬の服用量を誤ったせいで、吐き気がでてしまい、吐いたものが気管に……」 「あ、いや、詳しく聞きたいわけじゃない」  僕は首を振った。 「実家でも、薬の服用量を間違って倒れることはあったんです。だけど、いつもなんだかんだ無事でしたし、私もきっと気が緩んでいたんだと思います」ミィはふっと笑った。その表情は、ヒィカが自嘲するときの表情とそっくりだった。「兄は目が悪くて、なにかを身につけるのも嫌だからってメガネもしないで、だから、どこかにぶつけたり、間違った薬を飲んだり、よくあったんです」 「そうなんだ」 「この国では、通信端末から生活音を聞いて、生存確認をしてくれる機能があるんですよね。私、病院でそんなものがあるって知りました。もしも、もっと早くそれを知っていれば……兄は助かったかもしれません」  これは、それを教えなかった僕のことを責めているのだろうか。いや、ミィのことだから知らなかった自分を悔いているのかもしれない。二人暮らしの安心感もあって、後回しにしたり、しっかりと調べていなかったのかもしれない。  彼女にしては珍しく、脈絡のない話だった。落ち着いているように見えるのは、外面だけなのかもしれない。  僕は窓の外を見る。今日の天気は快晴だった。  どこかで、ヒィカの死はフィクションなのではないかと思っていた。  しかし、ミィの口から出たヒィカの死因は、これ以上ないほどに現実的だった。人は死ぬということを、認めざるを得ないほどに。 「ヒィカがもし、この国に来ていなかったら、結果は変わったかな?」  僕もミィと同じように、しても仕方のない〝もしも〟の話をしてしまう。僕自身も、冷静ではないのかもしれない。 「それは」ミィは目を伏せた。「分かりません。どの国に行っても、同じだったかもしれません」 「そっか」 「悔しいです。私が、私さえいれば大丈夫だと思っていたのに……」  ミィはくちびるを噛んだ。涙をこらえている、いや、後悔が溢れないように耐えているのかもしれない。 「そういえば、だけど」  僕は話題を変えることにした。どうにも、ミィがつらそうにしている姿は見ていられなかった。 「ミィはどうしてヒィカと一緒に来たの?」 「私、ですか」ミィの表情が驚きに変わる。「そうですね……」  ミィはハーブティを一口飲んだ。 「兄が、孤独だったからです」 「ヒィカが?」 「はい。兄が音楽家なのは、聞いていましたか?」  僕はうなずいた。 「故郷の国では、兄は音楽家としてある程度名前が知られていました。兄自身もそれに誇りを持っていましたし、この先もずっと音楽を作り続けると言っていたんです」  ミィは悲しそうに笑う。 「だけど、ある日を堺に……理由は分からないんですけど、兄はこの国に蔓延していた拝金主義を罵倒しはじめたんです」  きっと、初めて喫茶店で話したときにヒィカがしていたパトロンの話だろう。どうやら、ミィには話していないらしい。 「それから、兄の音楽はめちゃくちゃになって、出資をしてくれた人も、兄の音楽が好きでいてくれた人も、みんな離れていきました」 「それだけの理由で?」  ミィは少し間をあけたあと、ゆっくりとうなずいた。 「きっとみんな、兄の才能にだけ、惚れ込んでいたんだと思います」 「そんなものなのかな」 「ええ……。あとは、音楽以外のことはあまり上手じゃなくて、それ以外の人間関係が築けなかったのも原因だと思います」 「それはもしかして、お国柄?」 「え?」 「いや、そういう人間関係の話って、大体は国の思想が絡んでることが多いから」  この国の孤独と同じように。 「そうですね」ミィは手を顎に持ってくる。「確かに、故郷では芸術の才で人間の価値が決まるくらい、重要視されてますから……。才能がない分野では人は集まらないかもしれません」 「なるほど」  そこでふと、疑問に思う。 「ミィも、なにか芸術はするの?」  ミィはにこやかな表情で首を振った。 「絵がちょっと描けますけど、あとはダメダメでした」 「じゃあ、ミィも孤独だったの?」 「私は、そうですね。才能がないと割りきっていたのがよかったのか、友達は多かったです」 「そうなんだ」  僕は納得する。きっと彼女には、コミュニケーションの才能があったのだろう。 「兄は、音楽で得た人間関係を失ったんです」  僕の考察をよそに、ミィは話を進める。 「だから、この国に来たんです」 「一緒に?」 「はい。音楽のない兄の価値に気付いていたのは、私だけでしたから」 「じゃあ、ヒィカが孤独だった瞬間はないのかもね」  なんの気なしに言った言葉だったが、ミィはとても嬉しそうにうなずいた。 「ありがとうございます。そうだったらいいなって思います」  ミィは僕をじっと見つめたあと、手を握ってきた。 「レタさんも、音楽とは別のところで兄の価値に気付いてくれた人だと思うんです」  確かに、彼の作る作品に興味がなかったのは事実だった。ヒィカにとってそれがよいことなのか悪いことなのかは分からないが、いろいろな意味で幸いだったのかもしれない。 「さっき、兄がこの国に来ていなかったら……ってお話をしましたけど」ミィの両手に力が込められる。「やっぱり、兄はこの国に来ることを選んでいたと思うし、兄の価値に気付けるレタさんとも、どこかで会えていたと思うんです」 「必然だったってこと?」  ミィはうなずいた。仮定に仮定を重ねた話だったが、そもそもこの話自体が〝もしも〟の話だったことを思い出す。それならば、都合の良い〝もしも〟があってもいいのかもしれない。  僕たちを取り巻く雰囲気は、穏やかなものだった。  そのはずだった。  なのに、どうしてだろう。胸の奥で、なにかがうごめいている。
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