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診療所に着くと裏口へ回る。そして、解錠して中へ入ると診察室に明かりが灯っているのを見て、成瀬は溜め息を漏らした。
――― まだ帰っていなかった
が、中から話し声がするのを聞いた彼は不可解に思い、ドアの前で様子をうかがうことにした。
その口調は親密さを帯びていた。反面、言葉の端々に威厳を滲ませていたため、電話の相手が息子だと直感すると、いけないことと思いつつ盗み聞きした。
内容は仕事のことだった。しかも、悩みを相談されたようで、落ち着いた口調で諭すようにアドバイスする姿に父親の一面を見た成瀬は、図らずも心を動かされ、彼に対する気持ちに変化が起きた。
松岡との交際は切なく苦々しい思い出しか残らなかった。しかし、元を正せば彼を陥れるために近づき、心を弄び、家族を裏切ることをさせた自分が悪いのだ。なのに、謙虚さを忘れ、いつまでも苦手意識を持ち続けるのはいかがなものか――― そう反省した成瀬は、このまま無言で立ち去ることを良しとせず、電話が終わるのを待ってドアをノックした。
「こんな遅い時間まで仕事をされていたんですね。俺、さっさと帰ってしまって申し訳ありませんでした」
突然の登場に目を見開く松岡だったが、すぐさま柔和な表情に変わると
「好きでやっているんだから気にしないで」
そして、そのあと意外な言葉を口にする。
「スマホを取りに来たんだろう?」
「どうしてそれを?」
「君のロッカーから呼び出し音が鳴ってたから。『忘れて帰ったな』って思ったけど連絡手段がなくて。だって、スマホはそこにあるし」
「結構、鳴ってたけど大丈夫?」そう言われて確認したが、どれも大した内容ではなかった。「心配おかけしました」そう言いながらポケットへしまおうとしたら「夕飯は食べたの?」と聞かれる。
「はい、もう済ませました」
「自分で作ってるの?」
「半分そうで、半分はお裾分けを……」
「そうだった。村の奥さんたちが差し入れしてくれるんだったな。ここの人はみな君のことを慕っているから羨ましい」
「……」
「いずれ自分もそうなりたいんだけれど、なかなか難しいね」
確かに、村人たちは彼に対してまだ様子見している段階で信頼を得るには時間がかかりそうだった。また松岡自身、この診療所に求められる医師像を模索している最中で困惑している様子が窺えた。
先日も、老齢による洞不全症候群の患者にペースメーカー装着を勧めた際、頭ごなしに拒否されていた。「これ以上長生きしてどうする!」と怒声を浴びせられた松岡は今まで見せたことがない表情をしていた。それ以外にも治療方針の食い違いで揉めることがあり、ストレスを溜めこんでいるのではないかと懸念しているところである。
「一旦打ち解けると気さくな人たちですが、閉鎖的な土地柄なので余所から来たものに排他的なんですよ。自分もこの村に馴染むまで随分かかりました」
「誰か橋渡ししてくれる人がいたらいいんだけど。ほら、君と親しくしている池田さんみたいな」
「え……?」
「君の元同僚の父親だったという人。この村の実力者なんだろう? ああいう人がバックについてくれたら仕事も やりやすいだろうな」
そう言ってシニカルな笑みを浮かべた松岡だったが、次の言葉で表情がガラリと変わる。
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