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 風に吹かれて、落ち葉がかすれた音を立てている。夏の黒い影はすっかり身を潜め、薄く長い人影が夕陽に伸びていた。ミウラユキナが四ツ谷のスタジオでの収録を終え、新宿へ向かう電車を待っていた。襟元に入り込む風が冷たい。大きな白いマスクとキャップのおかげで、ユキナに気付く者はいない。心にぽっかりと空いた穴を覗き込むように、ホームから外濠の脇にある釣堀を眺めていた。  千葉に向かう下り電車がホームに入ってくる。風圧で髪が乱れた。夏に髪を短く切った。特別な意味があるわけではない。タレントではあるが、ドラマに出ているわけでもないし、自由気ままに切った。ショウとはしばらく会っていない。上海から帰国し、本庁から再び万世橋署に戻ったことは知っていた。何度か会う約束をしたが、収録の都合などでタイミングを逃していた。寂しさというより、心のどこかでホッとしている自分がいる。これまでには無かった感情だった。勿論会いたくないわけではない。しかし、「会う理由」というか、若い頃のように「会いたいから会う」ことをためらうようになった。会うための理由を考えるようになったら終わりなのかもしれないと思ったこともある。ショウに出会って十年が経つ。同時に、当時のままではいられないこともよくわかっていた。ショウよりもむしろ、変わったのは自分の方なのかもしれない。この十年で、幾つかショウの過去を知ったが、それによって見る目が変わったわけではない。自分が芸能界に入り、生活が大きく変化したことが原因かもしれない。タレントになり、それなりに大人の事情も目にしてきた。子供のままではいられないこともわかっている。ユキナは今年、三十歳になった。世間的には「美人過ぎる料理研究家」として認知されている。ファンもいるが、三十代の女性タレントとして、生きる道を考えなければならないと思っている。二十代前半、秋葉原の地下アイドルをしていた頃の方が生き生きとしていたようにも思う。一度は諦めた芸能界に、偶然にも入ることになった。人生はわからないものだと思う。  上り電車が入ってくると同時に携帯電話が鳴った。見知らぬ番号からだった。携帯電話の番号は高校時代から変えていない。電話に出ると懐かしい声がした。高校時代の親友、ヨシザワエリナだった。 「ユキナ、元気?」 「おおっ、エリナじゃねえか、お前こそ元気か? お前、携帯の番号変えただろ? 連絡取れねぇから心配してたんだぞ」 「ユキナ、相変わらず元気いいね。いつもテレビ観てるよ」 「ん? そうか、あんがとな。で、お前、今、何やってんの?」  発車のベルが鳴る。ユキナが電車をやり過ごし、ホームのベンチに腰掛けた。 「うん、私も一応、モデルやってる」 「何だあ、そうだったんだぁ」 「でも、ユキナのように有名じゃないし、全然売れてないから」 「ん? 別にアタシだって、そんな」  と言いかけてやめた。 「私ね、ユキナなら絶対売れると思ってたんだよ」 「あんがとな。でも、どうしたんだ? 急に電話してきたりして」 「ううん、ちょっとね。まだお友達、有効なのかなって」  声のトーンが下がった。 「有効も何も、友達に期限なんてないよ」 「有難う。嬉しい」 「エリナ、お前、今、どこ居んの?」 「新宿だけど」 「アタシ、今、四ツ谷に居んだけどさ、新宿まですぐだから、久しぶりに飯でも食わない?」 「うん、行く、いいの?」 「じゃあ、今から一時間後に西口のキリンシティで」  と言って通話を切った。  ユキナが店内の入ると、奥のテーブル席にエリナが座っていた。ユキナに気がつくと、小さく手を振った。 「久しぶり! エリナお前、あんま変わんねぇな」 「ユキナ、髪切ったんだね、とても素敵」 「これから冬になるっつーのによ、バッサリ切っちまったぜ」  二人はグラスの生ビールで乾杯した。 「いつ以来だっけ?」 「そうね、ユキナが売れない劇団に入って、アキバで地下アイドルやってた頃以来じゃないかしら? それにしても今は凄い人気じゃない。私、友達として鼻が高いわ」  ユキナがペロッと舌を出した。 「たまたま運が良かっただけ。本当は芸能界入るの諦めてたんよ。途中から何のために芸能界入りたいのかわかんなくなっちゃってたし」 「そうなんだ? 嫌味? それ」  と言ってエリナは笑ったが、ユキナは表情を落とした。 「エリナ、あんた今、どこ住んでんの?」 「笹塚。もう一人暮らし始めて五年になる。ユキナは?」 「えへへ、まだ実家。仕事忙しくて、自分の世話できねえから」 「ふうん、ユキナ、売れてるもんね」 「エリナ、お前もモデルやってんでしょう?」 「細々とね。全く無名だけど、下着のモデルやったり、旅行雑誌だったりね。酷い時は脚だけとか、手だけとか、ね」  エリナとは高校の同級生だった。実家が同じ調布市内にある。エリナもクラスの男子に人気があった。ユキナとは正反対の物静かなタイプで、髪も長く、どこかのお嬢様的な雰囲気を持っていた。エリナは勉強もよくできた。卒業して都内の大学に進学したことは知っていたが、地元の映画学校に進んだユキナとは、次第に会わなくなった。 「エリナ、あんたまで芸能界にいたとはね。で、何でアタシに電話してきたの? 何か相談があったんでしょう?」  エリナが頷いた後、下を向いた。 「実はね、今、ある芸能事務所から誘いを受けてるの」 「おお、よかったじゃん」 「うん、でもね、ちょっと迷ってる」 「どうして?」 「私ね、今、お付き合いしている人がいて、その人が経営している事務所なんだけどね」 「何だよ、彼氏の事務所に移籍なんて、良い話じゃん」  エリナが頷いた。横顔にサッと影が差した。 「ユキナは今、付き合ってる人とかいるの?」  一瞬、顔を紅らめた。 「ん? まあな、事務所的にはNGなんだけどな」 「人気タレントだもんね、ユキナ、で、彼は何をやっている人? 俳優さん?」  ユキナが首を横に振る。 「いんや、刑事やってる」  エリナが驚いて、目を大きく開いた。 「刑事?」 「うん、所轄署の刑事。組対っていう部署にいるんだと」 「何か刑事ドラマとかで聞いたことある」  ユキナが目を細めた。 「じゃあ、やっぱ強いんだ?」 「どうだろ? 何度か助けてもらったことあんけど」 「へえ、ユキナがね。芸能人の秘密知っちゃったって感じ。あんたって昔からそういうとこあったよね。優しくて背の高いイケメンには目もくれないようなところがさ」  ユキナが照れ笑いを浮かべる。 「かと言って、ショウはゴリラみたいな筋肉バカじゃないぞ」 「ユキナの彼、ショウさんって言うのね」 「ああ、もう出会って十年になるんよ」 「あら? じゃあ結婚は? ユキナのファンが悲しむだろうけど」  ユキナがブルブルと首を振る。 「それが全く、その気無しって感じ」 「ふうん、ごちそうさま」 「エリナ、あんたの彼氏は?」 「うん、ちょっとね」 「どうしたんだよ、エリナ?」  深い溜息をついた。 「実はね、彼、表の人ではないの」  ユキナが眉を潜めた。しかし、芸能プロダクションにはよくある話で、驚くほどのことではなかった。 「大丈夫なの?」 「うん、私には優しくしてくれる」 「裏って、やっぱ、組関係とか」 「よくわかんないのよ、でも、錦糸町で夜のお店を幾つもやってる。ヤクザみたいな男の人たちと会ってるのも見たわ」 「まあ、業界にはよくある話だけど、あんたの彼氏ってんじゃ聞き流すわけにもいかないよ。余程、注意して付き合った方がいいぞ」 「うん、わかってる」 「何か困ったことがあったら言いなよ、ショウに話したげる」 「有難う、ユキナ」  その日、二人は新宿で別れた。
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