押しつけの色

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押しつけの色

「ごめん。トマトジュース買ってきてくれない?」  そんな母の頼みを僕は快諾する。そもそも僕は学校にもう3か月行っておらず、暇を持て余しているので断る理由もない。第一働きもせず、学校にも行かない者は、本来食ってはいけないのだ。家事労働の一部など、頼まれなくても代行したい。  部屋着のまま外に出るわけにもいかず、僕は何週間かぶりにクローゼットを開ける。制服の黒が目に入ってきて、嫌な気持ちになる。黒から心理的な距離を置きたくて、僕は白地が多いTシャツを取り出して着る。外は暑いので、それだけでも白地の方がいい。  財布とスマホと家の鍵をズボンのポケットにねじ込んで、外に出る。久しぶりの外気に体が驚くのを感じる。暑い。マンションの外に出て、日射を浴びると更にその暑さは増した。  幹線道路に出て、スーパーのある方へ。何回か僕の学校の制服姿を見かける。そうか、もう早ければ下校時刻か。そんなことすら忘れていた。学校と僕との間の心理的距離は確実に広がっている。偶に担任教師が課題を届けがてら、様子を見に来るが、それすら切れたら僕と学校とのつながりは完全に断ち切られるのだろう。  信号で立ち止まっていると、ポケットに入れていたスマホが震えた。買い物の追加かな、と思いながら、歩道の脇に寄り、画面を見る。母からではなく、今は彼女と同棲している兄からで、怪訝に思いながら通話を開始する。 「もしもし」 「もしもし。いきなりすまんな。元気にしてるか?」 「ああ、うん、大丈夫」 「そうか。幸子と、母さんは?」 「あ、姉さんは、相変わらずピリピリしてる。母さんも最近は姉さんにあてられているのか、イライラしてるかも」 「う、やっぱりかー…」  沈黙が流れる。お互い、途方に暮れるしかないから。信号は赤から青に変わったが、歩きスマホは気が咎めたので渡らないでおく。先に陰鬱な空気を破ったのは兄の方だった。 「とにかく、俺はそんなに実家に行けん。すまんとは思うが、お前が2人を出来る範囲でいいから支えてくれ。帰れるときなら帰るから」 「…ああ、うん、分かった。そっちもそんなに無理して帰ろうとしなくていいから」  どうせ兄がいてもいなくても結果はそう変わらない。だったらせめて大学時代から付き合っている彼女とデートしたほうが、はるかに有意義だろう。 「そうか。ありがとう。まあ、でも幸子も大事な時期だから、余裕があれば帰る…。こんなことを今言うのもあれだが、お前も、出来る限り頑張れよ」  復学しろ、母さんの心労が少しでも減るだろ、という兄の「本当は言いたい言葉」が手に取るように分かってしまう。だが、無理な願いだ。黒い制服を見るだけで、気分が悪くなるのだから。 「大人になれ、良」  電車が来たから切るぞ、兄はその言葉を最後に通話を切り、僕は再度青に切り替わった信号を渡る。スーツ姿の男とすれ違う。安っぽい、いかにも新入社員が着るような黒が目に入り、僕の中でさざ波を起こす。  兄は本来なら今も勤務時間のはずで、きっと今そんな色のスーツを身にまとっているのだろう。かつての輝かしい頭が不意に脳裏に浮かんでくる。バンドマンだったころの兄。どんな歌を歌っていたかは知らないが、金色の頭で毎日楽しそうに過ごしていた兄は、しかしある日突然髪の色を黒に戻した。  服装も変わり、僕には理解できなかったが、センスが尖がっていた服はリクルートスーツになった。毎日のようにスーツを身にまとって、企業説明会や面接に行くそんな兄を見て、母は大いに喜んでいた。 「ようやくお兄ちゃんも大人になったんやね、彼女さんのおかげや」  思い返すたびに、何故だか無性にもやもやするその言葉。かすかな苛立ちを抱きながら、僕は坂を登って、下って、しばらく歩いたところにあるスーパーに入った。  トマトジュースは苦もなく見つかり、他に欲しい物がないか、頭の中でざっと確認する。ない、と判断し、ペットボトルに入ったそれを持ちながらレジの待機列に並ぶ。最近機嫌の悪い、もう少しで出産を控えているはずなのに、夫婦喧嘩で実家に帰ってきた姉の好きなもの。きっと母も困りあぐねている。ジュース1つで変わるはずもないのに、それでも藁をもつかむ思いなのだろう。  本日お買い得情報を伝える店内放送を聞き流しながら、会計を済ませ、外に出る。  歩道を歩いていたところで、僕は自然と顔をしかめてしまう。今はあまり会いたくない人間。クラスメイトの指原とその部活仲間がこちらの方向に歩いてきていた。  横に寄って、やり過ごすか、とも考えたが、それは何だか負けを認めたような気がするので、僕はそのまま歩く。もう長い間、学校に行っていないので、指原の方で忘れていてくれないだろうか、と淡い期待を抱いたが、向こうもこちらに気づいたようで、視線が僕の方を向いて固定されている。  指原はふっとバカにしたような笑いを顔に浮かべて、僕とすれ違う。すれ違った時間自体は一瞬で、でもその間に僕の自尊心は、ものの見事にずたずたに引き裂かれた。  回れ右して、指原の顔にパンチを繰り出してやりたい気持ちに駆られたが、テニス部部員数名と帰宅部1名では、数の面でも質の面でも勝負にならないのは、火を見るよりも明らかで、僕は被害者根性を何とか抑え込む。 「疲れた」  ぽつりと僕は呟く。バカにされたこともそうだが、今の自分の社会的な立ち位置が確かにバカにされてもおかしくないものである、と自分で判断できていることも最悪だ。  遠い昔の小学生時代、鬼ごっこをクラス内で行った時、鈍足を誇っていた僕と指原は、最後にはいつも鬼役の赤色に帽子が染め上げられていた。  だが、今となっては鈍足を誇っているのは僕だけ。指原はテニス部で、部活対抗リレーに出るほどには足が速くなり、何なら僕はただの引きこもりにまでなってしまっている。 「疲れた」  また僕は呟く。でも慰めてくれる人なんて、いるわけもない。レジ袋に入ったトマトジュースを揺らしながら、僕は歩き続ける。  ただいま、と言いながら家の中に入ると、もう少し時間を潰してから帰ればよかった、と後悔した。  何があったかは分からないが、何かがあったことだけは分かる。そんな空気。廊下の照明はついているのに、やけに家の中が暗く感じられる。もう1回外に出ようかな、と誘惑に駆られたが、鍵を開けた音は多分家のどこにいても聞こえたはずなので、諦めて靴を脱ぐ。  リビングに入ると、姉と母がテーブルを挟んで向かい合いながら座っていた。息苦しくなる。僕が帰ってくるまでにどれほどの言い争いをしたのか、知りたくないし知りようもないが、母の表情がかなり疲れているので、相当な激戦だったことは想像に難くない。  おかえり、も言われないまま、どうすべきか僕は悩む。さっさとこの筋繊維の1本1本が縮みあがるような空間から逃れるべきだという感情が膨れ上がってくる。だが、兄との先ほどの通話が僕の脚に撤退を許さない。  できることをやるんだ、と何とか自分を奮い立たせ、僕は買ってきたばかりのトマトジュースの栓を開ける。食器棚からコップを2つ取り出し、それぞれにトマトジュースを入れていく。母も、それなりに好きだったはずだが、やや記憶に自信がない。  不安で震えそうになる手を根性で抑え付け、トマトジュースを運ぶ。テーブルの上に左手で握っていたコップを置こうとした時、突如姉が表情を怒りで大きく歪ませながら動いた。  僕の手からコップを奪い取ると、中身を必要以上に大きな動きで僕の方にぶちまけてきた。  一瞬何が起こったのか分からない。服はトマトジュースで濡れて、白の部分が多かったから、大惨事で、何ならぶっかける時の動作が大きすぎたせいで、姉の服にもトマトジュースの染みができてしまっていて、母は椅子から立ち上がって、姉の頬を思い切りバチンと叩いたりして。 「甘ったれんのも、いい加減にしなさい」  母は怒鳴りつける。姉はしばらくまるで鬼のような表情で、母を睨み続ける。時計の長針の音だけが部屋に響いていて、そのことがやけに耳障りに思える。僕の意識がショック状態から抜け出して、ようやく姉に対する怒りの念のようなものが湧いてきたところで、姉は立ち上がり、僕を突き飛ばすようにリビングを出て行った。  追いかけて殴りつけてやろうか、とよほど思ったが、相手は妊婦なので無茶はできない。結局僕は何をするというわけでもなく、とりあえず床の掃除から始めなきゃな、とキッチンへと向かう。 「何する気?」  母が聞いてくる。 「拭かないと」 「ええから、私がやるから」  それだけ言って母は立ち上がる。これで体拭きな、とテイッシュを箱ごと渡してくる。母は雑巾を水に濡らし、僕は数枚のティッシュで体を拭いていく。 「ごめんな」  母は床を拭き始めながら謝ってくる。 「別に。大丈夫。でも、どうしたの?」 「…まあ、色々とな。つい私もカッとした」 「…もうすぐ姉さんも出産なのにね。いきなり実家に帰ってきたり、大丈夫なんかな?」 「知らんよ。もう子供やないし、あんまり干渉はせん。ただ」  母は、そこで言葉を切った。少しだけ僕の方を見て、すぐにまた床の掃除に戻る。こいつに話しても無駄だ、あるいは、話すべきではない、と判断したのだろう。  何となくそのことが納得いかなくて、僕はその場を離れることができない。母は、そんな僕の心情を察してくれたわけでもないのだろうが、はぁ、とため息をつく。 「まぁ、あれよ」  床を拭く手を休めることなく、母は言葉を紡ぐ。 「お姉ちゃんは、結婚に夢を見すぎとったからね。現実との落差に苦しんどんやろ。働きたい、働きたいって、子供産まれて、相手方の親の介護もせなあかんと分かったら、無理に決まっとるやろ」 「あー、そういう…」 「何でもかんでも自分の希望が通るわけないやん。結婚してるんやし。でも、今時の子やから、それ嫌がるんよね。全くお兄ちゃんもお兄ちゃんで、彼女さんのご両親に中々認めてもらえないって文句言うし。2人とも成人してるのにもう知らんわ」  あんたももう少しきっちりしなよ、と母は付け加えてきて、僕はリビングを今度こそ後にしようとする。聞きたいことも聞けたので、今度は抵抗もない。耳が痛くなるような説教からは、できれば早く距離を置きたい。 「その服やけど」  母の方から話を変えてきて、僕は自分の服をもう一度見る。ひどいものだった。現代アートであるという言い訳さえできないぐらいに、Tシャツはべったり汚れている。 「捨てるんやったら捨ててええで。部屋着にするもええけど。まあ、部屋着やったら、染みあってもそんなに不都合ないし」 「…部屋着にするよ。ただ、染み抜きはちょっと頑張る」 「完全に元には戻らんで」 「まあ、やるだけやってみる」  そう言って、僕は廊下に出る。そのまま、洗濯機に入れるんはやめてな、という母の言葉が背中に突き刺さる。他の服に色が移る可能性は自分でも考えていたので、余計な心配だ。  洗面所に人の気配があるのは分かっていたが、構わず僕はドアを開ける。姉が洗面台で作業をしている。気まずい。でも、ここでびくついてドアを閉めるのは、したくなかった。今回に限っては、僕は何も悪くない。  姉は僕の方を見もせずに、自分の服の染み抜き作業をしている。歯ブラシでトントン。姉の白い服についた赤い染み。その白がトリガーとなって、僕は姉が以前着ていた白無垢姿を思いだす。真っ白な着物に包まれた姉の姿は、いつもの元気一杯な姉のそれからは想像もできないぐらいに綺麗で、僕はその落差を前に笑いをこらえるのに必死だった。 「ごめん」  僕が昔の記憶を掘り返していると、姉が謝ってくる。 「イライラしてた。ほんとごめん。最近色んなものに押しつぶされそうで」 「…ああ、うん。別に」  気が回っていない受け答えだな、と自分でも呆れる。せめて大丈夫の一言だけでも言うべきだったのに、まだ自分の中に確かに残っている怒りの感情に影響を受けて、口が上手く回りそうな気がしなかった。歯ブラシのトントン音だけが、しばらく僕たちの間を満たす。 「それ、私の方でやるよ」 「いいよ。別に染み抜きぐらい、自分でもできるし」 「でも…大変だよ。それだけ赤くなったら。自分でやっといてなんだけど、もうほとんど赤く染まってるし。と言うよりもう捨てたほうが」 「気長にやるよ。引きこもりだし。姉さんは休んでてよ」  しばらく姉は何か言いたげな顔をしていたが、結局飲み込むことにしたのか、自分の服の染み抜き作業を終えると、僕に歯ブラシを渡してくる。 「洗剤つけてトントンって叩きなよ。ゴシゴシしたら駄目。生地が傷むし、逆に汚れの範囲が広くなるから」  分かってるよ、と僕は姉に言うけど、姉はなおも心配そうな目を向けてくる。こういう時、自分が末っ子であると強く意識させられる。一番大事に思われる反面、一番子供扱いで、心配される。  姉や母が飲み込んだ言葉達も、いつになったら聞けるようになるのか、分からない。姉は洗濯機に自分の服を入れてから、洗面所を出ていく。去っていく姉の背中に、僕はあの日の白無垢姿を重ね合わせようとするが、何故だか先ほどの赤がちらついて、どうしても想像の中の姉は真っ白になってくれなかった。  出来ないものはしかたないとやむなく諦め、自分の服の染み抜き作業を始める。水で湿らせて、洗剤をつけて、上からトントン。やっているうちに絶望的な気持ちになってくる。叩いている箇所については多少色が抜けてくるが、とにもかくにも範囲が広い。  トントン、トントン。大した作業ではないが数をこなすと、どうしても疲れてくる。途中休みを入れて、洗剤を付け直しながら、僕は頑張る。  洗面所の窓から入ってくる日の光が、少しずつその威力を弱めていく。ちょっと、日が短くなったかな、と思いながら、だるくなってきた手首をぶらぶら揺らしていると、ふと自分が何でこんなに執着しているのか、と疑問に思う。  別にお気に入りというわけではない。あったから着ていただけだ。そもそもどんな服に対しても、僕が特別お気に入りだと思ったことはない。服の色に対して本格的に心揺さぶられるようになったのは、兄の黒いリクルートスーツを見てからなわけで、それにしたって負の感情でしかない。  捨てっちまえばいい。よほど合理的だ。でも何だかそんな気分になれなかった。  トントンと、歯ブラシを半ば叩きつけるように作業しながら、自分の不可思議な行動について考え続ける。  全体の半分ぐらいが終わったところで、そもそも押し付けられた色を消すことに何かしらの意味を見出しているのだな、と気づく。  その後、晩御飯の時間になるまで、僕はその作業に没頭した。汗だくになりながら、出来る限り原状回復したTシャツは、きっとそれでも完全に綺麗になることはないと予想がつく。そのことがまるで歯に何かが挟まった時のような気持ち悪さを、僕に覚えさせた。
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