忘れ物(α版)

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 夜の十時。ようやく会社に着いた。一度は退社したものの、電車の中で忘れ物に気付いたのだ。警備員さんに部署の鍵を借りようとすると、まだ戻って来ていませんと告げられた。俺が部屋を出た時に残っていたのは誰だっけ。まあいい。とっとと回収しよう。  エレベーターを降りる。廊下の明かりは既に消されていた。足元がはっきりしない。慎重に部屋へ向かう。まだ働いている人を脅かさないよう、静かに扉を開けた。 「だから違うんだって」 「何が違うの。山田さんに後ろから抱き着いていたでしょう」 「服部さんこそ何を言っているんですか。私が彼女なんだから貴女が浮気相手です」 「バカを言わないで。私は貴女が入社する前から彼と付き合っているのよ」 「嘘。今野辺さん、どうなんです」 「だから違うんだって」  そこには修羅場が展開されていた。同期の今野辺が、服部先輩と山田後輩に詰め寄られている。職場で何やってんだこいつら。そっと入室したのが功を奏した。誰も俺に気付いていない。机の影に隠れて自分のデスクへ這い寄る。音も無く椅子をずらし、引き出しに手をかけた。その時。 「誰だ」  鋭い声が飛んだ。さっきまで、だから違うんだって、としか言えなくなっていた今野辺だ。手を止める。衣擦れと足音から察するに、女子二人も振り返ったらしい。まあいい。やましいことなんて無い。ただ忘れ物を取りに来ただけだ。よう、と振り返る。 「田中君じゃない、いつからここにいたの」 「先輩、私達のやり取りを聞いていたんですか」 「お前何してんの」  一度に話しかけるな、やかましい。 「忘れ物、取りに来た」  引き出しからUSBメモリを取り出してみせる。 「こんな時間にわざわざ取りに戻ったのか。怪しいな。どんなデータが入っている」 「忘れ物を取りに来たのなら堂々と入ればいいじゃない」 「もしかして盗み聞きですか。最低ですね」  全員から一斉に詰め寄られる。滅多に怒らない俺だが、少し腹が立った。立ち上がり、腕を組む。 「今野辺。俺の忘れ物にお前が口を出すな。お前の二股が原因で、今揉めているのだろう。論点をずらしてこの場を凌ぐ気か。だがお前の修羅場と俺の忘れ物は関係無い。俺をダシに逃げ切ろうなんて、そんなことは許さん。次に服部先輩。貴女はもし、忘れ物を取りに所属部署へ戻った時、中で同僚が二股を責められている真っ最中だったらどうしますか。お疲れぃ。忘れ物しちまったぜぃ。なんて堂々と入室出来ますか。笑顔で手を振りながら自分の席まで行けますか。とてつもなく気まずくなるでしょう。俺は気を遣って、こそこそと自席まで行ったのです。最後に山田。君達全員、盗み聞きするような声量じゃなかった。部屋中に響き渡っていた。日本語は適切に使え。もし俺が君達のやり取りをずっと聞いていたのではないかと疑うのなら警備員室に行ってこい。田中は五分前に戻って来た、と証言してくれる」  普段はのらりくらりとしている分、怒る時はきっちり怒ることにしている。口を噤んだ三人に片手を挙げ、じゃあお疲れ、と帰ろうとした。 「ちょっと待て」  しかし物凄い力で肩を掴まれた。スーツが型崩れしてしまう。振り返るとお化粧をバッチリ決めた服部先輩の顔が目の前にあった。香水の匂いが鼻をくすぐる。 「なんすか」 「さっきから埒が明かんのじゃ。己も手伝え」 「先輩、落ち武者みたいな口調になってますよ。イメチェンですか」 「はっ倒すぞ」  一発頭を叩かれた。よほど我を失っているらしい。しかし理性を総動員したのか、服部先輩は咳払いをして襟を正した。 「真面目な話、ヒートアップする一方で言い争いの着地点が見えないの。どうせ話は聞かれたんだし、第三者の田中君が加われば多少の収集はつく気がする。お願い、手伝って」  相変わらず真面目な人だ。原因究明と問題解決。服部先輩は、その二つが仕事でも物凄くきっちりしている。この場合は責任の所在と、全員の立場の明確化を目指しているのかな。 「確かに。田中先輩なら言いふらす相手もいなさそうだし、ふらふら中立してくれそう」  山田も賛同した。てっきり、田中先輩は関係ない、とでも言って俺を追い出すのかと予想していたが、これは意外だ。あと、ツッコんだら負けの気がするから触れないが、言いふらす相手もいなさそう、は余計だ。いないけど。  今野辺に向き直り、だそうだ、と肩を竦める。 「俺は無関係だし帰りたいけど、二人の頼みを無下にするほどひどい人間じゃない。お前と違って。全然気乗りしないけど、俺も参加する。まあ誰の味方もしないけど」  俺の言葉に、同期は顔を真っ赤にした。 「余計なことは、言うなよ」 「人の忠告に耳を貸さないからこうなる」  人差し指を突き付ける。今野辺とは、同期のよしみでよく飲みに行く。ある日、酔ったこいつは女子社員達と浮気をしていると俺に明かした。火遊びは勝手にすればいいし、損をするのは本人だけなのでその時はどうでもよかった。ただ、一応忠告はしておくべきかなと思ったので、相手の想いを踏みにじる行為であること、また社会的にも非常にリスクが高いことを説いておいた。 「大丈夫だろ。本人達にも、会社にもバレなければ」  そう言って目の前のアホは何杯目かもわからない生ビールを飲み干した。 「バレた時の話をしている。お相手の方々から刺されても知らんからな。会社員としても、俺が人事にチクったら出世の道は閉ざされるぞ」 「お前は絶対にバラさない。面倒事に巻き込まれるのが嫌いだから」  同期だけあってよくわかっていらっしゃる。それからも、飲みに行くと毎回必ず浮気の報告をされた。今日は誰それと給湯室でキスをした。今日はあれそれさんと歩いていたら何かれさんとすれ違ってスリルがあった。訊いてもいないのに喋るのは、自慢したいからなのだろう。だからいつか痛い目を見るとは思っていた。よく数年も隠し通せたものだ。器用な奴。ただ、発覚の現場に俺が巻き込まれるとは予想だにしなかった。やれやれ。 「それじゃあ早く帰りたいので手っ取り早く済ませます。進行は私、田中が勤めましょう。多少血も涙もない部分が出るかも知れませんが、巻き込んだ以上は皆様、私の指示に従っていただきますようお願い申し上げます」  仕事モードに切り替える。一人称が俺から私に変わる。我ながらわかりやすいスイッチだ。部屋の片隅からホワイトボードを引っ張り出す。三人を着席させ、俺は口を開いた。 「その前に、全員退勤の打刻はしたの」  誰もしていなかったので即打刻させた。仕事と関係ないのに残業代を稼がせてたまるか。  戻って来た三人を改めて着席させる。地獄の討論会が幕を開けた。 「まず、本日起きたことについて確認させて下さい。私が退勤した二十一時の段階で、この部屋は平穏そのものでした。確か伊藤係長と山田さんが残っていましたね。先程の言い争いから察するに、その後山田さんは一人になり、部屋にやって来た今野辺が後ろから抱き着いていたところ、こんな時間に何をしに他部署へ来たのか知りませんが服部先輩が居合わせてしまった。こんなところでしょうか」  三人が揃って頷く。 「それにしても本当、何しに来たんですかね。服部先輩は」 「まだ残っている人がいるから労おうと思っただけよ」  火花が散る。怖い怖い。 「服部先輩、山田さん。お二人の心情は別によくわかりませんが、取り敢えず睨み合わないでください。あくまで冷静に。さて、一番悪いのは誰か。言うまでも無く浮気をしていた今野辺です。お二人とも、ご自分以外の相手がこの馬鹿にいることをご存知でしたか」 「知らなかった」 「知りません」  今野辺、服部、山田の名前をホワイトボードに書く。そして、今野辺と二人の間にそれぞれ両向きの矢印を引き、ハートマークをつけた。 「服部先輩はいつから今野辺と付き合っていましたか。恥ずかしがらずにお答え下さい」 「自分から君に頼んでおいて恥ずかしがるものですか。二年半前よ。私が二十七、こいつが二十六歳の時からの交際」  矢印の下に二年半、と記入する。 「山田さんはいつからお付き合いしていましたか」 「三か月前からです。今野辺さんに告白されました」  服部先輩が今野辺の頭を叩いた。見なかったふりをして、三か月、と書き込む。 「時系列から言えば、服部先輩が彼女、山田さんは今野辺の浮気相手、ということになります。しかし山田さんも服部先輩との関係を知らずに告白を受け入れたのだから、自分が彼女だと認識するのは当然でしょう」  二人の名前の下に、彼女、と記す。今野辺の下にはゲス野郎と書いておいた。 「お二人はどちらも彼女です。そして、どちらも被害者ですね」  もし言い争いの末に優劣をつけるつもりであれば、それは不可能な話である。底辺が今野辺なことだけははっきりしているが。 「服部先輩も山田さんも、今野辺のことが好きだから付き合っているのでしょう。そして、好きだからこそ自分が彼女であると主張する。当然です。しかし状況は変わりました。こいつが隠れて浮気をするような、相手の好意を踏みにじる最低のゴミ人間だと知った今、変わらぬ愛情を持てますか。持てるのならそれで良いのです。きっと本当にこいつを好きだと言うことだから」  一旦言葉を切る。俺には理解出来ないけれども、全てを知った上でまだ好きでいることもあるのかも知れない。女子二人の視線が泳いでいる。好きでもいい、と告げられ動揺しているのか。  しかしそうなると結局主張合戦になって折り合いがつかない。こちらの都合もある。悪いが誘導させてもらう。 「ところで、好きであってもいい、と私は申し上げましたが、結局最後に付き合えるのは一人です。一夫多妻制を導入するなら話は別ですが、喧嘩の様子からしてそれは有り得ない。ここで、仮に服部先輩も山田さんも、まだ今野辺と付き合いたい、と仰ったとします。よく考えて下さい。浮気も一夫多妻制も無しとなれば、どちらか一人は確実に選ばれないのです」  俺の言葉に服部先輩が腕組みをした。山田はこめかみを揉んでいる。どういう心境なのか。推察はしない。寄り添いもしないから。 「では手を引くのか。もし、自分だけが手を引いて、相手と今野辺が真剣交際になったとしたら。残るのは敗北感だけでしょう」  意地悪に聞こえるかもしれないが、考えられる可能性を口にしているだけだ。ちなみにさっきからホワイトボードは使っていない。例えだとしてでも、二人の内どっちかの矢印を結んだり切ったりしたら落ち着いて話を進められなくなる。 「かと言って、二人揃ってお別れするのも癪でしょう。今野辺に全ての責任があるとわかっていながらも、あの女さえいなければ順調に交際が進んでいたのに、と絶対に思います」  今度は二人揃って頷いた。あぁ、こんがらがった人間関係は面倒臭いなあ。 「あれ。もしかしてこれ、八方塞がりじゃない」  頷いていた服部先輩が、ふと疑問を口にした。 「そうですよ。付き合おうとすると選ばれないという屈辱の可能性が発生する。手を引くったって相手も手を引くとは限らない。じゃあ仲良く全員別れようってなっても、確かに私は服部先輩さえいなければまだ今野辺さんと付き合えていたのかな、って思います」  山田のクソ度胸は仕事に活用してほしいな。同じ部署の先輩として強くそう感じる。 「私だって同感よ」  服部先輩も息巻いた。まあ、本当はどこも塞がってなどいないのだが。どうしても付き合いたければまだ好きですって言えばいい。それでフラれたら腹も立つだろうけど、浮気はともかく失恋なんてよくある話。その痛みなんて多くの人が味わっているし、気が付けば乗り越えている。そもそも浮気された相手を社内で見かけざるを得ないのだ。その都度腹は立つだろう。二人が何をどうしようとストレス満載の生活が開幕することは保証されており、同時にどうしてもこの馬鹿を好きなんだったらその気持ちを押し通せばいい。  だが、悪いが今から超弩級の爆弾をぶち込ませてもらう。さっきから今野辺が静かな理由はよくわかる。余計なことは言うな、か。まさに口は災いの元。お前が撒いた種だ。二重の意味で文字通りに。 「しかしここで私から重要な情報を提供いたします」  今野辺の顔から血の気が引いた。言うな、やめろ、と唇が動く。知るか。相手の気持ちを踏みにじったお前が悪い。 「こいつ、総務の江田さんと営業二課の竹田さんとも付き合ってますよ」 「田中ああああ」 「何だと」 「嘘、最低」 「ついでに言うなら、先日本命の彼女にプロポーズをしましたよ」 「やめろおおおお」 「何だと」 「マジか。逆にすげぇなこのクズ」  そして最後のワイルドカードを切る。 「ちなみに本命の彼女とは、私の妹です」  流石に三人が固まった。これは今野辺すら知らなかったことだ。こんな無茶苦茶な追い込み方を出来たのは、俺がこいつの義兄になるから。ただの同僚なら復讐を恐れる追い込み方であるが、俺は婚約者のお兄ちゃんなのだ。下手な真似は出来まい。ホワイトボードに江田と武田を加え、両向きの矢印とハートマークを今野辺との間に新しく記す。そして、田中(妹)、婚約者、ととびきりでっかく書いてやった。 たまたま妹の待ち受け画面を見た時、同期の写真でしこたま驚いた。確認したらやはり彼氏だった。社会人の合唱サークルで出会い、お付き合いに発展したそうだ。今野辺が真面目に合唱している絵面と、妹までもが奴の毒牙に引っかかったことに頭が痛くなった。そして世間の狭さに初めて絶望した。しかし、そいつは女たらしだからやめておけ、と口出しするのは憚られた。もう大人なのだし、悪いのは惚れた妹ではなく女癖の悪い今野辺だ。なに、どうせただならぬ関係は長続きしない。そう、たかを括っていたのだが、プロポーズされた、と妹から聞き再びたまげた。これは何とかせねばならぬ。無い知恵を振り絞り必死で考えた。 飲み屋で毎度繰り広げられた浮気の自慢話は、いつか脅迫にでも使えるかも知れないと思い山ほど録音してあった。データのバックアップも複数とってある。今野辺にそれを伝え、浮気をやめなければ人事に全て報告する、と脅そう。面倒事は嫌いだが、少なくとも今繰り広げられている浮気はやめさせられる。ただ、妹以外の彼女さん達には本人に落ち度などこれっぽっちも無いので、失恋させるのは申し訳ないと感じた。でもこの調子なら服部先輩と山田は味方に引き入れられるかな。 ちなみにバックアップの一つであるUSBメモリを忘れたので、慌てて取りに帰って来たのだ。今野辺が俺のUSBをどうこうすることは無いとわかっているけど、万が一があっては困る。仕舞ったポーチのチャックが壊れていたとは不覚であった。しかし、やれやれ。まさかこんな形で話をつけることになろうとは。我ながら強引なまとめと着地であったが、咄嗟の対応にしては及第点だろう。 「お前、嘘だろ」  今野辺が震える指で俺を指した。なるほど、さっき俺は今野辺に人差し指を突き付けたがあまりいい気分はしないものだ。 「今野辺。お前の婚約者の名前は田中麗。お前と付き合い始めて一年と九か月が経つ。プロポーズの場所はホテルの四十二階個室、夜景を見ながらとってもロマンティックに済ませた。そして、二つ年上の兄がいる」 「お前が兄貴だったのかよおおお」  肩を竦める。何度も忠告した。同期として。時にはお義兄ちゃんとして。 「浮気の自白は録音してあるから、人事にバラされたくなければもうやめろ、って言うつもりだったんだがな。厄介事は嫌いだけど、妹のためだから。まあ、それよりおっかない事態になりそうだ。後は任せて良さそうね」  服部先輩は部屋の隅で、山田は椅子に座ったまま、電話をかけていた。相手は想像に難くない。今日の俺の仕事は終わり。社会人としても、お兄ちゃんとしても。 「来週の親族顔合わせ、楽しみにしているぞ。随分高級な料亭を予約してくれたな。ありがとう」  今野辺が呻きながら縋りついて来た。最早言葉になっていない。しかし電話を片手に持った服部先輩が引き剥がした。山田がアホに足をかけ、転んだところを踏みつける。地獄の討論会はこれにて幕引き。ここから先は本当の地獄。 俺は鞄を持ち、お先、と三人に手を振った。今夜は久し振りに美味い酒が飲めそうだ。
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