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「おまたせしました」
会話の小さな隙間をついて、店員が料理とお酒を運んできた。僕とレベッタの前にカラフルなカクテルを一杯ずつ慎重に置く。感嘆の声をあげるレベッタをよそに、ピクルスをはじめとしたいくつかの小皿も置いていった。
「ご予約の料理はどうされますか?」
「出来上がったら持ってきて頂戴」
「かしこまりました」
レベッタはコハルには言わなかった礼を店員に伝えた。
「さ、飲も。せっかく会えたんだから」
レベッタはまるで今日が特別な日かのように言って、グラスを目線の高さまで持ち上げた。僕も彼女にならってグラスを持ち、お互いのグラスを軽く触れさせる。
「乾杯」
「乾杯」
一口飲んだだけで、このカクテルが上質なものだと分かった。普段飲まない僕が分かるくらいなのだから、レベッタは相当このカクテルに惚れ込んでいることだろう。
「美味しいでしょう」
レベッタはうっとりとした様子で笑った。
「うん、驚いた」
「私、カクテルは飲まないんだけど、ここのだけは飲むの」
「そうなんだ」
「これも食べてみたら?」
レベッタはグラスを持っていない手でフォークを持ち、ピクルスを頬張る。僕はレベッタの様子を伺ったあと、グラスからフォークに持ち替えて大きめのピクルスを頬張った。不思議な味ではあったが、間違いなく美味しかった。
「どう?」
「そうだね。とても美味しい」
「そう」
レベッタは満足そうにうなずいた。
「レベッタはよく来るの? こういうお店」
「うん。あの日、お酒にハマってから、いろんなお店に行った」
「いいところはあった?」
「たくさん」
レベッタは灰皿に置いていた吸いかけの煙草を口にする。
「でも、あの日のお酒が一番美味しかったな」
煙を吐きながら、レベッタは遠い目をしていた。彼女の目に僕が映っていないような、そんな錯覚をしてしまう表情だった。
「レタ」
「なに?」
レベッタは微笑んだ。どういうわけか、今日の彼女は感情が読めない。楽しくて笑っているのか、僕の機嫌を損ねないための気遣いなのか。ただ、どちらにせよ、彼女らしくない所作だった。
「食べ物、苦手なものとかある?」
「苦手なもの?」
「嫌いなものは食べたくないでしょ?」
「まぁ、そうだけど」僕は考える。「ミルクが飲めない」
「え、そうなの?」レベッタは目を見開いた。
「小さいころに腐ったのを飲んじゃって、そのときから苦手」
「そうなんだ」レベッタは一瞬、バーカウンタの方を見た。「甘いものは大丈夫?」
「それは大丈夫」僕はうなずく。
「そっか。ならよかった」
レベッタは煙草の火を灰皿に押し付けて消した。
「レタのそういう話、もっと聞きたい」
「そういう話って?」
「好きなこと、苦手なこと」
「残念だけど、もうないよ。それ以外好き嫌いはない」
「じゃあ、なにか別の話でもいい。レタの話、聞かせて」
僕は頭の中で話せそうなことを探しはじめる。僕の毎日はいつも同じで、特別話せるような記憶はなかった。そもそも、なにか起きても日が経つとすぐに忘れてしまう。
「じゃあ、僕がどうしてあの部屋に住んでるのかって話は?」
レベッタは口をへの字に曲げた。
「つまんなそう」
「やめとく?」
「ううん。今日はレタの話を聞きにきたから」
そんな目的があったのならば、事前に知らせておいて貰いたかった。そうすれば、いくつか話題を用意できただろう。こういう話のときはいつも、最終的にレベッタが自分自身の話をはじめて会話が終わる。今回も同じようなパターンだと思っていたので、すっかり油断をしていた。
「レタはどうして、あんな部屋に住んでるの?」
レベッタは煙草に火をつけた。それで少しでも暇を潰してもらえるのならばありがたい。
「あの無機質なところがいいんだ」
「そう」
興味がなさそうにレベッタは相槌を打った。
「無関心というか、余計な詮索をしてこない感じがいい」
「部屋が無関心?」
「そう。誰が住んでいるかなんて気にも留めてない」
「当たり前でしょ? 部屋なんだから」
「でも、僕に対して余計な気遣いをしてこない部屋は、あそこしかなかった」
「床も壁も真っ青なタイルの物置部屋で?」
「うん」
「日の光もろくに入ってこないのに?」
「うん」
「台所も居間も寝室も一緒の部屋で?」
「うん」
「脱衣所もなくて、ドアを開けたらすぐにシャワールームでも?」
「うん」
「部屋に玄関があって、部屋の中で靴を脱ぐんでしょ?」
「うん」
「豪華な食事もないのに?」
「うん」
「それが、無関心な部屋?」
「うん」
レベッタは今日一番の深いため息をついた。
「呆れた……」
「どういたしまして」
「レタってさ、もしかして人にも同じことを望んでる?」
「そうだね」
「そっか」
煙草の煙越しに、レベッタの笑顔が見えた。
「この国の人だね、レタは」
「レベッタもそうだよ」
「私はこの国の住人じゃない」
「それは……精神の話?」
「そうね――」
レベッタが口を開いた瞬間、店内の照明が突然消えてしまった。窓から差し込んだ月明かりが店内の一部を切り取っている。
「停電かな?」僕は小声でレベッタに尋ねる。
「ねぇ、レタ」
表情は分からなかったが、レベッタの声は落ち着いていた。
「今日がなんの日か、覚えてる?」
「今日?」
「そう。今日はレタにとって特別な日」
目の前に小さな火が点った。いつの間にか、テーブルのそばに店員が立っている。店員は拳銃式の長細いライターを持ち、その先から小さな火を点していた。
僕の動揺をよそに、店員はライターの火をテーブルに置かれたろうそくに灯していく。
そこで僕は、テーブルの真ん中になにか置かれていることに気が付いた。
「ハッピーバースデー」
撫でるような息遣いでレベッタは言った。
「今日、僕の誕生日?」
「まさか、忘れてた?」
「……うん」
「やっぱり」
レベッタは笑った。
「ほら、火、消して」
僕は言われるがまま、ろうそくに灯された火を吹き消した。
「おめでとう」
レベッタの言葉をきっかけにして、店内が明るくなる。テーブルの上には、小さなホールケーキが置かれていた。
「ありがとう、レベッタ」
僕は久しぶりの祝いごとに、心の底から感動していた。
「去年は誰とも祝わなかった?」
「うん。というか、学校に入る前が最後だから、もう……」
「え、じゃあ十年以上してないじゃん」
「そうなるね」
「そっか」
レベッタはなにかに納得したのか、ゆっくりとうなずいた。
「じゃあ、喜んでくれた?」
「うん、とっても」
「よかった」レベッタはくすくすと笑った。「今日のこと、一生忘れない?」
「もちろん、忘れないよ」僕はすぐに返事をする。
「こういう思い出、あってもいいでしょ?」
「そうだね」
レベッタは満足そうに僕の様子を眺めたあと、フォークとナイフを手にとった。
「今更だけど……ケーキは大丈夫?」
「もちろん」
「半分食べられる?」
「うん」
レベッタは手際よくケーキを切り分けて、半分を彼女の取り皿に盛り付ける。豪華な皿にのったもう半分のケーキは、僕の前に置かれた。
「おめでとう」
「ありがとう」
僕はフォークを持ち、それをゆっくりとケーキに沈めていく。
「でも、どうして僕の誕生日を?」
「覚えてたのかってこと?」
「そう。言ったことあったっけ?」
「昔に一回だけね。それから、ずっと祝いたいって思ってたんだから」
「そうだったんだ」
僕はケーキを一口頬張る。レベッタの言うとおり、このお店のものはなんでも美味しかった。
「美味しい」
「よかったよかった」
レベッタの口元にクリームがついている。僕が自分の口元を指さすと、レベッタは恥ずかしそうにしながら舌を伸ばしてクリームを舐めた。
今、この瞬間だけ、僕たちは子どものころに戻れたような気がする。幼いころから同じ学校に通い、同じような環境で育ってきた二人。
それなのに、この国に対する考え方は全く違う。
レベッタが欲しがっている愛を知らない僕たちが、それを手にすることはできないだろう。きっと、彼女もそれを分かっているはずだ。
今日が終われば、僕たちはまた分かり合えない関係に戻る。けれど、この瞬間だけは同じことを考えて、同じ場所に立ち、同じ記憶を持っていたあのころの僕たちでいられる。
これが錯覚だということは分かっていた。それでも構わない。そう思えるほど気分が良かった。美味しいものを口にしている今は、美味しい言葉しか口にしたくなかった。
レベッタも同じことを思っていたのか、この時間を噛みしめるようにゆっくりとケーキを食べ、残っていたカクテルを大事そうに飲み干した。同時にグラスを置いて、お互い目を合わせる。
「そろそろ行こっか」
レベッタは店員を呼びつけ、カードを渡した。
「僕も出すよ」
僕は慌てて立ち上がり、掛けてあったコートのポケットを探った。
「いいの。レタの部屋で飲んだコーヒーの分」レベッタはゆっくりと立ち上がった。「あれって、レタに請求がいくでしょ?」
「そうだけど、見合ってない」
レベッタは笑いながら首を振った。
「今日はバースデーなんだから、これくらいさせてよ」
レベッタの言葉に、僕は渋々自分のカードをしまった。
「ごちそうさま。美味しかった」
レベッタは店員からカードを受け取って、颯爽と店を出て行く。僕も同じように挨拶をして、レベッタのあとを追った。
「あぁ、美味しかった!」
「そうだね。美味しかった」
僕は店のドアを閉めながら、レベッタの独り言に相槌を打つ。普段なら絶対にやならいことだが、今日は不思議と返事をしてみたくなった。
「ねぇ、レタ」
上機嫌な様子でレベッタは振り向いた。
「これからさ、学校に行かない?」
「学校?」
僕は今の時間を確認しようとポケットを探る。しかし、時間が分かるものを持ってきていなかった。
「今何時だろう」
「八時くらいじゃない? 明日は早いの?」
「ううん」
「じゃあ、行こ」
レベッタは返事を待たずに僕の手をとった。
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