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これは、遥か昔の話。
ある山間の小さな村に、美しい女の子が暮らしていました。彼女の家は貧しかったので、家の農作業を手伝わなければならず、学校に通うことは出来ませんでした。まだ小さい兄弟を背中におぶって、朝から晩まで働く日々。それでも彼女には、心待ちにしていることがありました。
それは毎週末の夜、幼馴染の男の子と会うこと。ただの幼馴染ではありません、二人は恋仲だったのです。年は三つ離れていて、彼もまた農家の息子でした。週末の夜に二人、こっそりと家を抜け出し、高台で町を見下ろしながら語り合う―その時だけは、辛い日常を忘れられました。弟が病気で亡くなった時も、姉が結婚して町を出て行ってしまった時も、彼はいつも隣で寄り添ってくれていました。彼がいたら生きていける。でも幸せな日々は、そう長くは続きませんでした。
男の子の家の畑が悪くなり、作物が育たなくなってしまいました。農業では生計を立てられないので、彼は村を出て、隣町に出稼ぎに行かなければならなくなりました。隣町と言えど、彼に会いに行くまで列車に数時間ほど揺られなければなりません。今まで通り会うことが出来なくなるのは明らかでした。悲しみにくれる女の子。そんな彼女のために、男の子はあることを思いつきました。
「一緒に木の苗を植えよう。遠くに住む僕にも見えるぐらいの、大きな木の苗を二本。木を見れば互いのことを思い出せるだろう」
男の子は青い花を、女の子は赤い花をつける木の苗を町の境界に植えました。
「君が住んでいる町では、僕が植えた木が育つ。僕が住んでいる町では、君が植えた木が育つ。そうすればお互いのことを思い合えるだろう」
彼がそう言ったので、女の子が住んでいる町の方に青い花のなる木を、隣町に赤い花のなる木を植えました。その数日後、彼は町を旅立っていきました。
「近いうちにまた帰ってくる」
その言葉を信じ、女の子はずっと待ち続けていました。しかし、列車に乗り込む彼を見送ったのを最後に、永遠に会えなくなってしまったのです。
彼が出稼ぎに出かけた数か月後のことでした。海を越えた国で起きた戦争が、悪夢をもたらしたのです。国境が、あの二本の木の間にひかれ、男の子の住む町と女の子の住む町は、別の国の領土に組み込まれてしまいました。二人の住む町を組み込んだ国々は、それぞれ数百年前から戦争を繰り返していました。彼らの住む町が敵同士となり、争いが始まるのにそう長くはかかりませんでした。
多くの人が傷つき、犠牲になった果てに、戦争は終わりました。そして戦後、国はひどい食糧不足に悩まされました。明日生きられるかも分からない人が町に溢れかえり、淀んだ空気が漂っていました。そんな中、国境にあったあの二本の大木が、一つの木となったのです。互いの木の枝をツタのように絡ませ、やがて木の幹までもがお互いを抱きしめ合うように、寄り添っていったのです。それだけではありません。春になるとその木は紫の花をつけました。そうです、赤い花と青い花、色が混ざり合ったのです。それを見た人々は
「かつて国境を分けた二つの木が、今では一つになっている。そうだ、国境なんて引くべきじゃなかったんだ。隣合う町同士、共に支え合って生きていかなければならないんだ」
紫の花が染めた二つの町は、その後和平を結び、今でも親交を続けているのです―
「この町の花がエリカなのは、こういう言い伝えがあったからよ。ここは女の子が住んでいたとされる町だから、女の子の視点の言い伝えが残っているけれど、隣町には男の子の視点の話が残っているそうよ。ちなみに、エリカの花言葉は博愛ですって」
話し終えた先生は口元を緩め―ニヒルに笑った。温度を持たない、冷たい笑み。その表情で私は現実に引き戻された。外が騒がしい。窓に目を向けると、軍服に身を包んだ男たちが、男子生徒たちを引き連れていくのが見えた。
「次は中学生も招集されるそうね」
まだ裾の長い制服を引きずった弟を思い浮かべる。あの子も、そう遠くない未来には、前線に行ってしまうのだろうか。平和のシンボルと言われたエリカに見送られる時、彼は何を思うのだろうか。
エリカの花言葉は博愛の他にもう一つある。それは孤独だ。和平を結んだ数十年後、この国は数年前から情勢が悪化し始め、他国と足並みがそろわなくなった。その末路が、これだ。
何も知らないエリカは、来年の春も花をつけて、荒れ果てた町を紫に染めるのだろう。強く地に根を張るエリカが、痛ましく思えた。
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