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「僕は自分の医師としての力量に自信があった。これまで蓄積した医療技術を遺憾なく発揮して地域住民の健康と生命を守ることが出来れば信頼を得られると信じて疑わなかった。だけど、ここでは それだけではダメだということを知ったんだ。患者さんの生き様や暮らしぶりを考慮しながら本人が納得する治療を行っていく必要があると考えるようになって。でも、確実に治る方法を拒否された時にはさすがに『どうしたものか』と悩んでしまう」
「先生のおっしゃること、理解できます。僕もここへ来た当初、そういう気持ちになりました」
「君はどうやって解決したの?」
「自分は医師ではないので治療方針を決定することはできませんが、患者さんの病状を総合的に判断して強く出るところは強く出て、医師と患者の橋渡し役になるよう努めて……。済みません、ここへ来て随分経ちますが未だに試行錯誤していて上手く説明できません」
「さっき息子から電話があってね。患者さんとのコミュニケーションの取り方について相談されたんだけど上手く答えられなかった。医師として30年以上のキャリアがあるのに未だに悩んでるんだから自分自身に失望する」
そして、おもむろに立ち上がった松岡は「ちょっとコーヒーでも飲んでいかない?」そう言いながら隣の休憩室へ誘い、明らかに躊躇している成瀬に「別に取って食おうってわけじゃないから」と、片方の口角を持ち上げたのだった。
グラインダーが勢いよく動き出すと、辺りに芳しい香りが漂い始める。前のドクターはインスタントオンリーだったが、松岡はハンドドリップ派で、道具を持参してここへやって来た。
この休憩室を使うのはもっぱら松岡で、昼食を自宅で取った後、なぜかここで寛ぐことが多かった。なので、ここには彼の私物が多く、コーヒー以外にも気に入った銘柄の紅茶や緑茶、ビタミン剤の類が置かれていた。
成瀬といえば、昼休みは自宅へ帰り、1時間半の休憩ののち戻ってくる。最初の頃は、松岡が先に戻ってきていたので恐縮していたが、「向こうで長居すると仕事に行きたくなくなるから」と冗談とも本気とも取れることを言われて以後、気にしないことにした。
淹れたてのコーヒーが並々に注がれたマグカップを受け取った成瀬はその芳醇な香りにうっとりした。豆は他県の珈琲豆専門店から定期的に送られてくるもので、宅配業者から彼の代わりに受け取った際、そのことを知った。
そういえば…… と、成瀬の脳裏によみがえる光景があった。
それは、今から20年前。病院の飲み会の後で松岡を尾行した際、彼は小さな喫茶店でコーヒー豆を購入していた。わざわざこういう所で買い求めるということは豆にこだわりがあるからなんだろうが、自分の部屋に来た時にはインスタントコーヒーを「美味しい、美味しい」と言って飲んでいた。『あれってお世辞だったんだ』と、今頃気づいた成瀬が苦笑いをしていたら、
「なにニヤけてんの?」
「いや、別に……」
「気になるから話して」
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