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 日はほとんど沈んでいて、立ち並ぶマンションのエントランスの光が通りをぼんやりと照らしていた。見る限り人はおらず、僕たちの足音だけが辺りに響いている。きっと、E区に行ってもこの静寂は変わらないだろう。  隣を歩いていたレベッタが、ショートパンツのポケットから煙草の箱を取りだした。 「吸ってもいい?」 「どうぞ」  レベッタは手慣れた手つきで煙草を咥え、火をつけた。  彼女が吐いた煙がコンクリート色に溶けていく。優しく吹いていた風のおかげで、僕の方に煙がくることはなかった。 「ここ数年、本気で笑ってないなぁ」 「なにそれ」脈絡のない話に僕は笑う。 「どんな映画とかドラマを見ても、虚しくてさ」  きっとこの会話に意味はないのだろう。そういった類の話をするはいつも、彼女はほんの少しだけ微笑む。 「虚しいって?」  意味のない会話は嫌いだが、目的地までの暇つぶしには丁度いいかもしれない。僕もレベッタと同じように少しだけ微笑んで、球のない会話のキャッチボールをすることにした。 「どんなハッピーエンドでもさ、自分と重ねちゃうの」 「珍しい楽しみ方だね」 「最近そうなったって話。どんなにいいお話を観ても、私の生活はなにも変わらない」 「だから面白いんじゃないの?」 「どういうこと?」 「だって、観た作品がそのまま自分の世界に影響を及ぼしたら、気軽に好きな作品を観られなくなるし、あらゆるものが破綻していくよ」 「破綻すればいいのに」 「それが目的なら、映画を観るのは遠回りだ」  レベッタは煙草の煙を吐いた。それがため息なのかは分からなかった。 「レタには夢がないの?」 「夢?」 「将来こうなりたいとか、あれが欲しい、とか」 「さぁ……」 「私は愛が欲しい」 「そう」 「レタは欲しくないの?」 「なにを?」 「愛」  僕は空を見上げて、答えを考える。 「愛ってどんなもの?」  レベッタは答えなかった。まばらな足音が会話の隙間を埋める。 「分からないよ」  レベッタが小さくつぶやいた。 「分からないから、それが欲しいの」  彼女の答えに、今度は僕がなにも言えなくなってしまった。  分からないものが欲しい。とは、一体どういうことなのだろう。それがどんなものか分かっているからこそ、欲しくなるのではないだろうか。分かっていないものを手に入れて、それがいざ自分の思っているものと違ったとき、彼女は納得するのだろうか。 「それって、本当に愛じゃなきゃ駄目なの?」  レベッタは吸い終わった煙草を道端に捨てた。 「愛じゃなきゃ、駄目なの」  僕は捨てられた煙草から目を離して前を向く。もうすぐそこに、目的の店が見えていた。 「お店のおすすめは?」 「レタが好きそうなのは多分、ピクルスかなぁ」 「ピクルス? 食べたことない」 「甘いカクテルに合うから、気に入ると思う」 「お酒は飲まないよ」 「いいじゃん。今夜くらい」  レベッタは店の前までスキップをしたあと、ドアを開けて僕を招き入れてくれた。店の中は薄暗く、光の弱い照明が間隔を空けて設置されている。場所によっては足元が完全に見えないところもあった。 「電球切らしてるのかな?」  僕はレベッタに耳打ちした。レベッタは機嫌が良さそうに笑ったあと、バーカウンターにいた店員に挨拶をした。 「いらっしゃいませ」  低い声をした店員がバーカウンターから出てくる。体格がしっかりとしていたので少し威圧感があったが、所作は上品で丁寧だった。彼の雰囲気から、もしかすると店の照明は雰囲気作りのために敢えてしているのではと気が付く。 「予約してたんだけど」 「レベッタ様、ですね。こちらへどうぞ」  店員は僕たちを店の奥にあるテーブル席へ案内する。 「ハンガーが後ろにございますので、よければお使いください」 「どうも」  なぜかコートを着ていないレベッタが返事をして、僕に目配せをする。安いコートなのでイスの背もたれにでも掛けようと思っていたが、もしかするとコートをハンガーに掛けることがこの店の決まりなのかもしれない。僕は意味もなく大事そうにコートを掛けた。 「本日のおすすめはこちらになります」  僕が席についたことを確認すると、店員は上質な紙で作られたメニュー表を広げ、そこに書いてあるアルコールを二つ順番に指さした。 「いかがなさいましょう?」 「どうする?」  レベッタは翻訳者のように同じことを僕に尋ねる。 「任せるよ」  僕がそう言うと分かっていたのか、レベッタは悩むことなく二人分の注文を済ませた。外国のお酒なのか、僕にはレベッタが呪文を唱えているようにしか聞こえなかった。  詠唱が成功したのか、店員は深々と頭を下げてバーカウンターに戻っていった。 「普段はこないの? こういう店」  レベッタと目が合う。どういうわけか、僕の部屋にいたときよりも彼女が色っぽく見えた。 「こないね」僕は肩をすくめてみる。 「一度もないんだ?」 「就職祝いに、レベッタと行ったとき以来かな」 「ああ、あのとき」  レベッタは微笑んだ。  あれは確か、もう五、六年前だろうか。僕の就職が決まったと聞いたレベッタが、どうしてもお祝いがしたいと半ば押し切られる形でレストランに行ったことがあった。高層マンションに併設されているお店で、高いところから一望できるマンション群の灯りは、今でもたまに思い出すくらいに綺麗だった。 「懐かしいね。あのとき、二人とも初めてお酒を飲んだんだよね。そういえば」 「そうだっけ?」 「そうだよ。私がお酒好きになったのは、あのときのお酒が美味しかったせいなんだから」  レベッタの話を聞いて、そのとき彼女と話したことを思い出す。 「そっか。そうだった。僕はちょっと強めのお酒を頼んじゃって……」 「そうそう。どっちもお酒のことなんて分からなかったから、店員さんのオススメを頼んだ」 「でもあの人、度数が高いなんて言ってなかった」 「言ってたって」レベッタはくすくすと笑った。「帰り道、送っていくの大変だったんだから」  その日、どうやって家に帰ったのかは覚えていないが、レベッタが僕の家まで送り届けてくれたらしい。ただ、その日の帰り道にレベッタから一緒に住もうと誘われ、僕は断った。その記憶だけ、おぼろげながらも覚えている。 「私の思い出にはね、いつもレタがいる」 「そうなんだ」 「レタの思い出に、私はいる?」  僕とレベッタでは、おそらく思い出の定義が違うような気がした。僕はそれを思い出とは呼ばず、記憶と呼んでいた。 「思い出っていうのは、誰かと一緒になにかをすることで生まれるの」  レベッタは僕の返事を待たずに話しはじめた。 「だから、私の思い出はレタばっかり」 「人がいないと思い出にはならない?」  レベッタは煙草を取りだして火をつけた。 「知らないけど……。一緒の記憶を持つから、思い出になるんじゃない?」  どうやら彼女の定義では、僕が記憶と呼ぶものも思い出に分類されるらしい。
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