雪上花の散りゆく日に

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 雪のなか、花の開く気配に目が覚めた。  わたしがまだ年端も行かない少女だった日のこと。薬師の娘であるのに病弱だったわたしは、その日、数日ぶりに健やかな目覚めを得た。  広い庭は見渡す限りの雪化粧だったけれど、ひとつだけ、鮮やかな椿の色がある。その様子がとても美しくて、わたしは侍女に見つからないよう、こっそりと障子を開けて庭におりた。  わたしの生まれた日に植えられた椿は、病弱なわたしには似ずに、美しく花を咲かせていた。そのことに安心し、同時に寂しくなる。わたしも、この椿みたいに元気になれたらいいのに。  そう思うと気持ちは暗くなるばかりで、ため息をついた。そのときだ。はっと息をのむ。  椿の葉陰に隠れるように、少年がいた。  朱色の衣に、漆黒の髪。肌は透けるように白い。彼はわたしに気づくことなく、静かなまなざしで椿の花を見つめていた。  まるで絵巻物を眺めているような気分だった。浮世離れした美しい姿に、わたしは声を出すこともできずに立ち尽くす。すこしでも声を出せば、少年はふっと消えてしまうような気がした。  彼の細い指が伸ばされる。その指が、音もなく花に触れた。 「お嬢さま、お嬢さまー!」  とつぜん聞こえた声に、肩が跳ねる。部屋にいないことが侍女に知れたようだった。あわてたわたしに、少年の視線が向く。 「あっ」  目が合うと、彼はほんのわずか目を大きくさせた。でも恐れていたようなことは起きず、彼はそこにたたずんだままだ。  黒々とした瞳はすべてを吸い込んでしまいそうで、わたしはぼうっと見とれていた。けれど、はっとすると彼のとなりに駆け込んだ。 「侍女に見つかると、連れ戻されちゃうの。隠れさせて」 「……そう。どうぞ」  彼はふっと微笑んで、わたしがとなりにいることを許してくれた。といっても、ここはわたしの家だ。 「あなただれ? こんなところで、なにしてるの?」 「ぼくは――」  彼は困ったように眉を寄せて、言葉が続かない。なんだか申し訳なくなって、わたしは「やっぱりいい」と首をふる。薬師の家に興味を持った里の子どもが忍び込んでくることは時折あったから、彼もそうなのだろう。  すぐ近くで見る彼の顔に胸がどくどくと脈打って、わたしは気をまぎらわせるために、椿の花に触れた。朱色の花は、雪の冷たさを羽織ってひんやりとしている。 「きれい。あなたは椿が好きなの?」 「好き? ……うん、そうだね。好きですよ」 「めずらしい。里の子はみんな椿を怖がるのに」  そう言うと、彼はまた困った顔をする。わたしはあわてて言葉を探した。この子に笑ってほしい。もっと話がしたい。そんな想いが心を満たす。 「お嬢さま!」 「わっ」  いつのまにか、侍女が背後にまわっていた。せっかく隠れたのにと思ったけれど、よくよく考えればまっさらな雪の上にわたしの足あとが残っているのだから、見つかるのは当然だった。 「いけませんよ、お部屋を抜け出すなんて。また具合が悪くなってしまいます」 「え、ええと、その、ごめんなさい」  そう言いながら、わたしは少年をどうしたものかとあせっていた。このままでは、屋敷に忍び込んだことを侍女に怒られてしまうかもしれない。  幸いなことに侍女はわたしを心配してばかりで、少年のことまで気にしていなかった。それで、わたしは侍女の手を引く。少年が見咎められる前に、侍女を連れていかなくては。部屋へと歩きながら、わたしはそっと振り返った。  ――またね。  声に出さずに伝える。なんだかこそばゆい。頬がぽっと色づくのが自分でもわかる。彼はふわりと微笑んだ。また、とその唇が動くのが、わたしはたまらなくうれしかった。  でも約束は叶わないまま、時だけが過ぎてしまった。
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