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「人ではなかったの……?」
やっと出せた声に、彼は困ったように笑みを浮かべる。
「ぼくは椿のあやかしです。あなたの椿に宿った、名もないあやかし」
「わたしの」
庭の奥にある椿の木を見つめる。わたしの生まれた日に植えられた木だ。彼と出会ったのも、あの木の下だった。
「約束を、したでしょう。わたしと、あの日――」
「ええ、覚えていますよ」
うなずく彼に、わたしはそれより言葉がつづかなかった。その代わりに涙があふれていた。
「人はふだん、あやかしを見ることはありません。時折、幼い子どもや死に近い人には見えることもあるそうですが――。だからあなたの目に映ることができるなんて思っていなかった」
かつての出会いは、わたしが幼かったから。今は、命が消えようとしているから彼が見える、ということだろうか。わたしは苦笑した。やはりもう死が近いのだ。それでも、もう一度彼に会えたのならばよかったかもしれない。
「ぼくたち花のあやかしは弱いのです。根を張った場所からは動けない。こうして自分の花を落とした場所には、辛うじて行けるのですが」
彼の指が椿をなでる。
「風に乗せて、あなたのもとまで行けないだろうかと思ったんです。そばにいれば、すこしはあなたの瞳にも姿を映せるかもしれないから。まあそのために、妹君たちを怖がらせてしまったようですがね」
彼は困ったように微笑んだ。それはつまり、ずっと、わたしとの約束を守ろうとしてくれていたのだろう。胸を衝かれて、わたしは途切れ途切れに言った。
「椿の花、ずっと、きれいだと思ってた」
「ありがとうございます。そう言ってくださるのは、あなただけです」
彼はそっとわたしの髪にふれた。指先が離れていくと、わたしの髪には椿の花がひとつ飾られていた。
「椿のかんざし、ほしかったのでしょう?」
わたしは目を丸めた。母から受け継ぐはずだったかんざしが妹にわたったことが、本当はとてもさびしかったことを、彼は知っていたのだ。じわりと胸にあたたかいものが広がる。
死ぬときに、きっと自分の手元にはなにも残らない。ずっとそう思っていたのに、今は心があたたかい。たしかに、なにかをつかんだ気がした。
「ありがとう。約束、守ってくれて」
彼はわたしの小指に、そっと自分の小指をからめた。
「ずっと、おそばにいますよ。ぼくは、あなたの花ですから」
約束です、と彼は言った。
新しい約束は、きっと叶う。そんな予感に、そっと目を閉じた。
穏やかな眠りは、ひさしぶりだった。
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