人魚先生のいたプール

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人魚先生のいたプール

 人魚先生が「紅葉を見たい」と言い出したので放課後のプールに向かって真っ赤な葉っぱを差し出したら、思いきり首を振られてしまった。 「プール一面に?」  せっかく一番きれいな紅葉の葉を拾ってきたっていうのに。どうも人魚先生の求めているものはもっともっと、飛びきりにきれいな紅葉をたくさん浮かべたプールらしい。 「私の故郷の景色なのよ」  もう十一月のことだった。夏も終わってあんまり掃除もされていないプールの端っこで、人魚先生は人間の半身だけ水面から上げて僕を見つめている。「先生の故郷って」「ずっと遠いところ」人魚先生はそう答えると緑の藻のたくさん浮いているプールの水面をばしゃんと尾びれで叩いた。  人魚先生は、本当の人魚だ。絵本と同じように青緑の鱗の生えた魚の尻尾を持っていて、それでいて上半身は人間の体。多分女の人だとは思うけどいまいちよく分らない。ウェーブのかかった金色の髪を肩まで伸ばして、瞳はオレンジとも赤とも言えない、ちょうど色づいた紅葉の葉と銀杏の葉の間のような色をしている。夕焼け色にもちょっと近い。僕たちの水泳の先生でもあって、少なくとも僕が小学四年生になるまではずっとこうして学校のプールに住まっていた。いつも笑顔だし人魚だから人気の先生だったけどやっぱり人間と違うからちょっと近寄りがたい感じもあって、だから先生が真面目な顔で急に「紅葉を見たい」なんてお願いするのは珍しかった。 「……帰りたいの?」  人魚先生の故郷の話なんて聞いたことがなくて僕は問いかける。先生はただ困ったように笑うばかりで答えなかったけど、きっと帰りたいのだろうと分かってひどくつまらない気持ちになった。人魚先生とは仲が良かったし、せっかく最高の放課後を過ごせる場所を見つけたっていうのに。人魚先生はそんな僕の心を見透かしたように悪戯っぽく笑う。 「少しそんな気持ちになっただけよ」 「でも、本当に帰っちゃったらきっと戻ってこないんでしょう。そんなの寂しいよ」  僕は食い下がる。いつかは先生も故郷に帰っちゃうと思ったら寂しかったし辛かったから。先生はうーんと考えこんだ様子だったけど、やがていつものように明るく言った。 「じゃあ、慧人君も一緒に帰る? 私の故郷。戻ってこれないけれど」 「うん、そうする」  僕は気づけば一も二もなく頷いていたので、人魚先生の方が却って困惑していた。好奇心も多分にあった。でも何より僕はその時お友達ともお母さんとも仲良くできていなかったから、いつだか図書室で読んだ本のように、どこか知らない魔法の世界、理想の世界に行けるのであれば行ってしまいしたいと思っていたのもあった。 「嘘じゃないよ、本当だもん。ねえ今から連れて行って、お願い」  僕の本気が信じて貰えていないような気がして、むきになって訴えかける。先生だって知っているでしょう。人魚先生はやっぱり、嬉しさ半分、困惑半分のようにして笑っていたけれど、やがて根負けしたように「分かったわ」と頷いた。  さっきまでの悲しそうな顔を引っ込めて、人魚先生は紅葉を映したかのような美しい瞳を細めにっこり笑う。 「ちょうどよかったかもしれないわね」  その顔に見惚れた瞬間視界は全くの夕焼け色に染まり、ざぶんと水に潜る音がした。僕はドクンという心臓の鼓動を間近で聞いた。  人魚先生に手を引かれながら、気づけば僕は赤に近いオレンジ色の海を泳いでいる。夕焼けみたいな色の海だった。人魚先生の目とも似ているオレンジ色。見上げれば太陽に光を受けているらしい水面がきらきらしていて、プールに潜った時の感覚と取っても近くて海の中だってすぐわかった。もちろん海中から水面を見るのなんて初めてだったからつい「きれい」って叫び出しそうになって、そこで初めて何で海の中なのに息ができるんだろうと不思議に思った。ゴーグルだってないのに目をずっと開けていられるし。 「綺麗な場所だね、先生」 「……」 「先生?」  景色はそうやってただ美しいのに、余りにも静かだ。海の中だから当たり前なんだけど僕の周りにはただただ夕焼け色の海水が広がっているばかりで、魚とか亀とか、海の生き物らしいものは一匹だって泳いでやしない。 「先生」  ボコボコというあぶくの音すらしない、先生の返事もない静けさが不安で僕は何度も問いかける。海の中だっていうのは分かるのに、声が当たり前に辺りに響くのが不思議だった。先生は振り返らないまま、強い力でただ僕の右手を掴んでゆっくりと海を沈んでいく。 「まだ着かないわ、ずっとずっと遠くだから泳いでいかなきゃ」 「そうなの?」  やっと返事をくれた。目の前では先生の青緑色の尾びれが優雅に動いている。水泳の先生だったけどそう言えばこんな風に人魚らしく泳いでいるところは初めて見るなあと思った。先生と二人のオレンジの海。また静かな時間が流れて僕はそわそわする。 「でも、慧人君が私の故郷に来るって言ってくれて助かったわ」 「え?」 「いつも心配していたのよ」  僕の不安が伝わったのか先生はようやく泳ぎを止めて、振り返ってくれた。何だか海に潜った時から先生の様子が変わったようにも思っていたので、顔を見られて僕はほっとした。だって先生が行く先は先生の故郷だってちゃんとわかっているはずだったのに「どこに行くんだろう」なんて少し不安に思っていたぐらいだもの。でも先生は少し怒ったような顔をしてまた僕を不安にさせる。 「宮崎君だったかしら、クラスの男の子が、いつも慧人君には随分強く当たっていたでしょう」 「……」  先生の言うことは本当だったから、僕はオレンジの海の中でぶくぶく息を吐きながらうなだれた。  ――幼稚園から一緒の宮崎君、僕にとっては「賢ちゃん」は、四年生の初めから急に僕のことをからかうようになった。お母さんに言ってみたけれど、男の子ならそんなのに負けるなと僕を叱りつけて、ひどい時は賢ちゃんと一緒になって僕をからかうだけだった。「チビって言われるくらい、何でもないじゃない」。お母さんはそう答えて、僕の味方になってはくれなかった。  お母さんと、賢ちゃんのお母さんはお友達だったから、きっとそっちの方が大事なんだなってそう思って、それからはもう何も言わなかった。僕だってお友達は大切だもの。だから放課後はただずっと、人魚先生のいるプールで過ごすことにしていたのだ。 「うん。賢ちゃん、ひどいんだ。あんなに仲が良かったのに」  本当はお友達ともお母さんとも、前みたいになりたかったけど、お母さんも弱虫って怒るばっかりだし、何だかもうどうしようもない気がした。同じ話をしても人魚先生はいつも優しく心配してくれたから、放課後はずっとプールに通い続けた。  人魚先生は続ける。 「よかった。このまま向こうについたら、大嫌いなお友達ともお母様ともお別れして私と二人で過ごせるわ」 「……。そうだね」  人魚先生は僕の返事に満足したのか、またにっこり笑うと泳ぎ始める。僕の右手を強く掴んで、オレンジの海に深く深く潜っていく。僕はどうしてだか胸がチクチクして、でもその正体がわからなくて泣き出しそうになっていた。海の中で泣いたらどうなるのかな。先生には気づかれないかな。  今にして思えば人魚先生は当然のことを言っていたのだ。僕が人魚先生の故郷に連れて行ってくれと言ったのだから、そりゃ賢ちゃんともお母さんともお別れだ。 (何で今、すぐにお返事できなかったんだろう)  人魚先生の故郷に行けるなんて嬉しいはずなのに。ああでも、賢ちゃんにもお母さんにも、バイバイって言ってなかったな。でもそれももう良いのかな。でも。「大嫌い」は違う気もするな。先生の言葉は当時の僕に随分強く響いて頭の中をぐるぐる回っていた。  ――大嫌い、なのかな、やっぱり。賢ちゃんやお母さんをひどいと思うことはあったけど。そう思って人魚先生の方を見ても、先生は変わらず泳ぐだけ。四年生だった僕には到底理解できないような美しい泳ぎ姿でただ海に沈んでいくだけ。先生はまるで笑顔のような声で、僕の手を引きながら言葉を続ける。 「私は嬉しくて嬉しくて仕方ないの。冗談じゃなくて、半分は本気であなたを誘ったのよ? もう見てられなかったから。だから、私はずっとあなたを待っていたの」  静かなオレンジ色の海の中で先生の声だけがひたすらに響いている。 「……寂しくてもう故郷に帰りたかったところなの。放課後毎日のように私の所に来てくれるのは、あなた一人だったから。私だってあなたが来るのが楽しみだった。そんなあなたを助け出せるなんて」  先生がグイと手を引っ張ると海の中の不思議な動きで僕は簡単に引き寄せられた。思わず後ずさりしそうになったのに、海の中だからできなくていつの間にか僕の両手は先生の両手で包み込まれていて、しかも強く強く握られていた。海の中とおんなじオレンジの目が僕の目をしっかり捉えてつい怯んでしまう。  僕は何か言うべき言葉があるような気がした。人魚先生の故郷に行きたいと願ったのに、このまま、お友達やお母さんに何にも言わずに行ってしまっても良いものかなんて考えていた。 「先生、先生、僕……」 「この海を通ったらもうすぐよ。あなたの新しい世界。そこで二人で過ごしましょう。……大丈夫、すぐに慣れるわ。お友達のことも、お母様のことも忘れさせてあげるからね」 「先生!」  二人のことをひどいと思ったのは本当だ。あんなに優しかったのに、急にチビチビ言ってからかってくるようになった賢ちゃんも、話を聞いてくれないお母さんもひどいと思ったのは本当だ。  もう、元に戻らないなら、また賢ちゃんと仲良く過ごせないなら、お母さんに甘えることも許されないのなら、せめて僕を大切にして優しくしてくれる人がいる所に行きたいって思ったんだ。 「先生、あの、ごめんなさい」  でも、何でだろう。  何で、ここから先に進むのは違うって思っちゃうんだろう。人魚先生はきっと優しくしてくれる、そう思うのに。  賢ちゃんにもお母さんにも、バイバイって言ってないからかな。でも、どうせバイバイするなら、最後にもっともっとたくさん言いたいことがあったんだ。 (ちゃんと『やめて』って)  それだけじゃない。賢ちゃんには何でこんなことするのって、お友達じゃないのって。お母さんには、どうしてお母さんは賢ちゃんの味方なの、僕のお母さんじゃないのって。  僕の味方はいないの、僕は世界にひとりぼっちなの、そんなの寂しいよって。 「先生、あのね、ごめんなさい。先生も寂しいって言ったのに。僕、まだ一緒に行けないかも」  弱虫の僕はまたうなだれる。僕が言い出したことなのに。でも、人魚先生の故郷に行ってしまう前に、実は言いたいことがたくさんあったんだって僕は今ようやく気付きだしたんだ。  だからまだ、一緒には行けないかもしれない。  僕の口からブクブクあぶく。僕の気持ちのはずなのに、僕より先に言いたい言葉や考えていることがたくさん出てきて、でも形にはならなくて、音のしないオレンジ色の海の中でただ息を吐き出している。人魚先生はほんの少しだけ寂しそうな顔で僕のことをじっと見つめている。  音のしないオレンジ色の世界なのに、心臓の辺りがざわざわして騒がしかった。僕はじっと先生を見つめる。言葉は出ないけれど、どうにか伝わったりしないかな。 「……勇気のある子ね」  しばらく経って先生から出てきた、意外な言葉に目を丸くした。 「僕のこと?」 「立ち向かうより、逃げ出してしまうほうがずっと楽でしょうに」  人魚先生はやっぱり少しだけ悲しそうな顔をしながら僕をじっと見ていたけど、思い直したようににっこり笑った。紅葉を絵の具に溶かしたような、美しい瞳が細められる。 「戻りましょうか」 「戻れるの?」 「特別よ」  先生はそう言ってくれて、あんなにも人魚先生の故郷に逃げ出したかった僕は、何故だか不思議にほっとして、そして納得していた。  人魚先生は僕の手を引いて、オレンジの海を今度は上の方へ上の方へと泳いでいく。   「でも私は慧人君を諦めたわけじゃないのよ。……もし、自分の生きる世界がもうたくさんだと思ったら、怖い人魚はいつでもさらいに来るからね」  もうすぐ海上へ辿り着く。その辺りで先生は笑ってそう言うと、強く握っていた僕の手を離した。そして先ほどとは比べ物にならない早さでオレンジ色の海の底まで消えていく。「先生」、僕は夕焼け色の海の中に一人置いていかれてしまった。ここからいったいどうしよう。そう思った途端、僕の息が急に苦しくなりはじめた。格好悪くもバタバタもがく。バタつきながら、上へ上へと海面を目指し始める。コツン、その内足が固い何かにぶつかった、そしてざばりと水音がして、僕は人魚先生のいつもいるプールで立ち尽くしていることに気がついた。  不思議なことにいつも満水のはずの水は膝下くらいまでしかなかった。靴やズボンは濡れているけど服は全く濡れていない。さっきまで海の中にいたはずなのに。 (わあ)  思わずもう一度プールの方を見た僕の目に、人魚先生の目にも似たオレンジ色の情景が飛び込んでくる。赤と黄色と、所々混ざるのはオレンジ色。それもそうかもしれない。プールの低い水面にぷかぷか浮いているのは本当に、色づいた銀杏や紅葉の葉っぱとオレンジになった桜の葉だったから。僕はよく見たくなって、はしごを伝ってオレンジ色のプールから上がる。  ――プールの一面を紅葉した葉が覆い尽くす、人魚先生の故郷の景色。 「オレンジばかりで目が痛いや」  海にいたせいか目が痛くて涙が出る。洗わなきゃ。そう小さく呟くと僕は何だか急に疲れてきて、もう冬も近い十一月のプールの脇にごろんと横たわってしまった。空はまだ随分高くて青かった。 「慧人!」  お母さんの声がする。目を開ければやっぱりそこはオレンジ色だったからあれっと思ったけど、人魚先生のいた海の中でもプールの景色でもなかった。 「お母さん?」  あのまま、プールの脇で眠ってしまったのだろうか。朝僕を起こしに来るような態勢でお母さんは僕を覗き込んで、ぼろぼろと泣いている。ああこの色は夕焼けのオレンジかってようやく気づいた。  ――どうやら僕は三日間行方不明だったのを、もう長いこと使われていないプールの傍らで見つけられたらしい。 「ねえ、お母さん、――」  人魚先生と一緒に泳いだおかげで、お母さんやお友達に伝えたいことがあるって気づいたよ。聞いてくれる? 「イマジナリー先生だったんじゃないか」  大人になった今、同窓会でこの話をすれば、そんな答えがあっさりと返ってきた。 「まあでも確かに昔、誰も居ない筈の古い方のプールの水が急に真っ赤になる事件はあったよな」 「呪いのプール事件な。あの後取り壊されたんだったか」 「お前らな――」  人の初恋の話を怪談にしてしまった友人に苦笑して、僕もまた杯を呷る。同窓会の、果たして何次会だったか。当時の「賢ちゃん」はここにはいない。いたらできない話だ。あの後僕が彼にはっきり反抗したらびっくりしたような顔をして、それから何となく距離が空いて、寂しいことに中高大もそれきりだ。母も僕のためにママ友付き合いを少しずつ疎遠にしていって、あの一家からは距離を置いてくれたらしい。  もちろん、人魚先生ともあれっきり。僕以外はもう誰も知らない話。 (まあ、それはそうか)  この話をしたのは一種の賭けのようなものでもあった。自分の中でもあの日の経験は夢だと思っていたけれど、誰か一人でも「人魚先生」を知りはしないかと酔いに任せて言ってみたのだ。案の定誰も知らなかった。当然だ。大体、小学生の頃は当たり前に受け入れていたけれど、現実に人魚が実在しようはずもない。ましてや人魚が水泳の先生をすることもない。  全て小学四年生にして人生に行き詰った、僕の妄想でまやかしでしかなかったのだ。あの日見たオレンジ色の海も、人魚先生と泳いだのも、プール一面にびっしりと、まるで人魚先生との思い出ごと閉じ込めてしまうように沢山の紅葉した葉が降り積もったのも。  ――もし、自分の生きる世界がもうたくさんだと思ったら、怖い人魚はいつでもさらいに来るからね。  年を重ねるに従って何度も何度も嫌な体験をした。その度何とか乗り越えられたのは人魚先生の言葉を脅しに感じたからじゃない。あれは僕へのエールだったから。いざという時には人魚先生が連れて行ってくれると思えば、不思議なことに何でもできた。「ありがとうございます」、注文していたお酒が座敷のテーブルに運ばれて僕は手酌でお猪口に注ぐ。  僕は別に強くなったわけじゃない。弱虫のままだ。ただ、いざという時の逃げ場所ができただけのこと。例え人魚先生がイマジナリー先生でも妄想でも何でも。何かあったら人魚先生のとこに行けばいいと思えば何だってやってこれた。  紅葉した葉で閉じ込めた、僕だけの逃げ場所。僕だけの思い出。人魚先生のいたプール。 「あ」  澄み切った酒の中にどうしてか人魚先生の面影が一瞬浮かんだような気がして、僕はそっとお猪口の上を手で覆う。  友人達に目を遣る。バカみたいにはしゃいで騒いでいる。 「……もう大丈夫だよ」  イマジナリー先生に声なんて届くはずはないけれど、僕はお猪口を呷って杯を空けた。  人魚先生は多分、笑ってくれている気がした。
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