第二番 ゆっくりと悲しさをこめて Lent et triste

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第二番 ゆっくりと悲しさをこめて Lent et triste

 僕の誕生日から一ヶ月が過ぎたある日、朝食後のホットコーヒーを飲みながらベランダで一息ついていると、アパートの裏手にある公園に一人の若い男性が入ってきた。  この公園に人がいるの見たのは去年ぶりだった。僕はコーヒーを飲み切るまでの暇つぶしに彼の行方を見守ることにした。大きな旅行カバンを引きずっているので、旅行者か、もしかすると引っ越しの最中なのかもしれない。  公園の中央に差し掛かったところで彼は立ち止まった。両膝に両手をつき、わざとらしく全身で疲れを表現しているところをみると、外の国の人間のように思えた。  しばらく様子を見ていると、彼は小さく「よし」とつぶやいて顔を上げた。 「すみませーーん。どなたか道案内してくれませんか?」  彼の通る声が辺りにこだました。僕は驚いてカップを落としそうになる。今の動きで居場所がバレてしまったかと思ったが、彼はもう一度同じように叫んだ。  静寂を守るこの国で大声を出すことは、緊急事態を意味する。だが、内容を聞くに緊急性があって誰かを呼んでいるわけではなさそうだった。  このまま何度も大声を出せば、不測の事態と思われるか、彼自身が危険因子とみなされるか、どちらにせよ警察に通報がいくだろう。  放っておいても良かったが、外の国から来た人間のほとんどは、コンクリートだらけで代わり映えのしない風景に自分の居場所が分からなくなる。道が分からないだけで通報され、万が一にでも国を追い出されるようなことになったら、それこそ彼は自分の居場所を失うかもしれない。  きっと、彼もこの国の孤独を求めてきたのだろう。  そう思えたのは、一ヶ月前にレベッタと話したからだろうか。 「どうかした?」  ほんの気まぐれだったが、彼に声をかけてしまった。彼と奇行と同じくらい、僕もこの国では珍しいことをしたかもしれない。  彼は静かになり、辺りを見回していた。声は聞こえたが、僕がどこにいるかは分からないらしい。 「こっちだよ」僕は手を振った。「この国であんまり大声は出さないほうがいい」  彼に届くように声を張ってやった。恐らくこの一言で周りの住人も色々と察しただろう。 「あ、すみません……」  彼は頭を下げたあと、ずるずると荷物を引きずって僕の方へ歩いてきた。 「すみません。ご迷惑おかけしました」  彼はもう一度頭を下げたあと、控えめなトーンで謝罪をした。とはいえ、僕はアパートの二階にいるので、真下の階にいる大家には十分聞こえているだろう。 「迷子?」僕は最低限の会話で済むように言葉を選ぶ。 「はい。どこも一緒で分からなくて」 「目的地は?」 「C区五丁目二番地のマンションなんですけど……」  そう言ってすぐ、彼はまた頭を下げた。 「すみません、申し遅れました。俺、ヒィカと言います」  彼は三回目の謝罪をした。すべて違う声色で謝っているあたり、謝ることが得意なのかもしれない。 「C区の五丁目二番地だけど、君が公園に入ってきた道を逆走して、三番目の交差点を右、そのまま真っすぐ行くと車両用の信号が見えてくるから、そこを左に曲がれば五丁目二番地だよ」  僕は彼の不必要な自己紹介を無視して目的地までの道を伝える。彼は即座にメモをとったようだったが、不安そうな表情のままだった。 「えっと、なるほど。了解です。あっと、もう一度だけ確認してもいいですか?」  彼はメモ書きを何度も読み上げた。メモは合っていたが、本人はそこまでの道をイメージできないのだろう。四、五回確認しても表情は変わらなかった。  そんな様子を見かねて、僕は彼を直接マンションへ案内することにした。今日は仕事もないし、これくらいの親切ならばこの国の思想に反することもないだろう。それに、彼がまた迷ってここに戻ってくるほうが面倒だと思った。  僕はすぐに支度をして、コハルに出かける旨を伝えて部屋を出た。アパート脇の細道から裏手の公園に出る。彼は慌てて荷物を持って、僕の方へ駆け寄ってきた。 「本当にすみません。わざわざ」  僕は目配せだけして歩きだす。彼は荷物が重いのか、おぼつかない足取りで僕のあとについてきた。 「ここって、本当に人がいないんですね」 「そうだね」  僕はその感想が妙におかしくて、笑ってしまった。 「すごい国です。夢みたいです」 「じゃあ僕は、夢の国の住人かな」  彼は少しだけ早く歩き、僕の隣に来た。 「確かに。そのとおりですね」  ジョークをそのまま受け取ってしまったのか、彼は目を輝かせて僕のことを見ている。 「ここは、静かでいいところですね」 「うん」  僕は短く返事をして前を向いた。今まで何度か外の国の人間と話したことはあったが、彼の言葉や仕草は、今まで会ったことのある人のなかでも一際珍しいものだった。  感嘆の言葉を聞きながら、五丁目二番地までの道を歩いて行く。彼の感想のなかで一番おもしろかったのは「見ていて飽きないです」だった。僕にはコンクリートだらけの灰色に見えているが、きっと彼にはカラフルな遊園地にでも見えているのだろう。  隣から聞こえる感嘆句のバリエーションがほとんど明らかになったころ、目的地が遠くに見えてきた。 「この先が二番地だよ」僕は道の端にある看板を指さした。 「なるほど。どのマンションだろ……」彼はカバンから写真を取りだした。「三本線のマーカーがあるマンションってあります?」 「赤二本と黒一本のがあるかな」 「ああ、じゃあ、それです!」  嬉しそうにはしゃぐ彼の一挙手一投足が珍しくて、つい眺めてしまう。本当に、今まで会ったことのないタイプの人間だった。 「すみません、えっと……」彼は困ったような表情になった。「その、差し支えなければ、お名前教えていただいてもいいですか?」 「レタ」  断る理由を考えるのが面倒だったので正直に答える。 「レタさん、ですね。いい名前だ」  彼は納得するようにうなずいたあと、僕を見た。 「せっかくなので、なにかお礼させてください」 「お礼?」 「ご飯でも……と言いたいところですけど、ちょっと差し出がましいですかね」  僕はうなずいた。礼にしては過剰な気もするし、なによりこれ以上彼といると、道案内以上の関係を求められそうな予感がした。 「あ、じゃあ音楽とか聞きますか? 俺、たくさん持ってるので」 「大丈夫。見返りが欲しくて案内したわけじゃないから」 「あ、いや、それはもちろん、分かっているのですが……」  彼は肩を落とした。もしかすると彼は、過剰に礼をしなくてはならない使命を背負っているのかもしれない。ただ、だからといって僕が協力する義理はない。 「じゃあ、僕はこれで」 「あ」彼は小さくつぶやいて僕の足を止める。 「まだなにか?」  僕は苛立ちを隠すことなく振り向いた。 「本当にこれが最後なんですけど、もしよければ連絡先、教えていただけませんか?」 「連絡先?」 「はい。その、なにかあったときに連絡できるといいかなって」 「なにかって?」 「例えば……」彼は言葉を詰まらせたあと、すぐに表情を明るくした。「そうだ。お礼とかじゃなくて、一緒にお茶でも飲みたくなったときのために」  意外な答えに僕は吹きだしてしまった。なるほど。そういう話ならばお互いにつまらない気遣いはいらない。これ以上近しい関係になるのはどうかと思ったが、思っていたよりも彼は面白い人間かもしれない。  この国の人間からすれば、外の国の人間は過干渉なところが多いが、不思議と彼の振る舞いに嫌悪感はなかった。その理由も、ほんの少しだけ気になっていた。 「君の名前、なんだっけ?」僕は尋ねる。 「えっと、ヒィカです」彼は最初に名乗ったときと同じように申し訳なさそうに言った。 「ヒィカね」  僕は道案内を決めたときのような、ほんのささいな気まぐれで、連絡先を渡すことにした。 「引き止めちゃってすみませんでした。また連絡します」  そう言ってお辞儀するヒィカを後目に、僕は帰路についた。  アパートにつくと、ちょうどコハルが外廊下の階段をのぼっているところだった。 「おかえりなさいませ」  コハルは階段をのぼりながら僕に顔を向けた。 「ただいま。危ないから前向きなよ」 「かしこまりました」  慎重に階段をのぼっているコハルについていく。コハルは階段をのぼるのが苦手らしく、いつもふらつきながら段差に足をかけていた。 「オーダー?」 「はい。朝食を伺いにいきます」 「そっか。みんないつもこの時間に朝ごはんを食べるの?」 「申し訳ございません。その質問はプライバシーロックが掛かっています」  コハルに断られて、僕は自分のした質問に驚いた。今まで他人について質問をしたこともなければ、コハルが質問に答えてくれなかったことも初めてだった。もしかすると、さっきまでヒィカと話していた影響で、僕の感覚が少し狂ったのかもしれない。 「それじゃあ、お仕事頑張ってね」 「ありがとうございます」  無事二階に到着したコハルの横をすり抜けて、僕は自分の部屋に戻った。ドアを閉めた瞬間、自分の世界に帰ってきたような気がして、思わずため息をついた。人に会って得られるものはいつも、ほんの少しの後悔と、遠い未来で役に立ちそうな発見だけ。  やはりあのとき無視をすればよかったとも思ったが、そんな後悔こそ、先に立たないものなので考えるのを止めた。  僕はベッドに寝転がり、袖机の上に置いてあった本の電源を入れた。すぐに画面が明るくなり、読み途中の小説が表示される。  何度か寝転がって楽な体勢を見つけたあと、すぐに小説の世界にのめり込んでいった。
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