忘れた物は

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 「しまった。忘れてきたようだ。取りに帰らないと」  祐介(ゆうすけ)はあわてて来た道を戻った。午後九時過ぎ。幸い道は空いている。  …… 十分もあれば着くだろう ……  車の速度を緩め裏通りに入る。人影はない。心細い風景だ。桜井ビルの前に車を停めると、祐介はすぐに階段を登り始めた。  ***  急いで階段を登ったからだろうか。目ざす七階に着く前に息が切れた。祐介は仕方なく五階の踊り場で一息つく。踊り場には壁がほとんどない。柵の間を夜風が吹き抜ける。五月とはいえ、肌に冷たい風だ。  祐介は、荒い息を整えながら外の景色を見渡した。  遠くに繁華街の電飾が光って見える。  …… こんなところで俺、何してんだろう ……  急に『それ』を取りに戻った自分が哀れに思え、言いようのない淋しさに襲われた。  ***  そのとき祐介の目の前を人影が横切った。  祐介は異様な雰囲気に呑まれその黒い姿を凝視する。存在感のない不思議な女だ。  …… 誰なんだ ……  そう思ったとき女がふり返った。祐介はその顔を見て驚愕する。  「穂詩(ほのか)……どうしてここに」  「あなたのことが大好きだった」  穂詩は祐介の袖先を擦るように一旦身を寄せると、音もなく歩み去っていった。狭い階段の踊り場が、舞台のように広く見えたのはなぜだろう。  祐介は穂詩の手を見て困惑する。指から潜血が滴っていた。  祐介は話しかけようとした。しかし空間がそれを許さない……  穂詩は、そのまま階段を降りていくように見えた。  ところが穂詩は、踊り場の柵に血に染まった手をかけると、ビルから外へと身を投げたのだ。   「おい。穂詩!!」  穂詩は、必死で伸ばした祐介の指先に触れることなく、真っ直ぐに落ちていった。その姿は闇に紛れて見えなくなる。砂袋を叩きつけたような重い音が響いた。  ***  祐介はひどい胸騒ぎに襲われ、階段を一気に駆け上がった。料理教室の扉をガチャリと開け、中へと転がり込む。  「え? 何……」  雫が垂れるシンクの傍らに転がっている(むくろ)。胸に刺さったナイフの横に一枚の紙が置かれている。  『なぜ久子と別れてくれなかったの?』  残された穂詩の文字とともに祐介は落とし物のことを理解する。  …… 俺が取りに戻ったのは、俺自身だったんだ ……  開かれたままの扉から、紐のように結ばれた風が忍び込み、祐介の全てを運び去っていった。  時刻は午後九時過ぎ。時計の針は止まったまま。    了
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