雪上花の散りゆく日に

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 こぼす息が白くたちのぼって、消えていく。 「外、ひさしぶりだな」  踏みしめる雪の感触。身体を突き刺すような冷気。時折吹く風は氷のように冷たくて肌を切り裂きそうだ。でもそんなものですら愛おしくて、笑みがこぼれた。 「あ、ついてきちゃったの?」  ふと足元を見ると、黒猫がいた。行く手を阻むように足に絡みついてくる猫は「部屋でじっとしていなさいよ」と呆れ顔だ。 「ごめんね、すこしだけだから。許して」  抱き上げてもじたばたと手足を動かしていたけれど、しばらくするとあきらめたようにおとなしくなった。すとんと雪の上に舞いおりると、わたしのとなりを歩き出す。味方を得て心強くなったわたしは微笑んだ。  雪が舞っていた。  それでも通りには人が多く、魚売りやなにかの呼び込みの声があふれていた。 「人がたくさん。このなかに、あの子もいるかな」  一度会っただけ、しかも子どものころのことだ。会える確証なんてどこにもない。それでも、わたしは足を止めることができなかった。  今まで、たくさん我慢して生きてきた。外で遊ぶこともできずに部屋で寝ているばかりで、妹や里の子どもたちのように自由に生きることができなかった。だから最後くらいは、神さまだってわたしの味方をしてくれるはず。  そう願って、すがって、信じて、歩き続ける。  またね。  声にすら出さなかった、その約束だけを頼りに。  だんだんとあがる息。足が鉛のように重くなる。視界がかすむ。  民家の壁にもたれて、ふっと息をついた。  こんなにたくさんの人がいるのに、彼はどこにもいない。  ――あの子は本当に、里の子だった?  里のみんなが椿を怖がっているのに、彼にそんな素振りはなかった。べつの里から来た人だったのかもしれない。そうだとしたら、会えるわけがない。  心に忍び込んだ弱音はわたしの足を止めた。人気のないところへ進み、しゃがみこむ。  かじかむ指を温めたくて、そばにいるはずの猫へと手を伸ばす。でも雪の冷たさに触れるだけだった。いつのまにか、猫はいなくなっていた。見渡してもどこにもあの姿はない。はっとこぼした息は白く広がり、消えていく。 「ひとりにしないで」  気づいたときには涙がこぼれていた。彼に会えないことも、動かない身体も、いなくなってしまった猫も、悲しくて悔しくて、身体を丸め込む。  わたしの頭に、肩に、雪がつもっていく。嗚咽がこぼれないよう、必死にのみこんだ。喉が熱くて、やけてしまいそうだった。  ――帰らないと。  しばらくしてようやく思い至る。一歩踏み出そうとして、まるで足元が崩れていくような感覚におちいった。冷たい雪の上に倒れ込む。  そのとき。  ぼとりと、椿が落ちた。  雪の上に椿の赤が染みて、広がって、赤黒く汚していく。  椿なんてどこから、と思うと同時に身体を痛みがつらぬいて、強く咳き込んだ。何度も何度も。そうして気づく。椿じゃない。  落ちたのは、わたしの血だ。  背を丸めて咳き込むたび、雪が汚れていく。わたしは、椿の花のようにきれいにはなれない。屋敷の雪に落ちる椿は、あんなにきれいなのに。  遠のく意識のなか、だれかが駆け寄ってくる音がした。
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