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目の前の田中はいつまでもキョロキョロと、僕のことを探している。
手元には僕に渡したいのであろう書類。田中はそれを渡すため僕のデスクまで出向き、僕はこうしてきちんとデスクに座っている。なのに田中は一向に僕の姿に気づかない。
僕が立ちあがり、田中の視界に割って入ると、ようやく田中は僕に気づいてくれた。
「あ、五十嵐さん!これ頼まれてた資料です」
「うん、ありがとう」
書類を受け取り、僕はため息をつく。別に田中に限った話じゃない。伊藤も佐々木さんも倉島さんも加藤部長も、いや、ありとあらゆる人々の全ては僕に気づかない。つまりは彼らが悪いのではなく、僕の圧倒的な影の薄さが悪いのだった。
目の前で声を上げたり、肩を叩きでもしなければ、みな僕の存在に気づかない。就活の時だって、面接室に入り、面接官たちの前に立ってもなお、彼らは僕の存在に気づいてくれず、僕がいつまでも入ってこないと思い、何やら狼狽えていた。ようやく面接が始まったと思うも、ノンストップで質疑応答を交わしているにも関わらず時折目の前の僕を見失う始末。
そんなこんなで、この会社に入るのだってそもそも大変だったのだ。もう一度あんな思いをするくらいなら、日々のこまかな苦労もじっと耐えよう。幸運なことにメールなどでのコミュニケーションは何不自由なく出来るため、仕事自体はどうにかなっている。
ただ道を歩いているだけでも通り過ぎる人々とひたすらにぶつかるため、僕は誰もいない細い路地などを選んで歩くことが多かった。
そんな僕には時々やる遊びのようなものがあって、それは路地を適当に進んでいき、そして抜けた先にどんな場所に出るのか、ただそれだけを楽しむという行為で、まともに友達も作れぬ僕にとって、それは暇つぶし程度には丁度良かった。
だからその日も僕はいつものように、無心で路地を歩いていた。そして僕はその途中で見つけたのだった。その店は路地の中にひっそりとあった。
こんなにも薄暗く、人気も無い路地に構えるなどどんな考えの店なのだろう、これではまともにお客さんも来ないのではないかと僕は思った。恐る恐るその入り口に手を伸ばす。僕は湧き上がる好奇心を押さえることは出来なかった。
「いらっしゃい」
店の奥から響くその声に僕はまず驚く。これまでの人生、入店し、店員に気づかれることなど無かった。
「これまた随分影の薄いお客さんが来たもんだ」
見れば髭面の、なんとも奇妙な雰囲気を醸し出した店員がそう言い、にやりと笑う。
店内は薄暗く、また墨のような、不思議な匂いが充満していた。何か商品が陳列されている様子は無い、かといってテーブルや椅子の類も特に無く、飲食店というわけでもなさそうだった。
「見たところわざわざ薄める必要もなさそうだけど、一応薄める感じ?」
「え?いや、あの、」
「……あれ、もしかして何も知らずにやって来た感じ?」
僕がたまたま入ってきた旨を伝えると、その店員は何故か高らかに笑った。
「そういうことか。いや珍しいと思ったんだよ、あんたみたいな可愛い顔した人が入ってくるの」
「可愛い?」
「てことはそんだけ影が薄いのもたまたま?」
「え、あ、はい。それはほんとに、いつもいつも困ってて」
「どうする?うちは濃くも出来るよ」
「濃く?」
「うちね、影屋っていうの。影を濃くしたり、逆に薄くしたりさ」
「……そんなことが出来るんですか?」
「うん。そしたらやってみる?」
とても信じがたい話ではあったが、僕はすぐさま返事をした。
「あの、ただ料金とかって、今日あまり持ち合わせが」
「うーんと影を塗るか染めるかにもよるけど、かかってもこの位」
提示されるおおよその代金が思ったよりも低く、僕は安心する。それなら手持ちでも十分足りる。それにもしこれが悪い冗談でも、失ってクヨクヨ後悔するほどの金額では無い。
「あと塗るか染めるかっていうのは?」
「影を濃くするその度合いによっても変わるんだけどさ、上から軽く塗って終わりか、それとも影を染めてしまって思い切り濃くするか、簡単に言えばそんな感じかな」
「思いっきりでお願いします!」
すると店員は僕を椅子に座らせ、大きなライトを僕の後ろに設置した。店員がそのライトを点けると、強烈なその光のために僕の首筋が僅かに炙られていくと共に、僕の前にはくっきりと影が浮かび上がる。こうして見れば確かに僕の影は、随分と薄く頼りなさげであった。
店員は僕の対面に座ると、傍らに大きなたらいを置くのだった。そのたらいには何やら黒い液体がゆらゆらと張られている。
そして店員は黒い手袋をはめ、僕の影にそっと手を近づける。すると不思議なことに、その手は僕の影をはっきりと掴み、店員は当然のようにその影を持ち上げさえする。持ち上げられた僕の影はぺらぺらと、厚み的にも薄いようで、それは今や一枚の反物のようにも見える。
「まあ要はただここに浸けて染めるだけなんだけどね」
そう言うと店員は僕の影をたらいに端からゆっくりと浸していった。
しばらく待ってまた取り出すと、影はすっかりと染められ、ほとんど闇に等しい漆黒の色が僕の前に現れる。
「これだけ黒いと、僕なんかより影の方が目立ってしまいそうな」
「心配しなくても影と自分は鏡合わせさ。影が濃くなりゃあんたも変わる。こんだけ濃くなりゃ随分と目立つだろう。変貌した人生を、是非とも楽しむといいよ」
店を出ると僕は、勇気を出して大通りの道を選んで帰ることにした。
すると驚くほどの変化が僕の身には起こっていた。
通り過ぎる人々の視線が、なんだか僕に集まっている気がした。それはみなが僕をはっきりと認識しているという証で、そんな経験は生まれて初めてだった。
胸を張って堂々と歩いても、誰かとぶつかるなんてことは無く、むしろあちらの方から僕を避けてくれる。色濃く揺れる自分の影を何度も眺めながら、言い知れぬ高揚に包まれながら僕は帰った。
存在感が増し増しになると仕事もはかどりにはかどった。社内での直接の会話やコミュニケーションが、これほどまでに便利で楽なものだとは知らなかった。書類を届けに来た田中とも一瞬にして目が合う。さらには今まで出来なかった田中など後輩への注意も、気軽に出来るようになった。
「田中さ、いっつも思ってたんだけどここのまとめ方さ、どうにかならない?」
「あ、はい。すいません、気を付けます」
「てかこれって前にさ、メールで一回注意しなかったっけ?」
「……はい」
「なのにいつまでも直ってないってのはさ、どうなの?ねえ、分かってんの?」
「はい、すいません、気を付けます」
「分かってたらこんなミスしないだろって言ってんだよ!いっつも俺が後から直してやってんの!いい加減にしろよ!」
気づけば僕は怒号を上げていた。こんなことは今までに無かった。だがなぜか突然に抑えがたい怒りが、湧き上がって溢れ出していたのだった。
そんな僕の様子に周囲のみなは総じて僕に視線を向ける。慌てた僕は何とかその場を取り繕ったが、目の前の田中は反省する一方で、僅かに訝し気な表情を見せていた。
そして同じように突然に激高し、後輩に怒鳴ることはそれから何度も起きた。
影が濃くなり、存在感が増したのはありがたかったが、自分の中で何かが変わってしまった。それもまた事実だった。
僕は走っていた。
何度も後ろを振り返りながら路地を走る。まだ誰も追ってきてはいない。
なぜ、なぜ、こうなってしまったのだろう。僕はただ、少しでいいから影の薄い自分を、どうにかしたいだけだった。
店に辿り着き、入り口を開け、中に駆け込むとあの店員は変わらずそこにおり、息を切らす僕に向かいまたにやりと笑った。
「その様子だと今度は、影を薄めに来たんだな」
「僕はただ、普通に歩いてて、」
普通に歩いているところを、たまたまぶつかった男に絡まれた。いつもの僕なら仮にそんなことがあっても、平謝りして通り過ぎただろう。だがまた僕の内側には、押さえきれぬ激しい怒りが、狂うほどにまで湧き上がってきたのだった。
「……僕の身体は、一体どうなってしまったんですか?」
「この前の影を染めた液ね、あれの原料もまた、誰かの影なわけだよ。この店に来て、わざわざ影を薄めに来たやつらから絞り取った液。それでそんな風に、わざわざ影を薄めようなんてのはさ、どんなやつらだと思う?そのほとんどは、人目を避けて生きなくてはならなくなったやつらだよ。だからあんたは、そいつらの影を取り込んだようなものだからね、そりゃあ性格も何もかも、そいつらみたいに染められちまうわな。多少野蛮になっても仕方ない」
店員は僕にまず代金を提示した。それは影を濃くする時よりも、ずっと大きい金額だった。
「万が一事件でも起こしちゃった日には大変だもんね。あれ、どうしたのその顔。……もしかしてもう、手遅れだった?」
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