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第三章 知沙 6.
朝陽の脳裏にある光景が重なった。
それは幼い頃雪山で見た、父の上に覆いかぶさって冷たい息を吹きかける雪女の姿だった。
いや、知沙は雪女よりずっと若かった。それに、情熱的で温かく、凍るような冷たさもなかった。でも、下を向いた横顔、愁いを含んだ瞼と長い睫毛、触れたくなるような白い頬、そして吸い付きたくなるような唇が、そっくりだった。
朝陽は動揺を隠し、知沙を傷つけないように静かに身を起こして、そっと身体を離した。
「駅まで、送って行くよ……」
内陸に戻る電車に間に合う時間だった。
知沙は朝陽の変貌ぶりに気持ちが追い付かないようだった。黙ったまま、身支度をした。
会話がないまま、朝陽は知沙を車で駅まで送った。助手席で下を向いたままの知沙は、静かに泣いていたかもしれない。
知沙は車を降りるとき、「朝陽のばか。意気地なし」と言い捨て、そして駅舎の中へ去って行った。それっきり、知沙からの連絡はなくなった。
父が死んだ夜に見たものが、雪女ではないとしたら……。
思春期に入り、男と女のことがわかるようになった時、あの雪女は生きた人間ではなかったのかという疑惑が朝陽の頭をよぎるようになっていた。
しかし、雪女が生きた人間だとしたら、なぜあの場所にいたのか? その先を考えることは、朝陽を苦しめた。
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