三十三

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三十三

 タイチの車は、のらりくらりと国道四号線を走り、時に脇道に逸れながら盛岡市内に入っていた。ユキナの表情は沈んでいた。睡眠不足と疲労でくたくただった。雪化粧した街なんて見るのは初めてだったにも関わらず、心が浮上しなかった。エリナの顔が次々に思い出されては消えて行った。エリナが最期に残した「さよなら」という響きが、耳の奥底にいつまでも残っている。パトカーのサイレンが聞こえると、タイチはするりと脇道に入ってやり過ごした。さすがに土地勘があるのだろう、タイチは幾つも裏路を知っていた。ユキナの心の中に、今度こそ本気で芸能界を引退したいという気持ちが募った。もう、自分を晒すのも晒されるのも嫌だった。  タイチは喜々としてユキナを連れまわした。自分の思い出がある場所を次々に回り、自分の少しやんちゃな学生時代の話をした。ユキナも少しづつ正面の景色を見ることができるようになってきた。昼近くになった。 「ユキナさん、お腹減らねえっすか?」 「ああ、腹減った」  正直、食欲は無かったが、一所懸命なタイチに少しだけでも応えてあげたかった。 「盛岡じゃじゃ麺って、知ってっすか?」 「ん? ジャージャー麺と違うのか?」  タイチが嬉しそうに笑う。 「全然違う食べ物っすよ。ジャージャー麺は麺が中華麺で、じゃじゃ麺は平打ちのうどんっす。その上にニンニク味噌がたっぷり乗ってるんすよ。それをよくかき混ぜて食べた後、皿に残った味噌を鶏蛋(チータン)スープで溶いて、溶き卵を入れてグッと飲むんすよ。これが美味いんすから」  ユキナが苦笑した。 「近くに白龍(パイロン)という店があるっす。よく学校さぼって食いに行ってたっすよ」 「じゃあ、そこ行こ、でも、顔バレしねえかな?」  タイチはしばらく思い詰めたように遠くを見ていた。 「ユキナさん、もういいっすよ俺。バレたらバレたで、もういいっす。最期の晩餐に盛岡じゃじゃ麺が食えるんすから、諦めもつくってもんすよ、行きましょ」 「タイチ・・・・・・お前」  二人は内丸にある岩手県警盛岡中央署の脇に車を路駐し、堂々と歩いて白龍に行った。しかし不思議なもので、誰にも気付かれない。二人でじゃじゃ麺と鶏蛋々スープまで平らげて店を出た。 「案外気付かれねぇもんだな」 「そうっすね、びっくりしました。田舎の人は皆、芸能人に慣れてねえっすよ。だから似てるなとは思っても、まさか盛岡みたいな田舎町にミウラユキナさんがいるなんて、夢にも思わねえっす。俺、鼻高えっすよ、そのユキナさんとデートできて」  ユキナが苦笑する。 「はい、はい、デートね」  タイチの無邪気な笑顔を見ていると、そのささやかな夢を壊す気にはなれなかった。ユキナの弟のヒデユキよりも更に年下で、ユキナと一回りも違うのだ。 「おう、次はどこ行くんだ?」 「そうっすね、だいたい見てまわっちゃったんで、ウチ来ませんか? こっから二十分くらいのところに松園ニュータウンっていう団地があるんすけど、そこにお袋が一人で暮らしてるんす。ユキナさん連れて帰ったら、びっくりして腰抜かすだろうなぁ。でも、無理しなくていいんすよ、汚いところだから」  タイチが今度こそユキナに断られると思い、目を合わせないでいる。 「いいよ、お前の実家とやらに行こうか」 「え? マジっすか? マジで来てくれるんすか? 信じられないっすよ」  タイチが大はしゃぎした。男の子の心の中には、いつか愛した女に自分の故郷、自分の両親、友人すらも受け入れてもらいたいという気持ちがあるのだろうか? そういえば、ショウにも一度、盛岡に連れて来られたっけ。 「でもタイチ、申し訳ないが、お前の気持ちは受け入れてやれない」  タイチの目が一瞬泳いだ。 「わかってるっすよ、俺とユキナさんとじゃあ、天と地ほどの差が有り過ぎて、釣り合いが取れねぇっすよ。思い出作りっす、人生最高の思い出作り」  二人を乗せた車は松園に向け、中央通を西走した。すると、対向車線を紺色の見覚えのあるアウディが近づいてきて擦れ違った。 「あっ、ショウ!」  ユキナが思わず叫んだ。振り返るとアウディが急ブレーキをかけ、ウィンドウからパトランプを出すのが見えた。アウディがUターンしてくるのがわかった。 「やべえ、見つかった」  タイチが大声を出した。一気にアクセルを踏む。体が前につんのめった。ユキナが思わず悲鳴を上げた。 「ユキナさん、捕まってて下さい!」  タイチの表情が変わった。警察の手から逃れようというよりも、ユキナの彼氏であるショウという男に挑むかのような、男の意地を剥き出しにした。そこには田舎の不良少年の面影は無かった。タイチが中央通りを信号を無視して突っ走る。交差点はクラクションの嵐となった。車と車の隙間を白い軽ワンボックスが擦り抜けて行く。タイチはそのまま北上川に架かる夕顔瀬橋を渡ると見せかけて、ハンドルを右に切った。細い坂道を登り、岩手大学を上田の交差点まで一気に走り抜けた。一方、ショウも負けてはいない。急ハンドルにもアウディが切れ味よくついて行く。瞬間的な加速は軽自動車など比較にならない。タイチの軽ワンボックスの後ろに、ショウのアウディがピタリとついた。タイチがアクセルをベタ踏みした。ブンッとエンジンが鳴った。 「ねえ、タイチ、やめて!」 「ユキナさん、黙っててください。これは男と男の勝負なんすよ」  ショウのアウディが高松の坂で、タイチの車と並走した。タイチがハンドルを切ってボディを当てようとする。車体の弱い軽自動車が、ドイツ車に体当たりするなんてバカげている。しかし、奴は本気なのだ。ショウはそれをスピードを緩めてかわす。ぶつかって事故を起こされては、ユキナの身が心配だった。無茶な運転で意地を張るタイチに、ショウは冷ややかだった。そのまま追走し、松園団地の中に追い込んだ。静かな住宅街にサイレンが鳴り響く。タイチが古い団地の棟の前に車を停めた。 「ユキナさん、ここが俺の実家っす」  額にびっしょりと汗をかいていた。バックミラーに、近づいてくるショウの姿が映っていた。 「楽しかった旅も、これでジ・エンドっすね」 「タイチ、ちょっと待ってろ。最期にお前がお袋さんに会えるように、アタシがショウに話してくる」  ユキナが車を降りた。周辺に人だかりができていた。ユキナはそれを気にもせず、ショウのところに駆けて行った。 「ショウ、頼みがあんだ。逮捕すんのは、アイツがお袋さんに会ってからにしてやってくんねえか?」  ショウがユキナの瞳の奥を覗き込んだ。ユキナの目が紅かった。次々に県警のパトカーがやってきた。ユキナの肩をそっと抱き寄せた。ユキナがショウの胸に顔を埋めて肩を震わせた。ショウの香りを嗅いだら涙が止まらなかった。 「ユキナ、遅れて悪かった」  ユキナが声を震わせる。 「遅せぇんだよ・・・・・・お前はいつも」 「すまない」  強く抱きしめた。県警の捜査員たちが団地の階段を駆け上がって行く。 「ユキナ、行くぞ。アイツも自分が逮捕される姿を、お前にだけは見られたくないだろうからな」  ユキナが小さく頷き、ショウの車に乗った。  県警本部で夕方まで事情聴取を受けた後、市内で食事をとり、二人は八幡平の別荘に向かった。暖房で顔が火照った。腹が満たされて、急に安心したせいか、ユキナが軽い寝息をたてていた。話したいことは山ほどあった。けれども、それは今でなくともよいような気がした。気丈には振舞っているが、ユキナが受けた精神的なダメージは計り知れないものがある。今はただ、ぐっすりと眠らせてやりたかった。  別荘に着いた。部屋の明かりを灯すと、ようやく心が落ち着いた。ユキナが眠たい目を擦りながら、 「へえ、ここがショウのお祖父さんの別荘かあ、凄げえ」 「ユキナ、疲れたろう、温泉にでもつかって今日は休めよ」 「おお、あんがとな、でもアタシ、まだ大丈夫。車の中で少し眠ったから」 「相変わらず、タフな奴だな」  照れ笑いするユキナだが、どこか表情が寂しげだった。 「友達のこと、考えてるのか?」  ユキナが小さく頷いた。 「こっちにおいで」  ショウが抱き寄せた。 「東京に戻ったら、二人で友達に会いに行こう」  ユキナの瞳が揺れた。壁に掛けてある絵が目に入った。 「ショウ、あの絵・・・・・・」 「親父の絵だ」  ユキナはしばらくジッとその絵を見つめていた。 「何か懐かしいような気がする」 「懐かしい・・・・・・か」  ショウがユキナの髪に頬を寄せた。 「その絵は雪の盛岡を描いたものなんだ」 「そっか、それで、何か見たことあるって感じたのかも」  ショウが微笑んだ。 「この黄色い傘さして歩いている子供、何かお前に似てる」  ユキナがショウの顔を見上げた。 「そうか」  ショウが頬を緩ませた。 「ユキナ、いつかその絵をお前にやるよ」 「いいよ、いいよ、これ、結構高いんだろ?」 「まぁな」  目を細める。 「ショウ、どうして男の子って、自分の生まれ故郷を見せたがるんだ?」  窓辺に行ってカーテンを開けた。漆黒の闇が広がっていた。ショウの表情が窓ガラスに映っている。 「どうしてだろうな、男は、言葉にするのが苦手なのさ」  ユキナがショウを見つめた。大きな背中が愛しかった。外は雪だった。シンと静まり返っている。  永遠に降り続くような雪だった。                             (了) ※最後までお読みいただき、誠に有難うございます。引き続き「虫たちは明日を目指す6 六月の雨」をお楽しみ下さいませ。
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