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* * *
種の効果はそれから一週間経ってもアマネの体にあらわれなかった。
アマネは薬との相性が悪かったのかな? と思ったけれどクゼが何も言わなかったのでそのこと自体忘れてしまっていた。
その日はとてもとても寒い日だった。
今年初めての、寒波が来るということでアマネは雇用主からお休みをもらっていた。
新しい造園の仕事場の人たちはみな優しい。
寒さで少しだけだるい体でクゼを送り出す。
「今日は寒いんだからゆっくりしていてね」
そういわれてアマネはうなずくと「いってらっしゃい」と言ってクゼを送り出した。
こういう瞬間、アマネはむずむずとした気持ちになる。
せっかくもらったお休みだけど、あまり体を動かせそうにない。
いつもより重くてだるい体を恨めしく思いながらアマネはソファーでクゼからもらったブランケットをかけてもたれる様に横になっていた。
玄関のチャイムが連打されるように鳴ったのはお昼の少し前だった。
重い体を引きずるようにして玄関へ向かったアマネの前にあらわれたのはクゼの母だった。
「へ?」
「だから、間違いだったの!! おかしいと思ったのよ」
番の診断システムに不具合があり、アマネとクゼは誤って通常より高く相性値が検出されていたらしい。実際の相性はもっとずっと低くて、クゼにはもっと相性がいい人が何人もいるらしい。
今更そんなことを言われても、とアマネは思った。
今ここにクゼがいない。せめてクゼと話をしてから終わりにさせたい。
「まだ番になってないんでしょ。なら、何の問題もないわ!」
さあ出てって頂戴! とクゼの母親はアマネに叫ぶように言った。
「相性がいいから仮契約をしていたんだから。まあ、ヤダ。そんな目でにらむことないじゃない」
アマネは睨んだつもりはなかった。けれど彼女にはそう映ってしまったのだろう。
悔しくてアマネは涙がにじみそうになっただけだ。
けれどそんなアマネを無視してクゼの母親はクゼの家にずかずかと入り込みほんの少しだけあったアマネの持ち物をいくつか乱雑に安物のカバンに放りこんだ。
それを突き出すように渡すと、彼女は「まあ、こんな手違いがなければあなたのような生き物がこんないい思いできなかったでしょうから、むしろラッキーだと思ってほしいわ」と言った。
彼女の言うとおりだ。
今日までの彼との生活は今まで一番楽しくて、刺激的で、それで暖かく優しかった。
それもすべて間違いだった。
最初から交わるはずのない二人だったということだ。
アマネは荷物を静かに受け取ると、クゼの母親に深々と頭を下げた。
それから、なるべくちゃんと笑顔に見えるように頑張って「今までありがとうございました」と言った。
他の言葉は思い浮かばなかったし、他に言えそうなものは何もなかった。
クゼにせめて何か一言と思ったけれど何も思い浮かばなかった。
相性がデータ的によかったというただ一点以外でクゼと自分を結びつける何かがあるとは思えなかった。
「失礼します」
これから先の予定はなんのアテもないし、これからどうしたらいいのかわからなかったけれど、赤の他人であるこの人にそこまで言えるわけがなかった。
おなかの中が気持ち悪い。
クゼと番になれるかもと思った自分が恥ずかしい。
アマネは最悪な気持ちになることが止められなかった。
こういう時どうすればいいのか。暖かさを知ってしまったアマネはもう、わからなかった。
元々住んでいたアパートはもう解約をして引き払ってしまっていた。
クゼの友人だという今の雇用主を頼ってクゼに迷惑をかけたくなかった。
「寒いなあ」
明日からどう生きていくかよりもただひたすら寒かった。
クゼのくれた暖かさをどうしてもアマネは忘れられそうになかった。
「好きだったのになあ」
あの人のことが好きだった。届かぬ様な人で、それでいて少し変わった人。そんなクゼのことが心底好きになってしまったのに。
アマネは彼のうち以外にそこしか思い浮かばなくて、小さい荷物を持って、重い足取りで二人の思い出の場所に向かった。
* * *
「はあ?」
何不自由なく自分を高める努力をさせてくれた両親にクゼは感謝していた。
ユラハとの婚約がダメになったため、それに対する引け目もあった。
けれど、クゼ自身が選んだ相手とのお試し婚を勝手に解消されたことに、クゼはどうしようもない怒りを感じていた。
家に帰ると、いつも待っててくれたアマネはおらず、代わりに満面の笑みを浮かべた母親がいた。
曰く、アマネとのお見合いは間違いだったから彼を追い出した。
最初にその話を聞いた時クゼは目の前が真っ暗になったように錯覚した。
「は? 間違い? 何が」
アマネと自分の関係に間違いなど何一つない。
順調に信頼関係を築いて、アマネはどんどんクゼに心を開いていて、何も問題はなかった。
二人で過ごす時間は穏やかでけれどどこか少しだけそわそわとして、ずっとずっとその時間が続けばいいと思っていた。
行政がどうのこうのという話ではない。
それをなぜ勝手に解消しようとしているのか。
そもそもこの契約は二人の間で結ばれた不可侵のものだ。
何故それを誰かに邪魔されなければならないのか。
母親に呼ばれたらしいユラハも状況が把握できなさそうにいる。
「え? どういうこと!? 義母さん義兄さんの恋人勝手に追い出しちゃったの!?」
ユラハが叫ぶように言う。
「恋人って、違うわよね。相性のシステムでいい値が出たから仕方がなく付き合ってたのよね?」
自分とアマネの関係をどう呼ぶべきなのかはわからない。
自分がちゃんとした名前を付けてやらなかったのがいけないのだけれど、まるで仕方がなく一緒にいたと思われていたことが腹立たしい。
初めて見合いのデータを見せてもらった瞬間、雷を受けたかの様な衝撃だったのだ。それですぐこれは運命だと思った。
獣人の勘、本能と呼ばれる部分が求めるものは自分自身が真に求めているものだという。この勘も間違いなく正しい。
「あれは、俺のものだ。あれ以外と番になるつもりは無い」
「義兄さん威嚇しない。それより彼どこに行ったの!? 追っかけなくていいの!?」
ユラハに言われて、クゼはハッとした。怒りに我を忘れるところだった。
「あの人の連絡先は? おうちは? 実家は?」
スマートフォンに電話をするが電源が入っていないらしくかからない。
アマネに家も実家もないことはクゼが一番よく知っている。
もう一つ連絡できそうな場所は、あの庭師の悪友のところだけだ。
連絡をしてみるが、何の連絡もないらしい。
「お前馬鹿なの?」
アマネに対する話し方とまるで違うキツい悪態をつかれるがクゼはそれにいちいち応えてやるだけの余裕はない。
「連絡が来たらこっちへ回してくれ」とだけ伝えて通話を一方的に打ち切る。
彼に行ける場所なんかない。それはクゼが一番よく知っていた。
なのに彼を手放してしまった。
彼は一人追い出されて一体どこへ行ったというのか。
『この公園、広くて暖かくて好きです。
僕の生まれた地方にもこんな池があって――』
アマネの生まれた地方に興味を持ったことがなかった。
彼とのこれからの生活にだけ夢中で彼の過去についてはあまり聞いたことがなかった。
けれど、彼が行きそうな場所、彼が好きな場所で思い当たる場所はそこしかなかった。
「一か所だけ確認したい場所がある」
深夜に差し掛かるような時間だ。そんな場所に一人いないでくれという気持ちと、そこにいて欲しいというわがままな気持ちが混じりあう。
車を走らせたその場所は、二人で昼間歩いた時の印象とだいぶ違っていた。
ここではないのか、と思いつつ公園を歩いて一周した。
「本当にここなの!?友達とかはいないの!?」
後から追いかけてくるユラハに言われるが、アマネから友人の話を聞いたことはなかった。
(もっと話を聞いておけばよかった)
しっかりしていると周りに言われる人間が、聞いてあきれる。クゼは自嘲気味な溜息を洩らしたすぐ後、その塊を見つけた。
公園のベンチの上、追い出された時と全く同じ恰好でアマネはそこにうずくまっていた。その時に持っていた小さな荷物を詰めたカバンもそのままだ。
追い出されてからずっとここにいたのだろうか。どこにも行くところがなくずっとここに。
クゼはぎゅうと、胸のあたりが締め付けられるようだった。
こんなにも小さくて可愛くて、いじらしい生き物が一人で寒さに耐えていたというだけでもう駄目だった。
「兄さん!」
アマネを抱きしめて、クゼが立ち尽くしていると、ユラハが怒鳴るように声をかけた。 ハッとクゼは我に返ると、車の方に向かってアマネを抱きかかえたまま踵をかえした。
* * *
急いで向かった救急病院ではアマネを見るとすぐに温める必要があると、看護師たちがバタバタと処置を始めていた。
ご家族の方は待合室にと言われて薄暗くだだっ広い待合室にクゼは座った。
完全に放置してしまったユラハがゼイゼイと息を切らしながらクゼの元に来た。
「友人は追い出されちゃったとか」
「まさか。仮とはいえきちんと契約文書は交わしている」
病室にだって入れるし、手術の同意書も書ける。
そういう契約に自分でしたのだ。思えばあのころから自分のものだという前提で動いていたのだ。
「契約解除を母さんが勝手にしちゃったんじゃ」
「あの人が何と言おうと、あれは俺のものだ」
思いのほか言葉は簡単に出た。
少しばかりすがすがしい気分と、その自分のもののはずの彼を一時でも手放してひどい目に合わせてしまった負い目が両方いっぺんにクゼを襲った。
「命に別状はないらしい」
クゼはそれだけ伝えるともう何もユラハには伝えなかった。
「じゃあ、俺はこれで帰るね」
パートナーが病院まで迎えに来てくれるらしい。
クゼはここを離れる気持ちになれなかったから「ああ」と答えるだけにとどめた。
「やっと見つけた番なんだから、大切にね」
去り際、言われた言葉がクゼの胸の中に深く深く刻み込まれた。
それからクゼが診察室に呼ばれるまで、おおよそ三十分程の時間がかかった。
ご家族の方、と呼び出された診察室で神妙な顔をした医師はクゼをじとりとにらみつけた。
「彼、今発情していますが、思い当たる節は?」
医者が感情を押し殺すように静かに言った。
クゼには勿論思い当たる節しかなかった。
あの時飲ませた種の効果が出ているのだ。
「あります」
「そうですか?」
責められた方がクゼにとってはマシだった。
なんでその状態のパートナーをこんな状態にしているんですかと怒鳴られた方がどれだけマシだったことだろう。
「今の状態で発情の効果を打ち消すのは難しいです」
ぼーっとしているアマネは事実を理解しているのかわからなかった。
あの時いつもの行為と同じただ楽しむためだけに彼に種を飲ませたことをクゼは後悔していた。
クゼのジャケットを羽織ったアマネは診察が終わってもどこかぼんやりしている。
彼を追い出したも同然なのに、こんなことを言ってはいけないと思いながら「家に、帰ろう」と言った。
アマネのキラキラと金色に輝く瞳がクゼを見上げた。
アマネの瞳の色はこんな色だっただろうか。
「目に、何かあったでしょうか?」
確認のために医師に聞く。
医師は当たり前みたいに、「検査のためにコンタクトレンズは外させていただきました。使い捨てタイプのようなのでこちらで処分いたしました」と答えられただけだった。
「家……」
ぽつりとアマネが言った。
「そうだ。二人の家に帰ろう」
すがるような気持ちでクゼは言った。
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