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「僕がここへ来た理由も先生と同じでした。恋人を亡くして生きる目的を見失いかけた時、過疎地の医療に携わっていくことで心の空白を埋めようとしたんです。だから、動機は自分のため。村人たちの助けになりたいなんて高尚なものではありませんでした。でも、それでいいんじゃないかと思うんです。志なんてモチベーションを上げるための手段で、そんなものが無くったって目の前の課題に全力で当たって期待される結果が出れば」
初めて成瀬から説教された松岡は目を丸くしたが、成瀬は止めなかった。
「ここへ来て1ケ月になるかならないかで村の何がわかると言うんです? 7年目の僕だって未だに戸惑うことがあるっていうのに。そんなに悩む暇があるなら家を一軒一軒回って彼らの健康状態を把握するくらいの気合を持ってください!」
毎日遅くまでカルテのチェックをする松岡にそれ以上のことをしろと言ってしまったことを後悔したが、あとの祭り。冷静さを欠いて説教してしまったことを反省した成瀬は謝罪した。
「出過ぎたことを言ってすみません。俺、一緒に頑張りたい一心で ついエキサイトしてしまいました。先生はここへ赴任してきた どのドクターより優秀で頑張っておられます。だから、そんな弱音を吐かないで この診療所を盛り上げていきましょう。お願いします」
そう言って頭を下げる成瀬に、松岡は目を細めた。
「僕はね、君から疎まれているんじゃないかと思っていたんだ。だって、あんな過去があったから。だから、君から叱咤激励されてありがたい。例え、医者不足だから引き留めたにしても君から必要とされていることに変わりはないからね」
「先生を必要なのは村人達も同じです。多少の衝突はあるかもしれないけれど、皆さん先生に命や健康を委ねているんです」
「そう言ってもらえて嬉しい……。成瀬君、君はもう僕の知っている20年前の【成瀬 光】ではないんだな」
「えっ?」
「いい男になったっていう意味。僕の知っている君は初々しさがあって何物にも染まっていなかった。そして、時を経て再び目の前に現れた時には太刀打ちできない大人の男になっていた」
「そんなこと……」と首を振る成瀬に近づいた松岡は腕を伸ばしてその手を重ねた。
突然のことで驚いた成瀬の手からマグカップが落ちる。残り少なかったもののコーヒーが床に飛び散り、慌てふためいた成瀬が机の上のティッシュを箱ごと鷲掴んだ。
「すいません!」そう言いながらティッシュペーパーを何枚か抜き取って拭いていたら、加勢した松岡が噴き出した。
「君って焦ると色々やらかすよね」
「だって、先生がいきなり……」
「最初は秘密がバレた時かな。ナースステーションに戻って来るや否やカルテを落として中身をぶちまけたっけ。そして、次は花見。僕と泊まった温泉旅館のことをバラされたら重箱の蓋を滑らせて真っ二つ」
「あれは違います! 高齢者が車で行ける距離で雰囲気のいい温泉を探していたら、たまたまあそこを思い出して」
「まあ、そういうことにしておこうか」と、ニヤけた松岡にもう一度反論しようとしたけれど、言えば言うほど墓穴を掘りそうな気がした成瀬は汚れたティッシュを乱暴にゴミ箱に投げ込んだのだった。
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