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二、 北之灘療養所
北之灘療養所は平屋の長期療養型の病院である。昔は『北之灘サナトリウム』などと呼ばれていた。アーチ形の鉄格子の門は常時開かれている。エリカは、さっさと玄関でスリッパに履き替える。受付を覗くが誰もいない。呼び出しを待っている患者もいない。結局、待合室には誰もいない。
「おーい。誰もいないのかあー」
エリカは、かすれ気味の声で、言い放った。
その時、
「うがあああーーーーーー!」
野太い男の叫び声がした。処置室の方だ。あきらかに苦悶の叫びに聞こえる。エリカは、恐る恐る処置室を覗いた。ベッドで暴れる髭面の大男に、白衣を着た女医が馬乗りになり、さらに二人の女性看護師が押さえ込んでいた。女医は、ぶっとい注射器を手にしている。
女医がエリカに気付いて、振り向いて言った。
「おう、エリーか、今ちょっと取り込み中でなあ、手が離せんのよ。弁当の事だろ。エリーのママさんから聞いているよ。水島君の病室は3号室だ、すまんが勝手に行ってくれ。エリーの兄貴もそこにいるから」
女医は早口でそう言うと、二人の看護師に目配せをした。それを合図に看護師は、力を込めて患者の腕を押さえつけた。男の返り血だろうか女医のゴム手袋をした腕は血まみれだ。
「わかった」
エリカは、後ずさりをしながら処置室を出た。女医の大声が響いている。
「うるさいな! 大の男がギャーギャーと! 男なら我慢しろ! 血が飛び散る!」
「先生! 今のはジェンダー発言よ! 痛いものは痛いのよー! もっと優しくやってったらー」
男が、半泣きの声を上げる。
「バイクで転んで、腕をほんのちょっと切っただけだろうが、特別サービスで麻酔して縫ってやるから、ありがたいと思え!」
叫び声は続いていたが、エリカは振り返らず3号室に向かった。威勢のいいタキマリ先生を見たのは久しぶりだった。タキマリとは愛称で、滝沢茉莉がフルネームだ。
「タキマリ先生っていくつだ……30歳は過ぎてるよな……。元気だよなあ。私もかくありたい」
あの修羅場の声は、3号室まで聞こえているな。エリカは、3号室をノックした。
「はい。どうぞ」
若い男性の声だ。
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