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 僕はどうしようもなくなって俯く。床に敷き詰められたタイルを見ながら、できるだけなにも考えないように努めた。なにかから目をそらしている。そんな予感がしてならなかった。  ヒィカは、芸術の国でどんな人生を送っていたのだろう。  ミィはこれから、どんな人生を送るのだろう。  いや、考えてはいけない。  レベッタは今、なにをしているのだろう。  駄目だ。考えるな。  ミィはもう、この国に戻っては来ないのだろうか。 「あのさ、ヒィカがこの国で書いた曲、残ってない?」 「え? 兄の曲、ですか?」 「うん」  僕は顔を上げずにうなずいた。うごめいているなにかに気付く前に、関係のない話をして意識をそらさなくては。  ミィは逡巡したような息づかいをしたあと、残念そうにつぶやいた。 「やめておいたほうがいいと思います」 「どうして?」  感情が落ち着いてきたので顔を上げる。 「きっと、兄も聴かれたくないと思います」 「それは、さっきの才能の話?」 「いえ、単純に……その、私が言えたことではないと思うんですけど、完成品とは言えないものばかりでして」 「完成品はないの?」  この会話に意味がないことは、分かっていた。 「はい。私はそう思います」  僕が話したいことは、音楽のことじゃない。 「ヒィカは言っていたんだ。作品は魂だって」  なんの話をしているのだろう。僕は遠回りな話が嫌いなはずじゃないか。 「そうですね、私もそう思います」  彼女に言わなくちゃ。 「彼の魂を受け止めたいんだ」  会話が途切れるのが怖い。 「でも……やっぱりできません」 「そっか」  僕はうなずく。そもそもこれは、僕がしたい話じゃない。  深呼吸をする。思考がどこかに行っている。目の前の会話に集中しなければ、ミィにも、ヒィカにも失礼だ。 「それじゃあ、私はこれで」 「うん」  僕は微笑んだ。  彼女も微笑み返す。  ミィはゆっくりと立ち上がり、まっすぐ玄関の方へ歩いて行く。  僕は彼女に別れの挨拶をしようと立ち上がった。 「ねぇミィ。僕たち、一緒に住まない?」 「え?」  振り返るミィと目が合う。彼女の表情には、綺麗に驚きだけが表現されていた。  僕は今、なんて言った?  住みたい? 僕が? ミィと?  きっと、さようならと言ったのを二人とも聞き間違えてしまったんだ。そうに違いない。僕が誰かと一緒になることを望むなんて、ありえない。僕は、孤独の国の住人なのだから。  ミィは固まったまま動かなかった。僕もどうしていいか分からず、ただ静かな時間だけが過ぎていった。  言わなくちゃ。二人とも聞き間違えたねって。ミィが困っているじゃないか。 「えっと……」  沈黙を破ったのはミィだった。 「嬉しいです。そう言っていただけるのは」  僕はその言葉を聞いて我に返る。 「いや、ごめん、今のは……」 「否定しないでください」ミィは僕に手のひらを向けた。「レタさんの言葉、とても意味がある言葉だと思います」  僕はついに耐え切れなくなり、視線を逸らした。 「だけど、レタさんと住むことはできません」  ミィは曖昧にしたくないのか、一言一句きっぱりと言い切った。 「私も、レタさんのことは好きですけどね」 「そう」  ミィの答えに安堵している自分がいることに気が付いた。この一言で、一体僕はどれだけの矛盾を生んでしまったのだろう。 「兄の葬儀もありますし……。それに、この国にいるのは寂しいです」 「やっぱり、故郷で暮らしたい?」 「はい」  ミィは短くそう答えた。 「理由はそれだけ?」  余計なことだと気付く前に、口をついて言葉がこぼれてしまった。 「あとは、そうですね……」  ミィは淑やかに笑った。 「レタさんには、兄の恋人になって欲しいなって思っていたんです」 「……そっか」  それが、優しい嘘だとすぐに分かった。彼女なりに、オブラートに包んでくれたのだろう。 「それは、君にとって重要なこと?」  ミィは質問の意図を察したのか、一瞬だけ口を結んだ。 「はい。少なくとも、私にとっては」 「そう」  僕はうなずいて彼女の元まで歩いた。 「ありがとう。ミィ」  僕が差し伸べた手を、ミィはじっと見つめた。 「レタさんは、それでいいんですか?」 「うん」 「分かりました」  ミィはそっと、僕の手を握った。その握手で、言葉にできない決意のようなものをお互いに伝えられた気がした。 「元気で」 「レタさんも」 「僕はずっと変わらないよ」 「そうですね」  ミィはくすくすと笑いだし、僕もそれに釣られて笑ってしまった。こんなにも愉快で楽しい気分になったのは初めてかもしれない。そしてそれが、人によってもたらされたものだと考えると、余計に可笑しかった。  僕はそのまま手を離し、玄関のドアを開けた。 「関所までの道は、大丈夫?」 「はい」 「そっか。じゃ、お気をつけて」 「ありがとうございます。お邪魔しました」  ミィは頭を下げて靴を履き、外廊下へ出た。 「さようなら、レタさん」 「うん。さようなら」  ミィは満足気にうなずいたあと、僕の元から去っていった。いつもの来客と同じように、彼女が階段を降りるところでドアを閉める。  その瞬間、自分の世界に帰ってきたような気がして、思わずため息をついた。  誰もいない、僕だけの世界に帰ってきた。  そうだ。帰ってきたのだ。  僕は今まで、別の世界に旅立っていた。  子どものころ観た映画のように、ちょっとした冒険をしていたのだ。  だけど、それも今日で終わり。  僕は、孤独の国へ帰ってきた。  帰ってきた。  帰ってきた……。  しかし、心には正体不明の穴が開いている。  人との関わりの末に、失ったもの。  僕はこの数カ月で得たものも、今まで大切にしてきたものもすべて、失ってしまった。  いや、そうではない。きっと、得た瞬間に今まで持っていたものを手放していたのだ。僕はそれに気付けなかっただけ。そしていざ、得たものもなくなって、手元が空いたときに、ようやく自分の足元で砕けているものに気が付いた。ただ、それだけの話だ。  それは、価値観であり、感性であり、性質でもある。  得て、失って、その結果変わってしまった僕は、果たして僕なのだろうか。それを判断するのは、一体誰なのだろうか。  ゆっくりと、自分の棲んでいる部屋を眺めてみる。  無機質なこの部屋は、住み始めたときとは打って変わって、僕になにかを訴えけているように感じた。  無関心で、なにも詮索してこないはずの、僕の部屋。  それが今では、矛盾を抱えている僕を責めているような気がしてならなかった。どうして今になって、こんなにも居心地が悪いのだろう。この部屋は、本当に僕が選んだ部屋なのだろうか。  馬鹿馬鹿しい被害妄想なのは分かっている。分かっているのに、ずっと一人でいた僕を見てきたはずの部屋に気付かされるこの事実が、痛々しい形で僕の心を突き刺してくる。  僕は一人ではなくなってしまった。それと同時に、独りになってしまった。  静寂。  誰の生きている音も、聞こえない。  ゆっくりと苦しみをもって、  ゆっくりと悲しさをこめて、  ゆっくりと厳粛に、  それは、やってくる。  怖くなって、大げさに呼吸をする。  大丈夫。息をしている。だから僕は、  生きていると、言えるのか?  生きているけど、死んでいる。  これは、レベッタの言葉だ。  そうだ。  手紙。  レベッタにまだ手紙を送っていなかった。ヒィカのサインを送ろうとして、ついには叶わなかった。  助けを求めるように、レベッタに書いた手紙を探した。ヒィカが亡くなってから二日間、放心状態だったからか、手紙が見当たらない。  最終的にベッドの下で見つけた便箋は、握りしめたようなシワが入っていた。書き直そうか悩んだが、一刻も早くレベッタの返事が欲しくて、そのまま送ることにした。 「ジプタ」  テーブルの上に便箋と封筒を広げて、ジプタの名前を呼んだ。すぐに通信端末からジプタの声がする。 「なにか御用でしょうか」 「手紙を送りたい。速達で」 「かしこまりました。お部屋に伺います」  僕は封筒にレベッタの家の住所を書き込み、シワの寄った便箋を折る。  そのとき、ふと、便箋に一番綴りたい言葉が浮かんだ。  レベッタと続けていた文通のなかで、一度もこの言葉を書いたことはなかった。それは僕が望んでいないこともでもあったし、きっと彼女も望んでいないことだと思っていた。  でも今は、心の底からそう思える気がした。僕はペンを握り直して一言、手紙の最後に書き加えた。 ――君さえよければ、会いたい。  散々、彼女と会うことを避けていた僕が、こんなことを書くとは思ってもみなかった。なんとも格好のつかない、とても僕らしくない言葉だとは分かっていても、いち早くレベッタにこの言葉を伝えたかった。  部屋に来たジプタに手紙を渡し、速達だと念を押して伝える。コハルよりも高性能であることは間違いないけれど、どうにも信用ができなかった。  再び玄関のドアを閉める。今度こそ本当に、一人の時間だ。  いろいろなことが終わった開放感と、喪失感で心が軽くなったような気がした。いや、脆くなった、という表現のほうが正しいのかもしれない。  おぼつかない足取りでベッドまで歩き、うつ伏せで寝転んだ。  レベッタも、ヒィカも、ミィも、コハルも、僕は目の前からいなくなった。  一度空いた喪失感は、治るどころか大きくなっていく。  僕はなぜ、一人なのだろう。  僕はなぜ、この国に生まれたのだろう。  僕はなぜ、この国で生きていられるのだろう。  それならば、僕はなぜ、涙を流しているのだろう。  誰も答えてくれない静寂のなかで、僕のすすり泣く声だけが、ただ響いた。
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