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しばらく僕が鳴らすキーボードの音だけが部屋に響いていた。隣の部屋の生活音も、外を走る車の音も聞こえない。
もしも今日目覚めた世界が、僕と、レベッタと、コハルだけの世界だと言われても信じてしまえるような静けさだった。だからこそ、レベッタは僕に会いに来たのかもしれない。
この国が守る心地よい沈黙を聞きながら、黙々と仕事を進めていく。近くに人がいる状態で働くのは初めてだったが、思っていたよりも集中することができた。
「ねぇ、レタ」沈黙のような優しい声が聞こえる。
「なに?」
「本当に、寂しくないの?」
「寂しくないね」
僕は仕事の手を休めることなく答える。
「どうして?」
ついさっきも同じやりとりをした気がするが、レベッタは納得していなかったのだろう。僕はより具体的に、正直に答える。
「そもそも、寂しくなったことがないから分からないよ」
「寂しくなったことがない? だって今、レタは一人なんだよ?」
「レベッタと一緒にいるけど」
「そういうことじゃなくて」レベッタは語気を強めた。「もっと、なんていうか、精神の話」
レベッタの言いたいことが理解できなかったのでなにも答えなかった。
「私が帰ったら、一人じゃん」
「そうだね」
「そしたら、レタは一人だよ?」
そこで僕は、レベッタが言いたかったことの意味が少しだけ分かった。
「人は、みんな一人だよ」
「二人になりたいよ」
「それも結局、一人と一人だ」
後ろから微かに、コーヒーを飲む音が聞こえる。
「私たち、一緒になったら絶対に幸せになれるよ」
「そうかな」
「名前もちょっと似てるし」
なんの脈絡もない理由で、思わず笑ってしまった。
「それは、関係ないと思う」
「そうかな……」
レベッタの質問にもめげずに仕事を進めたおかげで、今日のノルマはほとんど終わった。あとは潰れた文字を目視で解析するだけの、比較的楽な仕事だけだった。
僕は会社に仕事内容と、場合によっては作業の手が止まる旨を報告した。
「どしたの?」
レベッタが右肩に顎をのせてきた。延々と鳴っていたキーボードの音が止んだので気になったのだろう。
「仕事の種類が変わっただけ」
僕は体を左にずらして右肩を開放した。レベッタもすぐベッドに座り直す。
「今更だけど、仕事っていつもなにやってるの?」
「翻訳業」
「それは知ってる」
僕はモニターに表示されているひしゃげた文字をじっと見つめた。
「最近は機械翻訳できない古典が多い。あとは、機械が読めなかった文字の解読」
「機械にも分からない文字ってあるんだ」
「昔は文字も手書きだったからね」
「手書き?」
「レベッタって本とか読む?」
「まぁ、雑誌とか、辞書くらいは」
「昔、本は紙で出来てたんだよ」
「ああ……。それで手書き」
「今はほとんどが機械入力だけど、昔はそういうわけにもいかなかったから」
「ミミズみたいな文字」
レベッタはいつの間にか立ち上がって、僕の頭の上からモニターを見ていた。
「一応、社外秘のデータなんだけど」
僕は解読した文字を入力し、次の文字を表示させた。
「なるほど、人によって癖があるから機械で簡単に読み取れないってことか」
「そういうこと」
レベッタがこの仕事に理解を示してくれるチャンスだと思い、いつもより丁寧に説明してやる。会えない理由も、少しは理解してもらえるだろう。
「つまらなそう」
そんな僕の算段をレベッタは一蹴した。こればかりは、レベッタの関心を見誤った僕のミスだ。
朝の段階で途方もなく積み上がっていたはずの仕事は、あと二割ほどしかなかった。僕はすっかり気の抜けたコーラを飲んで、解読を進めていく。
「そういえばさ」
レベッタが急に笑いはじめた。
「あの機械にリタって呼ばれてない?」
「コハルね」
僕の訂正を聞いていなかったのか、レベッタはくつくつと笑い続けていた。
「どうしてあんな風に呼ばせてるの?」
「自己紹介したときに、僕の滑舌が悪かったみたいで聞き間違えたみたい」
「再登録は?」
「面倒だし……それに、今更言っても気まずい」
レベッタの笑い声が止んだ。
「気まずいって、相手は機械でしょ?」
「コハルだよ」
「信じられない。あのね、機械に人格はないんだよ」
「人じゃないからね」
解読していた文字がどうしても分からなかったため、不明と登録して次の文字にとりかかる。
「小さいころ、よく遊んだんだ」
「誰と?」レベッタがベッドに寝転ぶ音が聞こえた。
「ああいう、アンドロイドと」
「……ああ、そう」
レベッタはそれきり喋らなくなった。仕事のことに続いて、アンドロイドとの距離感を伝えるいい機会だと思ったが、またしても判断ミスをしてしまった。なかなかどうして、レベッタに僕のことを伝えるのは難しい。
興味を持ってもらえない会話をしても仕方がないので、僕もそれきりなにも言わず仕事に集中をした。
外が暗くなりはじめ、レベッタが部屋の電気をつけたころ、ようやく仕事を終わらせることができた。いつもより一時間多く働いたが、その分の給与は支給されるので悪い気はしない。
報告書を送信し、退勤の申請をしてパソコンの電源を落とす。仕事が終わったことを察したのか、レベッタは僕の顔を後ろから覗きこんできた。
「終わったの?」
僕はうなずく。
「やっぱり、退屈だった」
「僕と一緒になったら、毎日こんな感じだけど」
僕はパソコンを折りたたんで、ベッドの袖机にしまった。
「確かに、そうなるね」
「それに、休みの日も大体こんな感じ」
レベッタはイスに座っている僕の横にしゃがみこんた。
「ねぇ、レタ」
「なに?」
上目遣いのレベッタと目が合う。
「他の国へ行く気はない?」
「うんって言うと思う?」僕は笑った。
「だよね」レベッタは無表情のまま立ち上がった。「あのさ、これからご飯食べにいかない?」
レベッタの提案を飲むか考える。構わないという気持ちと、面倒くさいという気持ちが半分ずつ均等に分かれていた。
「夜なら会えるって言ってた」
レベッタは淑やかに笑った。
「分かったよ」
僕は観念して立ち上がり、通信端末を手にとった。
「コハル」
端末の画面にデフォルメされたコハルのアイコンが映しだされる。
「いかがなさいましたか?」
「今日の晩ごはん、外で食べるからいらないよ」
「かしこまりました」
「うん。それじゃあ、行ってくるね」
「夜は肌寒くなるとの予報です。お気をつけていってらっしゃいませ」
僕は通信端末をテーブルに置いた。
「今のアンドロイドって、そんなことまで話せるんだ」
「そんなこと?」
「夜は肌寒いって」
「そんなの、僕たちが生まれたときからあった機能だよ」
「そうなんだ……」
感心しているレベッタをよそに、僕は外へ出る支度をした。
「それで、行くところは決まってるの?」
レベッタは自慢気にうなずく。
「E区2丁目のバーがいいかなって」
「うん。じゃあ、そこにしよう」僕はベッド横のクローゼットから薄手のコートを取りだす。「肌寒いらしいけど、なにか羽織る?」
「お構いなく」
レベッタは手を振って、そそくさと部屋を出て行った。肌の露出が多かったので心配をしたのだが、余計なお世話だったようだ。
僕はコートを羽織って電気を消し、レベッタのあとを追った。
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