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第1章 夜明けのオリオン
秋は夜明けのオリオンとともに訪れる。
十月の黎明は仄暗く、夏が遠ざかった青に冬の息吹がかかっている。
おれはオリオンにレンズを向けた。
ファインダーの四隅に広がった冬の夜空のアイコンは、きたる朝に消えそうになっている。
シャッターを切る。画面を確認すると、空にあったオリオンがおれの手元にあった。
爽籟が肌を撫でる。草の香が芝生を走る。
夜明け前の桜ヶ丘公園には誰もいない。ゆうひの丘展望台から見下ろす街は、まだ静寂に包まれている。
おれは深呼吸をした。青藍の時をこの体にも覚えていたいから。
ふと、気配がした。それは鳥でも枯葉の匂いでもなく、人の温度だった。
ランニングや犬の散歩にはまだ早い。始発を待つ酒呑みや夜遊び帰りの不良少年のような下品さもない。
その人は水彩のようだった。
色はあるのに消えかかりそうな儚さを纏い、折れそうになるほど首を後ろに倒し、ひよこのように覚束ない足取りで展望台を上っている。その視線の先にはオリオンがいる。
「オリオンは冬の星座だけど、本当は一年中見られるんだよ。夏は夜明け前の東の空低くで見られるの。でも、あんな高いところにいる。もう冬が近いんだね」
その言葉がおれに投げられていると理解するまでオリオンを眺めていた。はっと気づいて視線は自然と隣に向いた。
彼女はおれの隣に立って、まだオリオンを見ていた。そんなに首を上げて痛くならないのかと思った。脇まで伸びた黒髪が揺れている。
もう冬が近い。下ろし立てのカーディガンが腕に張りついている。
「星、好きなの?」
「大好き。あなたは写真が好きなの?」
彼女はおれの手元を見た。おれは両手に匿った相棒を優しく包んだ。
ここにはたくさんの過去がある。覚えていたい風景、忘れてしまいそうな時間、変わらない日常、一瞬の奇跡。何度でも繰り返したい思い出たちが重みとしておれの手の中にある。
彼女と同じ返事をした。
「写真、見てもいい?」
おれは疑いも迷いもなく、さっき撮ったオリオンの写真を彼女に見せた。
星好きなら、ごまんと見たことがあるだろうオリオンの写真を彼女は笑顔で見ていた。
「ありがとう」
満足した彼女は相棒から目を離す。
「どうだった?」
「天体撮影用の機材で撮ればもっと綺麗なのにって思った」
「一眼レフだけじゃこれが限界だよ」
「撮ってみたいと思わないの」
「いつか撮りたいとは思ってる」
でも、まだその準備はできてない。
「そうなんだ。なら、ちょうどいいかも」
首を立てると長いと思っていた黒髪は肩までしかなかった。顔立ちは俺と同い年か少し年下くらい。風に靡く白いワンピースがやけに似合っていて、象牙色のパーカーの袖は手が半分隠れるほど伸びている。
白い水彩のような彼女は俺に向き直り、舌足らずで玲瓏な声で甘く囁いた。
「私の終活に付き合って」
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