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トノサマバッタは執拗に弟の周囲を飛んでいる。私の両手ほどの大きさがあって、どうやってつかまえるか思案した。虫取り網なんて、ずっと目にしていないものだ。
やだあぁ。
身をすくませた弟は、バッタの足に叩かれ、か細い悲鳴を上げている。
たすけてぇ。
「どこから入ったの、これ」
しらないぃ。
どっかやってぇ、と頼む弟の声は、怖がっているくせに、どこかのんびりして聞こえた。私を強張らせていた苛立ちや疲労が、ふっと解けてどこかに消える。
「そんなに騒いでないで、ちょっと待っててよ」
手近にあったタオルで包んでつかまえたバッタを、窓からおもてに放す。
外気に飛び出したトノサマバッタは、持ち前の立派な足で跳んだ。吸いこまれるように草むらに飛びこんで、もう後を追えなくなった。
息をついた私の耳に、幸哉の鼻歌が届いた。
バッタにびくびくしていたくせに、もう上機嫌な声で歌っている。それがなんの曲だったか、不安定なメロディなので思い出せない。
手洗いに立ち、また私が部屋に戻ったときには、歌は途切れていた。
幸哉は眠っている。
すやすやと瞑目した顔は、以前となんら変わるところがなかった。
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