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* * *
クゼのマンションに案内されて、最新の鍵を受け取る「とりあえず奥のリビングでゆっくりしようか」と言われて通された部屋で「わあっ!」とアマネは思わず声を上げた。
南側に面したリビングは大きな窓が付いていて日当たりがとてもいい。
ここで日向ぼっこをしたらどんなに気持ちがいいだろうとアマネは思った。
「気に入ったかい?」
クゼはまるで子供にいうように言ったけれどアマネはあたたかな日差しに感激していてそれに気が付かなかった。
「はい。とても。暖かくていいです」
アマネが心に思ったままそう答えると「君は蛇なんだもんね。すまない、そこまで考えていなくて準備が足りなかったかもしれない」とクゼは言った。
この素晴らしいリビングだけで、アマネが元暮らしていた場所よりも百倍は素敵だと思った。
けれど、そんなことを伝えるのは恥ずかしかったのでアマネは何も言わずなんとか頑張って笑みを浮かべた。
笑みの表情を作るのは難しい。
「無理に表情を作らなくていいよ」
クゼはそう言った。それから「仕事柄爬虫類の人の相談を受けることもあるから彼らの特性は知っているし、それに……だから無理しなくて大丈夫だよ」と付け加えてくれた。 クゼは弁護士だ。だから爬虫類の生態には詳しいし、それに、言葉を濁したけれど無理をして笑みを作らない爬虫類の獣人がどんな扱いを受けるのかもよく知っているということだ。
アマネはそう言ってくれる言葉こそが彼のやさしさだと思った。
うれしさで無意識に薄っすらと笑みを浮かべるアマネをクゼは見つめる。
「二人で使うものは順番にそろえていくとして、なにか希望はあるかい?」
クゼに聞かれるがアマネは答えられない。
「……クゼさんのお好きなもので大丈夫です」
どうせそれほど使う暇はないだろう。
「それに、俺、仕事ばかりでまともな時間に家に帰ってこれるかわからないですし……」
そう、アマネがいうと、クゼが不思議な顔をしている。
何故彼がこのタイミングで不思議な顔をするのかアマネには分からなかった。
「こんなことを聞くのは失礼なのかもしれないけれど――」
そう前置きしてからクゼはアマネに尋ねた。
「ずいぶんと一生懸命仕事をしているみたいだけれど、生活は苦しい。
何か、お金を使わなきゃいけないところがあるのかい?」
番になった後、二人で払う必要があるのなら教えてほしいと心配そうに言われた。
特に何かに使っている訳ではない。仕事で帰りが遅いのも、ほぼサービス残業だ。
それがブラック企業と呼ばれるものだということはアマネも知っている。
『蛇がまともな仕事に就けると思っているのか』
前、上司に言われた言葉がアマネの脳裏によみがえる。
「俺、蛇なので。人と同じに働くことができないんですよ」
だから、何とか雇い続けてもらうためにもアマネは頑張らねばならない。
非正規で不安定な生活だけれど、ここで契約が切られてしまうと次に仕事が見つかるのか、アマネにもわからない。
蛇は冬どうしても動きが鈍くなるし、体調不良も起こしやすい。表情があまり動かないのでサービス業につくことも難しい。
できることが限られている中でそれは仕方がないことだというのはアマネの中での常識だった。
それを淡々とクゼに伝えると、クゼは大きくため息をついた。
「うん。アマネの言いたいことはよくわかった」
最初にそういわれてアマネは少し驚いた。
自分の気持ちをまず受け止めてくれた、という言葉が初めに来るとは思わなかったのだ。
「だけど、それじゃあ、番になった後の生活に困るよね」
センターに登録していた時点で将来誰かと番うつもりだったのだろうと聞かれて、その時初めてそのことについて何も考えたことがなかったことにアマネは気が付いた。
自分は未来について何も考えていないとアマネは思った。
クゼは穏やかな笑みを浮かべた。
「爬虫類の獣人が過ごしにくい社会だってことは、職業柄知ってはいるよ。
だから、アマネの今までの頑張りはすごいことだと思う」
そう言ってからクゼはアマネの頭を撫でた。そうするのが当然のように。
「でもね。そうやって使いつぶされ続ける訳にはいかないよね」
「そう言われても……」
そういう風に言われても、アマネにはどうしたらいいのか分からなかった。
「進路を決める時にはどうやって考えたの?」
「高校を卒業するときに、養護施設を出ないといけなくて。寮があるか安く借りられるアパートが必要で、それで……」
高校に来た求人の中で条件の合うものの中で過去爬虫類の獣人の雇用実績のある中から、選んだ。
それで、郊外にある工場で働いている。
別に工場の仕事が嫌いな訳ではない。
時々体がとてもしんどい日もあるし、もし残業代が出ればたまに贅沢な食事位できるんじゃないかって思うことはあるけれど、たらればの話だ。
爬虫類の獣人で非正規とはいえ仕事を続けられているだけでラッキーだということをアマネは知っている。
「頑張ってきたんだねえ」
そうクゼに言われてもピンとこない。
食事の前でうまく頭が回っていないのかもしれない。
蛇である自分のそういう部分がみんなから嫌われる所以なのかもしれない。
クゼはアマネをそっと抱き寄せるとソファーでアマネの頭をぽんぽんとした。
それはまるで子供にやるような仕草だった。
「まずは、好きなこと、嫌いなことを見つけようか」
クゼはそう言った。
「嫌いなことを仕事にするのはお勧めしない。好きなことはまあケースバイケースかな」 アマネはまずいろいろな事をもっと知ってみようとクゼは付け加えた。
「今回の同棲はきっとちょうどいい機会だったんだよ」
クゼはそう言いながら笑った。
気恥ずかしかったけれど、アマネはどこか安心して、クゼに体を預けた。
もしかしたらクゼという人はとてもお人よしなのかもしれない。
相性という意味で縁があっただけのアマネにこんなにも優しくしてくれる。優しくて、蛇だってことをあまり気にしない変わった人。そんな人は世の中にきっとそうはいない。
だから、そのあと「せっかくの予行練習だから、ダブルベッドだけは用意しました」とクゼに言われたとき、何となくそういうものかと思ってしまった。
* * *
好きなものは少しずつ分かってきた。朝ごはんに食べるふわふわのオムレツ。あたたかな布団。それからゆっくりと入るお風呂。
仕事は相変わらず忙しいけれど、それでも少しずつ何かが変わっている気配がした。
深夜に近い時間にアマネが二人の家に帰りつく。
もうクゼが寝ているかもしれないため小さな声で「ただいま」という。
それだけで心臓のあたりがくすぐられているような感覚がした。
リビングに行くと、インテリアが少し変わっていることに気が付く。
朝何も言われていないけれど、リビングの中央に大きなラグがひかれていて、ソファーに置かれたクッションのカバーも新しくなっていて、ひざ掛けも置いてある。
ラグは毛足が長くふかふかでひざ掛けもふわふわのもこもこだ。
アマネは何度かひざ掛けを撫でる。触り心地が抜群にいい。
「気に入ってもらえたようでよかった」
書斎にいたのであろうクゼがリビングに入ってきて嬉しそうに言った。
この人は自分のためにこれを用意してくれたんだろうか。うれしい。
今まで誰かに自分のためだけにこんなことをしてくれたことはなかった。
児童養護施設で、誕生日会はあったけれど同じ月の子供は全部一緒にという方針で自分だけを祝われたことはない。今日は誕生日じゃないのにこんな風にしてもらえて、アマネはうれしくて、それで、それが申し訳なくて泣き笑いの様な表情を浮かべた。
「なんで、クゼさんはこんな風になんでもできるんですか?」
アマネはぽつりと聞いた。『君のことが好きだからさ』なんて言葉が返ってことないことはちゃんとわかっている。
「うーん。多分凝り性なんだよ」
そうクゼは言った。
「なんでも突き詰めたくなるっていうか、今はこのお試し婚を全力でやりたいって感じかな」
全力を出されても、アマネは恋愛すら碌にしたことがないのだ。甘やかされるのもそれを受け入れるのも慣れていない。
蛇だからしょうがない。これは仕方がないことなんだとアマネはずっと思ってきた。
けれど、クゼはアマネを嫌われ者だという扱いをしない。
まるで普通の婚約者候補のようにアマネを扱ってくれる。
アマネの表情は相変わらず不器用にしか動いていないはずなのに、それを指摘されたこともない。
いつもほんの少しの表情の変化を感じ取って、まるで自分が普通にできているかのようなコミュニケーションが取れている。
大切な人をものすごく大切にするみたいにされて、初めてアマネは自分自身について考えられるようになった。
「明日は近所を案内するね。はやくこの辺にも慣れて欲しいし」
アマネは明日久しぶりの休暇だ。その日に合わせてクゼも休みを取ってくれたらしい。 両親とほとんど暮らしたことのないアマネは番というのがどんな暮らしぶりなのかよくわかっていない。
だけど、クゼがアマネに気を使ってくれていることはちゃんとわかった。
翌日は穏やかに晴れた小春日和だった。
近所のスーパーや朝からやっているおいしいパン屋さんなどを紹介されてから、向かった先は大きな公園だった。
手入れのされた木々が並木として植えられた小道に、芝生の中には東屋がいくつかある。奥にある池にはカルガモが泳いでいて、のんびりとした空気が公園全体に流れているみたいだった。
犬を散歩している人と行き違う。
「いい場所ですね」
アマネは心からそう思った。
「この公園、広くて暖かくて好きです。
僕の生まれた地方にもこんな池があって」
そうだ、少し思い出した。
アマネの小さいころこのくらいの池があってそこでも水鳥が過ごしていた。
アマネはそういう風景が好きだった。日々があまりにもあわただしく過ぎていくので忘れていたが、こんな自然あふれる場所がアマネは好きだった。
両親は喧嘩ばかりしていたけれど、最初母親はアマネに優しくあろうとしていた。
結局ダメになってしまった家族だったけれど、幼いころに母と二人こんな公園に来た。
「春には桜が咲いてとてもきれいなんだ」
東屋で休もうかとさそわれて備え付けられたベンチに腰掛けるとクゼは言った。
「それは素敵ですね」
買ってきた、パン屋の袋を開けながらアマネはクゼに答えた。
友達や同僚と花見というものはしたことは無いけれど、風に舞う桜の花びらははかなくて、泣きそうになってしまう位美しいとアマネは思っている。
それに先ほど通ってきた場所に藤棚らしきものもあった。
アマネのために買った卵サンドに手を伸ばすと一口ほおばる。クゼが言ってた通り本当においしい。パンはふっくらふわふわで卵がしっとりとしていていくらでも食べられそうだ。
多分きっと、クゼが美味しいと思っているだけじゃなくてアマネの好みだろうと紹介してくれたことがわかる。
「並木の間にあった花壇もきれいでした」
自然と漏れる小さな笑みは、クゼ以外には笑顔だとわからない位ひそやかなものだった。
「木とか花とかが好きなのかい?」
「そうかもしれません」
あまり考えたことがなかったけれどそういうことなのかもしれない。
緊張しすぎてよく見えてなかったけれど、クゼと初めて会ったとき散策した日本庭園の草木もとてもよく手入れされていて、好きだった。
「そういう仕事もあるよ」
造園技能士っていうんだけどね。とクゼは付け加えた。
この公園の木々も、初めての出会いの場所の木もコケも何もかもを作り上げている人がいる。それを職業にしている人がいる。
アマネはその日初めてそのことについて深く考えた。
そして、クゼがなぜ『そういう仕事もあるよ』と言ったのかの理由は少しだけわかる。
「色々考えてみます」
アマネはそれしか返すことができなかった。
クゼはあまりそれを気にした風もなく、「午後は図書館を案内して、それで帰ろうか」と言った。
その日の夜、アマネはうまく寝付けなかった。
番になった時の予行練習だからと言われて準備されていたダブルベッドに、クゼと並んで寝ていたからではない。
仕事で疲れ切った日が続いていたので、なし崩し的にそれには慣れてしまっていた。
しかも、クゼは今までそういう意味でアマネに指一本触れていない。
今日だって、手をつないだりはしていない。
時々、アマネを撫でることはあって、それ以外に抱きしめられたり、もたれかからせたりすることはあったけれど、単なるスキンシップの一環の様に思えた。
だから、クゼが隣に横たわっている所為で眠れないのではない。
今日公園でクゼに言われたことが何度も何度もアマネの頭の中でリフレインしていた。
仕事を変えるなんて考えたことはなかった。きっとたくさん勉強することはあるだろう。
だけど、これから先ずっと今までの様に生きていくのか、ということに疑問を持ってしまった。
仕方がないと自分に言い聞かせて、生きていくのかと。
「眠れないのかい?」
寝てしまったと思っていたクゼがアマネに話かける。
どう言葉にしたらいいのかアマネには分からなかった。
「そういえば、仮番の契約に夜の生活についての項目も入っているのは知ってる?」
クゼに言われてアマネはそれを初めて知った。
――どうせ、眠れないのなら少しだけ試してみようか。
ひそひそ声で言われたはずのそれが、やけに室内に響いた気がした。
いやならば断われば多分この人はそれ以上してこない。
その位の信頼は短い日数だけれどアマネの中にあった。
その心の隙を見越したようにクゼはアマネをベッドに押し倒して素早く、パジャマの下とトランクスを脱がせた。
あらわになる下肢にアマネは羞恥を覚えるが、クゼは「すごいつるすべだ」と感嘆した声を上げている。
アマネの控えめな下肢がさらされる。
羞恥にアマネが視線を逸らすけれど、クゼはそれを全く気にしていない。
全く躊躇なくアマネのまだ兆しのないそこに触れると、「ふむ」と謎の納得をした後、どこから取り出したかわからないチューブを取り出し中身を手に垂らしていた。
ぐちゅり、という粘着質な音がベッドルームに響く。
ローションを垂らして粘着質になったクゼの手がアマネの下肢を撫でる。
ビクリ、とアマネが震えると嬉しそうにクゼがのどの奥で笑った。
薄暗い寝室でクゼの肉食獣の様な眼だけが光るように輝いて見える。
初めて人に触れられるという行為にアマネは翻弄されて「あっ、あっ……」と震えるような声を出してしまう。
クゼはアマネの起立を撫で満足げな笑みを浮かべてからアマネの首筋を舐めた。
ザラリとしたネコ科の獣人特有の感触がしたけれど、他に比較対象のいないアマネにはよくわからない。
昔他人に冷血動物だと言われたことを思い出した。
「僕、冷たくないですか?」
「ん? 俺の平熱よりは低いかもだけど、体温がこうやって俺の手から移って温いよ」
クゼが半ばうっとりとするように言う。
それはいいことなのだろうか。快楽に塗りつぶされたアマネの頭ではよくわからなかった。
クゼにはぬるい体温を嫌悪している様子はない。
アマネは、ただ熱を交換できるのであれば、もっとクゼもと思った。
「僕、ぼくも、クゼさんの――」
お試し婚というものがどういうものかわからないけれど、こういうのは多分お互いに気持ちよくなきゃいけないのだろう。
どこまでするのが普通で相性を確認しなければいけないのはどこまでかは分からない。
何をもってこういう時の相性の良さを測るのかも知らない。
アマネがそう申し出ると、ぐちゅんとクゼの手に先ほどまでより力が入って「ひゃぁっ……」としたたか喘ぐ羽目になった。
アマネに、嫌悪感みたいなものは全くなかった。
自分が誰かとこういうことをするかもしれないと想像したことすら無かった。
アマネは体を起こすとクゼの昂ぶりにそっと手を伸ばした。そこが自分の体温よりも熱いことに少し驚く。体温が違うのだから当たり前なのに思わずアマネは固まってしまう。
それでも何とかパジャマのズボンをずらして取り出したクゼの昂ぶりはアマネに比べて大きくて、思わずごくりと唾を飲み込んでしまう。
どうすればいいのかわからず、先を撫でて、幹に手を触れてこするようにする。
つたないアマネの触れ方なのに、クゼの先端からは先走りがもれる。
はっ、とクゼが熱い溜息をもらす。それがアマネは嬉しかった。
「こうやって一緒に……」
それ以上どうやったらいいのかわからなくなってしまったアマネにクゼは向かい合うように腰を下ろしてお互いの昂ぶりを一緒にこすり合わせる。
中心に触れるクゼの熱に浮かされるみたいにアマネは高められていく。
汗がぶわりと吹き出て思考が快楽を追うばかりになる。
アマネはぎゅっとクゼにしがみつくとささやきよりも小さな喘ぎ声を洩らし続けた。
目の前がぱちんとはじけた気がした。
全力疾走の後の様な疲労感にアマネは眠気が襲ってくる。
クゼが「お休み」と声をかける。
それは、優しい優しい声で、アマネはその声を聞きながら睡魔に身を任せた。
翌日目を覚ますと、昨日の夜のことは何もなかったみたいに何もかもが整っていてシーツにもアマネの着ているパジャマにも余韻の様なものは何も無かった。
「おはよう」
ただ、クゼとの距離が昨日までよりも近い気がした。
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