18人が本棚に入れています
本棚に追加
「しまった。忘れてきたようだ。取りに帰らないと」
祐介はあわてて来た道を戻った。午後九時過ぎ。幸い道は空いている。
…… 十分もあれば着くだろう ……
車の速度を緩め裏通りに入る。人影はない。心細い風景だ。桜井ビルの前に車を停めると、祐介はすぐに階段を登り始めた。
***
急いで階段を登ったからだろうか。目ざす七階に着く前に息が切れた。祐介は仕方なく五階の踊り場で一息つく。踊り場には壁がほとんどない。柵の間を夜風が吹き抜ける。五月とはいえ、肌に冷たい風だ。
祐介は、荒い息を整えながら外の景色を見渡した。
遠くに繁華街の電飾が光って見える。
…… こんなところで俺、何してんだろう ……
急に『それ』を取りに戻った自分が哀れに思え、言いようのない淋しさに襲われた。
***
そのとき祐介の目の前を人影が横切った。
祐介は異様な雰囲気に呑まれその黒い姿を凝視する。存在感のない不思議な女だ。
…… 誰なんだ ……
そう思ったとき女がふり返った。祐介はその顔を見て驚愕する。
「穂詩……どうしてここに」
「あなたのことが大好きだった」
穂詩は祐介の袖先を擦るように一旦身を寄せると、音もなく歩み去っていった。狭い階段の踊り場が、舞台のように広く見えたのはなぜだろう。
祐介は穂詩の手を見て困惑する。指から潜血が滴っていた。
祐介は話しかけようとした。しかし空間がそれを許さない……
穂詩は、そのまま階段を降りていくように見えた。
ところが穂詩は、踊り場の柵に血に染まった手をかけると、ビルから外へと身を投げたのだ。
「おい。穂詩!!」
穂詩は、必死で伸ばした祐介の指先に触れることなく、真っ直ぐに落ちていった。その姿は闇に紛れて見えなくなる。砂袋を叩きつけたような重い音が響いた。
***
祐介はひどい胸騒ぎに襲われ、階段を一気に駆け上がった。料理教室の扉をガチャリと開け、中へと転がり込む。
「え? 何……」
雫が垂れるシンクの傍らに転がっている躯。胸に刺さったナイフの横に一枚の紙が置かれている。
『なぜ久子と別れてくれなかったの?』
残された穂詩の文字とともに祐介は落とし物のことを理解する。
…… 俺が取りに戻ったのは、俺自身だったんだ ……
開かれたままの扉から、紐のように結ばれた風が忍び込み、祐介の全てを運び去っていった。
時刻は午後九時過ぎ。時計の針は止まったまま。
了
最初のコメントを投稿しよう!