孤独のミザール

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孤独のミザール

 夜の帳が下りて涼し気な風が そよぎ始めた頃、成瀬は上着を羽織って家を出た。診療所に忘れた携帯を取りに行くためで、足元を懐中電灯で照らしながら足早に歩く。  気付いたのは、家に帰ってすぐ。バッグやズボンのポケットに無いことがわかるや否や戻ろうとしたが思いとどまった。なぜなら、松岡が診察室に残っていたから。彼は仕事を終えると前任医師から引き継いだ患者のカルテを見ながら診療情報を確認する作業をしていて、その心がけは大したものだと感心するが、勤務時間外での関わりを避けたい成瀬は彼が自宅に戻った頃を見計らって夜道をこうして歩いている。  成瀬の住居は、診療所から歩いて5分ほどの民家の離れだった。15畳と4畳半の部屋と台所と風呂がついた小さな家で、電気・ガス・水道、そしてインターネット環境も整っているため至極快適な暮らしをしている。  勿論、都会の生活に比べたら不自由だ。村にはコンビニや遅くまで開いてるスーパーなどなく、居酒屋や食堂も片手で数えるほど。欲しいものや食べたいものがすぐに手に入らない不便な日常だけど、成瀬はここでの暮らしを気に入っていた。  朝は鳥のさえずりで目を覚まし、長閑な田園の中を徒歩で出勤、夕暮れ時まで目いっぱい働く。そして、夜はほのかな明かりのもとで好きな音楽を聴き、コーヒーを淹れ、ネットを見たり本を読んだりしてリラクゼーションをする。そんな中で、今は亡き恋人の父親に寄り添い、自分も歳を重ねていって…… と、人生設計をしていたのにイレギュラーが発生した。  松岡孝司(こうじ)――― 彼の出現によって穏やかな水面に小石を投げた様な波紋が広がり、色々な所に支障をきたして…… と、彼の存在を疎ましく感じたけれど、実際のところ彼は何もしていなくて、自分が勝手に右往左往しているだけで…… と、己の度量の狭さに溜息を漏らした成瀬は、歩きながら満天の星空に目をこらした。 「頭の上に宇宙が広がってる……」  そう口に出した成瀬は、以前同じセリフを呟いたことを思い出していた。  あれは、今から8年前の同じ季節。余命半年と宣言された恋人が成瀬を伴い故郷へ帰省した。長い間性癖のことで父親と仲違いしていたが、ようやく和解して故郷の土を踏むことができた彼は、十数年ぶりに実家で夕食をとった後、恋人を天体観測に誘った。  頭上に広がる無数の星たちを見て この言葉を発した成瀬に、彼は指をさしながら惑星や恒星、星座にまつわる神話の話をした。その意外な知識に驚いていると「高校時代、天文部に入っていた」と告白されて思わず噴き出してしまった。 「お前のキャラに合っていない」 「星にロマンを見出すタイプだったんだ」 「そりゃ初耳だな」 「男を口説く時にも有効だったよ」 「なにそれ? 目を付けた相手を星空ウォッチングにでも誘ったっていうの?」 「男もね、ロマンティックなシチュエーションとか相手の意外性に魅かれるもんさ」 「よく言うよ」  その頃、変更になった薬の相性が良くて病状は好転し半日かかる帰省も可能に、そしてこのような軽口も叩けるようになっていた。その様子を見て成瀬は『このまま奇跡が起こるのでは?』と一縷の望みを抱いたのだが、反面、死を受容していた心境にさざ波が立ち始めて苦しい思いをしていた。 「あの柄杓の形をしたのが【北斗七星】。柄杓の柄の端から2番目の星は【ミザール】という名で、昔 視力測定に使われていたんだ」 「それってどういうこと?」 「すぐ脇に暗い星があるのが分かる? あれは【アルコル】といって、それが見えるかどうかで視力の良し悪しを判断したらしい」  そしてその後、「ああいう星のことを【連星(れんせい)】っていうんだ。まあ、ペアを組んでいるから俺たちみたいなもんだな」と付け加えた。  そんなことを恥ずかしげもなく話す姿を思い出した成瀬は、涙を滲ませながら星に呟いていた。 ――― お前らはいつまでも【つがい】だろうけど、俺はひとりぼっちになっちまったよ
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