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「豆に拘ってらっしゃるんだなと思って」
「ずっと飲みつけていたものでね。仕事も住まいも変わってしまったから、嗜好品くらいは馴染みの物を身近に置いておきたかったんだ」
「飲酒できないから、せめてコーヒーくらい美味しいものを飲みたいですもんね」
「酒はね、いつ呼び出しがあってもいいように飲まないんだけど、憂さを晴らすために酒量が増えるのが怖いっていうのもある。酔った勢いで色々やらかしそうだし。例えば…… 君の首からぶら下がっている指輪のことをネチネチ聞くとか」
その言葉に目を見開く成瀬。
「そういえば、むかし君の部屋で飲んだコーヒー、あれは旨かったなあ」
「や、安物のインスタントでしたよ」
「でも、飲むとリラックスできた」
「……」
「美味しさってさ、一緒にいる相手とかその場の雰囲気に左右されるもんなんだよね」
恋人だった頃の話をされて動揺したが、仕事を離れて二人っきりになれば そうなることを覚悟していた成瀬は努めて冷静さを装った。
「それなら、僕が時々コーヒーを淹れてあげますよ」
「嬉しいことを言ってくれる」
「ただし、インスタントで良ければですけどね」
「上等。あの頃を懐かしみながら飲みたいな」
嘘だろう…… と、松岡の心中が計り知れない成瀬は困惑したが、気を取り直すと
「そう言えば、花見の時に息子さんの写真を見せてくださったでしょう? あの時、一緒に写っていた男の人ってお父さんですか?」
「うん、そう」
「やっぱり。かなり高齢にお見受けしましたけと、おいくつなんです?」
「今年で90歳」
「凄い! でも、かくしゃくとされていますよね」
「目や耳は耄碌したけど、それ以外は大丈夫みたい。昔は頑固で偏屈で近寄りがたい存在だったけれど、今はだいぶ気弱になって。正月に帰省した時、離婚することと、これまで勤めていた病院を退職して僻地の診療所に移ることを報告したら泣かれちゃって…… ちょっと参った」
成瀬は松岡の父親の話に思わず前のめりになり、松岡はそんな彼に切々と語りかけた。
「妻はバブル後の経営難を救ってくれたホテルチェーンのオーナーの娘だったから激怒されると覚悟していたんだけど、第一声が「申し訳なかった」でね。「離婚のせいでそっちにも影響が出るかも」と頭を下げたら「お前は旅館の暖簾と従業員の暮らしを救ってくれた恩人だ。それより、好きな女と別れさせて情が湧かない女と一緒にさせて悪かった。それが唯一の心残りだ」と謝られて…… ショックだった。『人生の終盤を迎えている親にこんな思いをさせて』と自分を責めたよ」
確かに、責められるより泣かれる方が余程堪えると、松岡に同情した成瀬は掛ける言葉も見つからず俯いてしまった。
もし自分なら、好きな女と駆け落ちをして家を捨てただろう。『自分の姉を不幸にした』と松岡に対して復讐をもくろんだくらいだから。だけど、そうすることで常に罪悪感を背負い、姉ともギクシャクしたかもしれないと思うと、松岡の決断が最善だったのでは? と思えてきた。松岡と別れて傷心していた姉も、その後自分の力で立ち上がり、今では優しい伴侶と幸せな人生を歩んでいるのだから……
「20年以上連れ添ったんだから相性が悪かったわけじゃない。浮気ばかりしていた自分が原因さ。だから、禊のつもりで全財産を彼女に譲り、二人で築いた地位も捨てて村の診療所へやって来たんだけど、そんな不純な動機で務まるような仕事ではなかった。覚悟や気合が足りなくて毎日が息切れ状態さ」
「まだ始まったばかりなんですから、すぐに上手くはいきませんよ」
「こんな調子で いつまでもつのやら。そろそろ後任のドクターを探した方がいいかもしれない」
「そんなこと言わないでください」
「その方が村人たちの為にもなるかもね」
松岡らしからぬネガティブな発言に、次第に苛立ちを覚える成瀬。
ここへ来て一ケ月足らずで もう根を上げるのか? 僻地医療の何たるかも分からないうちから弱音を吐くなんて許さない。若い頃の貴方はもっとバイタリティーがあった。そんなところに惚れていたのに今更幻滅させないでほしい――― と、憤りが込み上げてきた成瀬は思わず食ってかかった。
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