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約束なんてなかった。
ありがとう。ごめんね。さようなら。
そんなありふれた使い古しのひどく簡素な言葉すらも、あのひとは言わなかった。わたしの欲しかった言葉はどれも、あのひとの薄い唇の間からは生まれなかった。喉の奥に引っかかって出なかったのだろう、というふやけた想像も塵となって消えるように、完全にあのひとの口は固く閉じられていた。
「あなたの気持ちには応えられません」
その一言だけが、わたしの胸を深く貫いていた。
うすら笑いのような愛想笑いを浮かべて、あのひとはわたしに背を向けた。何事もなかったかのように去って行く後ろ姿に、わたしは失敗を悟った。
あのひとが動き、話し、笑う姿を見ることは、それから二度となかった。あのひとは深い夏のオホーツク海に身を投げたのだ。
ありがとう。ごめんね。さようなら。
あのときどれか一つでも言われていたなら、わたしはあのひとの死を悼んでもそれなりに受け入れることができたかもしれない。好きだった。それだけのことだと割り切ることができたのかもしれない。
醒めることができない。あのひとが一番、わたしに夢を見せてくれていた。あの日から十年の歳月がわたしを深い森の底に追いやって、抜け道も見当たらず、声も届かない、空が見えないほど高い木々の狭間で、途方に暮れるばかりだった。
あのひとは死の一週間ほど前から一人で旅をしていたようだった。生まれ育った埼玉を出て、行ったこともないはずの北海道へ。どうして北海道なのかは誰も知らない。
わたしの知る限り、あのひとは旅とは無縁だった。地に足がつかない行為だと真っ先に言いそうだ。目的のある旅行とは違い、旅には放浪の意がある。目指すもののない、精神的な終着があるだけの旅はあのひとの最も理解し難い行為だったはずだ。
それなのに、あのひとはバックパック一つで家を出たと言う。死の前日に電話で話したと言うあのひとの父親は、
「ヒッチハイクで北海道を回ったらしい」
と唇を噛みしめながら泣いていた。
会わなくなってから十年の間に、あのひとの考えや価値観は変わったのだろうか。それは十分にあり得ることだった。わたしだって色々なことが変化した。二十歳だった頃の自分は思い出したくないくらい幼稚で浅ましく、無知で傲慢だった。今は少しは成長したと思いたい。
だから、あのひとが旅に出たことは何の矛盾もなく自然なことなのかもしれない。わたしだけがあの頃にとらわれて身動きがとれなくなっているのだ。あのひとに対する気持ちはこの十年の間、波間を漂う泡沫のように静まっては膨らみ、耐え切れなくなっては物陰に潜むのを繰り返した。けれど、完全に消えることは一度もなかった。
そこへ行けば、あのひとの思っていたことがわかるだろうか。ほんの切れ端でも、あのひとの見たものが見えるだろうか。あのひとの葬儀が終わってから、わたしはずっとそんなことを考えていた。
あのひとの心にわたしはいなかったけれど、わたしの瞼の裏に居座り続けるあのひとは、いつまでもあの頃のままの姿だ。でも、黒い額縁の中のあのひとは昔よりもふっくらとしていて、白かった肌は少し日に焼けていた。短く切り揃えていた髪は、随分と伸びていた。撫で回したくなるほどやさしかった笑顔も、狡猾さが滲み出た、すり減ったものに変わっていた。
わたしの知るあのひとは名実共にもういないのだ。遺影を見てから、わたしはひどく混乱していた。道を逆さに歩いているような捻れた感覚だった。常に頭の後ろがぐるぐる回っている感じがして、気持ちが悪かった。
いつまでもあのひとの夢から醒めないことは、わたしを蝕んでいくだけだ。だから、わたしは行くことにした。あのひとが見た世界をわたしもこの目に焼きつける。あのひとの足跡を、わたしも辿る。忘れるためではない、醒めるために。
シンクに溜まっていた食器を洗った。本来ならば仕事に行っている時間帯に一人で家にいるのは、なんだかいけないことをしているみたいでドキドキした。いけないことなんてない、ちゃんと職場には一週間の休暇届を提出したのだ。繁忙期だけれど、最近バイトの子が入ったから何とか仕事は回るだろう。上司にも咎められることはなかった。
水道水が冷たくて気持ちよかった。電気代をけちって、夏でもなるべくクーラーは使わず、窓を開けたり扇風機を回したりしてやり過ごしていた。冷たい水に手を浸すだけでも、いくらか涼しい気分になれる。
「マジで行くの、北海道」
昨日の直之の軽蔑するような言い方がまだ耳の奥に残っていた。行くよ、と言うとますます不快感をあらわにした眼差しを寄越してきた。
「飯どうすんの」
「お惣菜でも買って食べて。お米くらいは炊けるでしょう? パックに入ったご飯もあるから」
「ざけんなよ」
直之は舌打ちをしてソファにどかっと座った。
「お前だけ旅行なんていいご身分だな」
「別に贅沢するわけじゃないよ。お金も少ししか持って行かないし」
「じゃあ、何でいきなり北海道なんか行くんだよ」
「夏の北海道、一度行ってみたかったの」
直之には言えない。わたしがあのひとの軌跡を辿るためだけに北海道へ行こうとしていることなんて。彼はあのひとのことを知らない。わたしが彼に抱かれながらあのひとの体温を想像していることなど、言えるはずもない。
直之は乱暴にわたしを抱く。獣のよう、と言ったら獣に失礼になるのではないかと思うくらい、乱雑にわたしを扱う。彼の荒れた両手がわたしの乳房を強く揉むとき、わたしはぎゅっと目を瞑りこれがあのひとだったなら、とありもしないことを思う。あのひとと体を重ね合わせたことはおろか、着替えの際の上裸ですらも見たことはなかった。
あのひとの姿はいつも完璧なまでに涼やかだった。飄々と他人に接するところや、颯爽と構内を歩く姿に、わたしの胸は炭酸水のようにぷちぷちとはじけた。
直之の前に付き合っていた人に抱かれたときも、あのひとのことを考えた。どろどろとした澱のように気怠い行為も、あのひとを思うことで凌いできた。前の彼は直之よりもずっと優しかったけれど、わたしの淫部をまさぐりながら微笑む姿は、人間の生気を吸い取る亡霊のように見えてならなかった。
前の彼も直之も、あのひとのように清潔ではなかった。あのひとはいつもパリッと音がしそうな白いシャツを着て、白く細い腕にたくさんの本を抱えていた。大学の図書館で見るあのひとは俯きがちに文字へ視線を落とし、時折ふっと短く息を吐いて読書をしていた。知があることは清潔に映るのだと、わたしは思った。
キッチンを離れ、昨日詰めたバックパックの中身をもう一度確かめた。替えのコンタクトを忘れていることに気づき、チェックしてよかったとほっとする。わたしはどこか行くときは、必ずと言っていいほど何か忘れる。それはハンカチや靴下など、なくてもどうにかなるもののときもあれば、財布や携帯など忘れると困るもののときもある。忘れっぽい、では済まされないほど重大なものを忘れてしまったこともあった。
紅茶でも飲もうかと思ったが、せっかく綺麗になったシンクで飲み終わったカップを洗うのが億劫だった。戸棚から取り出しかけたティーパックをそっと戻した。
ソファに座り、天井を見上げる。LEDの光を見ていると目の奥がくらくらしてきた。北向きのこの部屋は昼間でも薄暗く、曇りや雨の日は電気をつけて過ごすこともある。直之は電気代がもったいないと言うけれど、昼間家にいるのは土日だけだし、そもそも光熱費を払っているのはわたしなので、文句を言われる筋合いはない。
ここは元々、わたしが一人暮らしをしていた部屋だった。付き合って間もない頃、この部屋に遊びに来た直之が、
「リビング広っ。部屋二つもあんのかよ。贅沢だな。南の洋室、俺の部屋ってことで」
と言って、居座るようになったのだ。半同棲のような形で二ヶ月ほど過ごし、そのうち自分の家の家賃を払うのがもったいないと言い出して、本格的に同棲を始めた。
同棲といっても、家賃も光熱費も食費もわたし持ちで、直之は気が向いたときに一万円札を数枚渡してくれるだけだった。
今頃直之は、バイト先の中華料理屋で愛想を振りまいて接客していることだろう。外面は拍手を送りたくなるくらい素晴らしいのだ。とにかくスマートでよく気がつく。
一緒に外へ出ると老若男女の垣根なく、困っている人がいれば甲斐甲斐しく手伝おうとする。そして、わたしのそばへ戻ってくるとすっと真顔に変わる。うざったそうに小さく舌打ちをすることもある。こんなとき、わたしは直之のどちらの顔を信じていいのかわからなくなる。
ソファでぼんやりしているだけでは、時間の進みが遅い。まだ十時をまわったばかりだ。飛行機は十四時。空港までは電車で四五分。一時間前に着けばいいから、家を出るまであと二時間以上もある。
もう出発してしまおうか、と思い立った。家にいてもやることがないし、空港をぶらぶらするのもいい。わたしは部屋着からジーンズとシャツに着替えて、準備を整えた。
バックパックを背負い、家を出る。じりじりとした日差しがむき出しになった皮膚を焼く。日陰を選んで駅までの道を歩いた。背中に感じるバックパックの重みが、まだ北海道に着いてもいないのに、わたしを立派な旅人に仕立ててくれている気がした。
家に到着するまでが旅だと聞くけれど、始まりは家を出たときからなのだろうか。もしかしたら荷造りをしているときからかもしれない。妙に気持ちがはやっていたから。
駅でICカードに二千円をチャージして、電車に乗った。空港行きの電車に乗ったことはあるけれど、空港までは行ったことがない。わたしは生まれてから一度も飛行機に乗ったことがなかった。それを言うと直之に、
「お前、狭い世界で生きてんなあ」
とからかわれたけれど、聞けば直之だって高校の修学旅行のときに乗ったきりだと言う。
飛行機に乗ったことがないからといって不自由したことはない。でも、何も不自由しないで生きてこられたことが、狭い世界ということなのかもしれない。
あのひともそんなことを思ったのだろうか。自分の生きてきた世界が狭いと感じて、旅に出たのだろうか。
あのひとのことを考えると、胸のしこりみたいなものがくるんと疼く。それはほんの小さな振動だけれど、わたしを歩ませるには十分だった。
電車の窓から、隙間なく積まれたブロックのおもちゃのような街並みが見えた。この風景が続く先にわたしの住むマンションがあって、直之の元いたアパートがあって、前の彼氏の家があって、あのひとが生まれ育った実家がある。それぞれはまったく相関がないが、わたしと交わった人の家という情報を加えると、点が線になるように関係性が浮き上がってくる。
空港に近づくにつれ、電車の中には大きなボストンバッグやスーツケースを持った人が増えてきた。わたしのようにバックパック一つの人もいる。みんな自分の中に旅立つ理由を隠して飛行機に乗るのだ。わたしと一字一句同じ理由を秘めた人はきっといない。特別なことをしに行くのだ。そう思うと、少しだけ鼓動が速くなった。
「広い……」
それが初めての空港に対する感想だった。天井が高い。店と店の間隔が広い。きょろきょろと目を色んな方向に向けながら歩いていると、誰かにぶつかった。
「すみません」
咄嗟に謝ったが、人ではなく航空会社のマスコットキャラクターのパネルだった。
どこに行けばいいのかわからず、インフォメーションで訊ねた。髪の毛をかっちりと一つに束ねた係の女性が、丁寧に教えてくれた。まずは乗る予定の航空会社のカウンターへ行き、チェックインすること。時間が来たら保安検査場を通って、チケットに記載されている搭乗口の前まで行くこと。彼女は笑顔で対応してくれた。不安に波打っていた気持ちが落ち着いた。
行きは、エアドゥという航空会社の飛行機を利用する。羽田と新千歳を結ぶ便だ。あのひとの父親に頼み込んで貸してもらった旅の記録ノートによると、あのひとはエアドゥに乗って北海道まで行ったらしい。
ノートの一ページ目に乱雑な字で、「エアドゥ、ベアドゥ」と書いてある。ダジャレかと思っていたが、飛行機に搭乗してから意味がわかった。ベアドゥというのは、エアドゥのマスコットキャラクターなのだ。機内誌に書いてあった。シロクマをモチーフにしているらしい。あのひともこういうダジャレにくすっと笑う感性があるのかと思うと、つい嬉しくなって口元が緩んだ。
飛行機が動き出した。窓側の席からは、整備士たちが手を振っている様子が見えた。飛行機はしばらくゆっくりと進み、離陸します、とアナウンスがあった直後にぐんと加速した。わたしは背もたれに張りつき、両足に力を入れた。ずしんと体に重圧がかかり、飛行機が離陸したことを知った。恐る恐る窓の外に目をやると、東京の街が小さく、けれどどこまでも広がっていた。
「わあ……」
窓に手をつき夢中で見入った。飛行機はぐんぐん高度を上げていく。街はすぐに雲に隠れて見えなくなった。
ベルトサインが消えると、飲み物が回ってきた。スープを頼むと、白い紙コップに入れて渡された。紙コップをよく見ると、ベアドゥの顔が書いてあった。さらに座席前のカップホルダーに入れると、ベアドゥの顔がちょこんと覗くようになっている。
「かわいい」
思わず呟いた。あのひとも気づいただろうか。
いつの間にか飛行機は雲の中を突き抜け、青い空の上を飛んでいた。空と雲が綺麗に二層に分かれている。飛行機に乗らないとこんな景色には出会えなかった。北海道に行く決意をしなければわたしは一生、地上でもがく芋虫のように平坦な暮らしをしていたのだろう。わたしを狭い世界で生きていると揶揄した直之だが、あのときの彼は正しかったのだと思った。
目を凝らしても青空ばかり覗くので、しばらくの間眠ることにした。機体はさほど揺れず、安心して目を閉じることができた。あのひとの夢を見やしないかと淡い期待を抱いていたが、目が覚めたときには既に着陸した後だったことが残念で、夢どころではなかった。北海道に着陸する瞬間の気持ちを覚えておこうと思っていたのに、叶わなかった。ぐうすかと寝こけていたのだと思うとやるせなさが染み出してきた。
何はともあれ、無事に北海道へ到着した。荷物は預けなかったので、流れていく荷台を横目に到着ロビーへ出る。待ち合いの椅子にバックパックを下ろし、中から旅ノートを取り出した。「北海道到着、札幌へ、ラーメン」と書かれてある。簡素すぎるが、意味はわかる。
けれど、わからないことのほうが多かった。まず、札幌への交通手段は何かということ。電車の電光掲示板に吸い寄せられるように近づいて行ったが、ふと横を見るとバスのカウンターもある。あのひとはどちらで札幌まで行ったのだろう。値段の安いほうを選ぶのではと調べてみると、どちらも大して変わらない。こんなところで途方に暮れるのは避けたい。
考えに考えて、結局電車で札幌へ向かうことにした。そのほうが早く着くからだ。あのひとはきっと一刻も早くラーメンを食べたかったに違いない。ノートの「北海道到着、札幌へ、ラーメン」の文字は、一筆で書いたように寸分の狂いなく雑だった。ラーメンを食べることを最初から決めていたのだろうと想像がついた。
記憶の中のあのひとはいつも一人で昼食を食べていた。きつねうどんを汁が飛ばないようにゆっくりと啜る姿は、とても優雅に見えた。食べ物になんて興味がなさそうな、腹の足しになればそれでいいと思っていそうな雰囲気だったのに、いつからグルメに関心を持つようになったのだろう。
あの頃のあのひとはとうにいないのだということが、身をもって理解できない。それは思い出せばいつでも鮮明に浮かんでくるからで、実際のあのひととは何の関係もない、ただのわたしの想像でしかないということを何度頭に叩き込んでも感覚が覚えてくれなかった。勝手に記憶は巻き戻り、あの頃を脳内に映し出し、わたしを切なくさせたり懐かしくさせたりもどかしくさせたりする。
あの頃のあのひとの像と一致しない出来事には違和感を覚えた。わたしの傲慢であることも、あのひとにしてみればいい迷惑であるということもわかってはいるけれど、拭い去れないのだ。
違和感を拭いに来たのではない。わたしがこうして北海道まではるばるやって来たのは、あのひとが見せる夢から醒めるためだ。違和感があってもいい。そんなの当たり前だ。あのひととわたしの間には二度と埋めることのできない溝、飛び越えることのできない壁があるのだ。大丈夫、忘れてはいない。
札幌行きの電車に乗ってまず驚いたのは、座席がボックス型だったことだ。しかも全席。東京の都心ではまず見られない。乗客はまばらだったので、真ん中あたりの席に座り窓側に寄った。
電車が動き出してしばらくは地下なのかトンネルなのか、真っ暗で何も見えないところを走っていたが、次の駅のアナウンスが聞こえたあたりで急に視界が明るくなった。窓越しに広がる景色を見て、ああ、わたしは北海道に来たのだ、とこのとき初めて実感した。
札幌までは電車で四十分ほどらしい。途中、イメージの中の北海道とぴたりと一致するような広大な田園風景が見えて、気分が高揚した。再び北海道へ来た実感が込み上げてくる。
期待に胸を膨らませ、旅ノートを開いた。あのひとの文字を親指でそっと撫でる。ここで、二つ目のわからないことを発見する。わたしはノートの「ラーメン」の文字を凝視した。どこの店で食べたのだろう。味は多分、味噌であるはずだ。札幌でラーメンと言えば味噌なのだと事前に調べたネットの記事に書いてあった。ちなみに函館は塩、旭川は醤油なのだとか。
札幌ラーメンの店なんて、気が遠くなるほどたくさんあるに違いない。どうせならあのひとが行ったのと同じ店で食べたい。けれどそれを確認するすべはもうどこにもないのだ。
早くも泣きそうな気持ちになった。あのひとの軌跡を辿りに来たのに、こんなところで躓くとは。放っておくとあのひとのことを責めてしまいそうだ。もう少し丁寧にノートに記せと。
けれど、死んでしまった人のことを責めても仕方ない。気を取り直して、スマホで「札幌ラーメン ランキング」で調べて一位の店に行くことにした。あのひとがグルメに興味を持つようになったのなら、そういうミーハーな検索をするだろうと踏んだのだ。
そうこうしているうちに、札幌に着いた。わたしがノートを見て考えごとをしている間に、電車の中は乗客で溢れかえっていた。隣の席に荷物を置いていたせいで、座りたくても座れない人がいたかもしれないと思うと、申し訳ない気持ちになった。わたしは集中するあまりつい周りが見えなくなってしまうことがある。
後ろの人の大きなスーツケースに押し出されるように、ホームに降り立つ。夏だというのに、ひんやりとした空気が肌を包んだ。札幌も年々夏の気温が上がっていると聞くけれど、今日は涼しい日らしい。
ランキング一位の店に行こうと決めたものの、ランキングサイトがたくさんありすぎて、しかもサイトによって一位の店が違うので困り果ててしまった。情報の海で溺れているような感覚に陥った。途方もなく広い海。投げ出されたわたしは、見渡す限りに青く波打つ海原を前に、右も左もわからない赤ん坊同然の存在だ。ただでさえ知らない土地、慣れない旅なのだ。
途端、面倒になった。調べたら、札幌駅の駅ビルにラーメン共和国というラーメン屋が軒を連ねるスポットがあるらしい。人気店も入っていて、昼時には長蛇の列ができることもあるのだとか。もうそこでいい、とにかくラーメンを食べよう。昼ご飯を食べていなかったせいか、お腹も空いていた。
東改札を出て、地下へ向かうエスカレーターに乗る。あのひとの軌跡を辿る旅なんて最初から無理があったのかもしれないと、ふと思った。あのひとの遺したノートには旅の詳細なんて書かれておらず、断片を切り取ったような地名や単語しか記されていないのだ。あとはこちらの想像で補うしかない。それは果たして、軌跡を辿っていると言えるのだろうか。ほぼ無計画と言っても過言ではない気がする。
やっぱりわたしは詰めが甘い。昔から、何をするにも完璧にこなせたことがなかった。そのくせ諦めだけは早くて、やりかけの事柄ががらくたのように積み重なっていった。
札幌駅の地下街は妙に入り組んでいて、すぐには目的の施設であるエスタが見つからなかった。エスカレーターを降りて左へ行ったのが悪かった。歩けど歩けど、それらしき入り口が見当たらない。ラーメン屋群はエスタの十階であるはずなのに、エレベーターもエスカレーターも六階より先には行かないようだ。終いには映画館まで来てしまった。
映画の予告ポスターの前にいたカップルにエスタまでの行き方を聞くと、親切に途中まで案内してくれ、ようやくラーメン共和国に辿り着いた。ゆうに一時間近くは彷徨っていた。
十八時を過ぎているからちょうどご飯時だろうと思っていたけれど、どの店も列を作るほど混んではいなかった。どこに入ろうか悩んだが、白樺山荘という店に入ることにした。そこが一番客数が多く、人気店に見えたからだ。席もカウンターが一席空いていた。
味噌ラーメンを注文し、待っている間にスマホでランキングを調べた。トップページに出てきたサイトによると、どうやら白樺山荘は第二位らしい。第一位は吉山商店の焙煎ごま味噌ラーメンだったが、ごま味噌は札幌ラーメンという感じがあまりしないので白樺山荘でよかったと思った。
ラーメンが運ばれてきた。まずはスープから飲む。白味噌なのだろうか、ふわりとやさしい味が舌全体に染み込んでいく。次いで麺も啜る。若干太めの弾力のある麺が、豚骨ベースの濃いスープとよく絡んでいる。美味しい。これが札幌ラーメンか、と心の中で呟く。
ますますあのひとが訪れた店を知りたくなった。あのひとが食べたのと同じものを食べれば、あのひとの胸の奥底の核心めいた部分に触れることができる気がするのに。
麺と具は完食し、スープは半分ほど飲んで店を出た。今夜の泊まるホテルを探さなければならなかった。旅ノートには当然、あのひとがどこに泊まったかなんて記されていない。あのひとならばどうするだろうかと思考を巡らせてみるも、漠然としすぎてちっとも考えがまとまらなかった。
どうせ無理のある旅ならば、ノートに書いてあること以外は適当にやればいいではないか。完璧にできなくたって咎める人はいないのだ。
いや、違う。たとえ大勢の人に許されてもただ一人、わたしがわたしを許さない。考えて考えて考え尽くすのだ。あのひとが取ったであろう行動、食べたであろう料理、行ったであろう場所。その一つ一つを心が悲鳴を上げるまで考え続けるのだ。あのひとが見せる夢から醒めるために。それがこの旅の目的だったはずだ。はき違えてはいけない。
遺影の中のあのひとの笑みを思い浮かべる。会っていなかった十年の日々が、あのひとの清潔な笑顔まで変えてしまった。それでもいいと言えるほど、わたしは十年の間のあのひとを知らない。大学の頃でさえ、とても親密であるとは言えなかった。あのひとはいつもわたしのいない方向を見ていた。わたしはあのひとの背中や横顔をいつまでも見つめていたのだった。
あのひとは、鳥を殺したんだ、と言っていた。昼下がりの学食の裏庭で、スマホを耳に当て声をひそめるようにして誰かと喋っていた。
カラスじゃない、小鳥だよ。
スズメよりは大きかったけど、見たことない模様だったなあ。
怪我をしたのか道端で動けずにいたから、思いっきり踏んでやったよ。
わたしは息を飲んだ。壁の向こうに隠れて震えていた。わたしこそか弱い小鳥のようだった。あのひとは足元の小石を蹴って壁に当てては、跳ね返ってきたその小石をぐりぐりと踵で踏み潰していた。小鳥もそうやって踏み殺したのかと思うと、心臓が早鐘を打った。
何かの聞き間違いかと思った。例えば、誰かの言っていたことを真似ただけだとか、いつものキャラと違うことを言うゲームをしていたとか。でもあのひとの表情を見て、確信してしまった。あのひとは、小鳥を殺した。
排水溝から溢れくる濁水のように、あのひとの顔には下劣な笑みが広がっていた。殺したのは小鳥一匹なのに、あのひとはまるで憎い奴でもなぶり殺したかのように大仰な話し方をしていた。
小鳥だって、一つの命には変わりない。たかが小鳥一匹と軽視したことに、あのひとと同じものを自分の中に見た気がした。
あのひとの純烈で透き通ったイメージを塗り替えなければならなかった。やさしい笑顔や颯爽とした歩き姿はそのままでも、あのひとはわたしが想像しているような好ましい人物ではない。
けれど、わたしはさほど落ち込みはしなかった。自分の想い人が平気で命を踏みにじるような人だったというのに、それも一つの個性くらいにしか思わなかった。電話を聞いてしまったときは驚いたけれど、終わる頃には平常心を取り戻していた。
それよりも、あのひとの表情が鮮明に脳裏に焼きついていた。刑事ドラマの悪人は皆嘘の顔をしている。俳優の素の人柄がどうしても滲み出てしまう。本当に性根が曲がっている人というのは、常に清潔なのだ。嘘偽りのない純粋な心をもって残酷なことをする。あまりにも鮮やかに。あのひとはどこまでも清潔だった。
札幌駅前にあるビジネルホテルのシングルルームのベッドで、わたしは昔の記憶に浸っていた。仰向けになり手を天井に向かって伸ばすと、指の間からあの頃の情景が立ちのぼってくるようだった。
起き上がりカーテンを開ける。十階の窓からは街の明かりがよく見えた。信号が青に変わり、赤いテールランプの車たちが一斉に走り出す。三つ向こうの信号でまた止まる。
バックパックから旅ノートを取り出した。明日は電車で小樽まで行って、あのひとの知り合いに会う。小樽駅近くでカフェを営んでいるらしい。アポなしで会えるだろうか。でも連絡を取ったとして、何から話せばいいのかわからない。直接会ったほうが向き合えそうな気がする。
あのひとが最期に会った人なのだ。どんな関係なのかは知らないが、わたしも会ってみたいと思った。
「二日目小樽へ、海沿いを走る電車、駅近くのアミューズカフェで森田と会う、森田店長似合いすぎた(笑)、カモミールティーサービス」
と日記には記されていた。今日のメモよりは遥かにわかりやすい。明日は小樽に泊まって、三日目にいよいよオホーツク方面まで移動する。
ノートをお腹の上に乗せ、再び仰向けに寝転がった。スマホで小樽駅までのルートを調べる。あのひとの歩いたかもしれない道や目にしたであろう建物などを思い浮かべながら、わたしはゆっくりと目を閉じた。
翌朝、八時に目が覚めた。本来ならばとっくに起きて通勤している時間帯だ。混雑した電車の中で乗客に押し潰されている自分を想像し、ベッドの中でうんと伸びをした。
ホテルを九時にチェックアウトし、駅へ向かった。駅ビル内のスタバでソイラテとキッシュを注文し、窓側の席で食べた。外はよく晴れていた。雲一つなく、日差しが強い。今日は暑くなりそうだ。スマホのアプリで天気予報を見ると、現在の気温は二十七度、最高気温は三十度とあった。
電車の時間を確認して、十分前にはスタバを後にした。ホームで電車を待ち、滑り込んで来た快速エアポートに乗る。これに乗れば、小樽駅までは三五分ほどで行けるらしい。
海はどの辺りから見えるのだろう。あのひとのノートには、海沿いを走る電車、と書かれていた。発車してしばらくは街並みが続いた。座席は昨日とは違い横型だった。電車の揺れに合わせ、海はまだかとそわそわした気持ちで景色を眺める。見たことがないわけでもないのに、どうしてこんなに気持ちがはやるのだろうと不思議に思った。
銭函という駅を過ぎたあたりで、家々の向こうに青が広がった。
「海……」
隣に座っていたおばあさんが、わたしよりも先に呟いた。乗客たちは一斉にスマホやカメラを海に向け写真を撮り始めた。水平線がくっきりと浮かび上がっていた。
電車は海に身を委ねるように傾き、渚の様子が見えた。海水浴をしている人たちが点々と波間に浮かんでいた。砂浜もカラフルなビーンズを敷き詰めたように賑やかだった。
これはオホーツク海ではない、日本海だ。あのひとが沈んだ海ではないから、目を開けていることができるのかもしれない。初めて見る日本海は深い青色をしていた。絵に描くとすると、藍色や黒も混ぜるのだろうか。太平洋のエメラルドグリーンとは違う性質の、例えば苦悩や哀愁を表しているような、重たい色に見えた。
通り過ぎてしまえば、電車から見た日本海は一つの風景としてわたしの記憶の中に貼りつけられた。期待はずれだったわけではない、むしろ圧巻の景色だった。けれど、海は海でしかなく、わたしの足を引っ張ることも背中を押すこともない。海がどこまでも広がれば広がるほど、終わりなく続いていくほど、わたしの感受性は遠く離れて行く。離れたところでぽつんと置き去りにされる。
息が苦しくなった。思わずぎゅっと目を瞑る。それとほぼ同時に、ごおっと音がして窓が揺れた。トンネルに入ったようだ。抜けた後、電車は緩やかに減速し、小樽築港駅に到着したとのアナウンスが流れた。そっと目を開けると海はもうどこにもなく、ホームに降りた人たちがぞろぞろと階段へ向かう姿が見えた。
そこから二駅先の小樽駅で電車を降りた。あのひとが降り立った街。昨日の札幌ではあのひとはどちらの改札から出たのかも、どの店でラーメンを食べたのかもわからなかった。でも、小樽駅は改札が一つしかない。この改札を通って、坂の下に広がる小樽の街並みを見て、アミューズカフェに向かったのだ。初めてあのひとの軌跡を十分に辿れている気がした。
スマホの地図アプリにアミューズカフェと入力する。駅前の信号を左に折れ、三つ目の通りを曲がり、坂を登ったところにあるらしい。右手にスマホを持って歩き出す。
坂は思ったよりも勾配が急だった。一歩踏み出すたびに額から汗がふき出してくる。バックパックが平地を歩いているときより重く感じる。
あのひとの前で、持っている鞄がだんだん重く感じるようになることを「こなきじじいが憑いている」と表現したことがある。
「こなきじじい?」
「ゲゲゲの鬼太郎、知りませんか? 出てくるんですよ、こなきじじいって言う妖怪が」
「ああ、わかった。背中に憑いて重くなる奴だろう」
「そうです、それです」
「琴子ちゃん、面白いこと考えるね。確かに俺のリュックの中にもこなきじじいが入ってるのかもな」
そう言って、あのひとはリュックを背負い直してみせた。わたしとあのひとは、サークルでバーベキューをしたときの買い出し班だった。二人で食料や備品の詰まったリュックを背負い、夕暮れの道を歩いた。背中は重かったけれど、足取りはマシュマロの上を歩いているように軽かった。
琴子ちゃん、とちゃん付けで呼ばれることが心地よかった。このときほど自分の名前を誇らしく思ったことはない。わたしは琴子ちゃん、という響きをとても気に入っていた。あのひとのやや高めの、でも時折低く響く声で呼ばれると、骨が軋むような痛みと逃れようのない快感が織り混ざって込み上げてきた。
あのひとの声を今でも覚えている。あのひとの目をいっぱいに細めて笑う顔も。忘れていないことと、忘れられないことは違う。わたしはただ鼓膜の奥にあのひとの声を、脳裏にあのひとの顔をあの頃のまま正確に思い浮かべることができるだけだ。でも、それが何だというのだ。あのひとの現実は二度と動き出さないというのに。
坂を登り切らない中途半端な斜面に、アミューズカフェはあった。小ぶりな営業中の看板が扉の把手にぶら下がっていた。
ドアを開けると、カロロロンとドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
二十代前半くらいの長い髪を二つに束ねた店員が、カウンターから出てわたしのもとへやって来た。
「おひとり様ですか? お好きな席にどうぞ」
人差し指を立てる仕草が可愛らしい。わたしはそわそわとした気持ちで窓側の二人がけの席に座った。向かいの席にバックパックを置く。
店内はシルバーを基調としていて、椅子もテーブルもブリキのように加工されていた。カウンター席が五つ、窓に沿うように二人がけの席が四つ。小ぢんまりとしたおもちゃ箱のようなカフェだった。
店員が水とおしぼりとメニューを持って来た。この人が森田さんなのだろうか。でも店長には見えない。アルバイトの女の子といったところだろう。
「お決まりになりましたらお呼びください」
そう言って去って行こうとする彼女を、あの、と呼び止める。
「はい」
彼女はメモとペンをエプロンのポケットから取り出し、わたしに向き直る。
「あの、森田、さんはいらっしゃいますか」
喉がカラカラに乾涸びていた。水を先に飲めばよかった。わたしの声はひどくしゃがれていた。
彼女は一瞬目を見開いてわたしを見たが、すぐに笑顔になり、
「店長ですね、少々お待ちください」
と礼儀正しく頭を下げ、くるりと背を向けた。わたしはキッチンに消えていく彼女の華奢な背中を、祈るような気持ちで見ていた。
しばらくして、奥から肌の浅黒い大柄な男性が出てきた。彼のつけている黄色いエプロンがやけに小さく見えた。わたしと目が合うと彼は軽く会釈をして、
「どうも、いらっしゃいませ。私が森田ですが」
と言った。表情は穏やかだが、一握りの警戒心も感じ取れた。わたしが何者であるのか訝っているのだろう。
彼が近くまで来ると、わたしは立ち上がって考えていた台詞を一息に喋った。
「初めまして、秋月と申します。久原育馬の大学の後輩なんですが、森田さんは久原先輩とお知り合いだと聞きました。話すと長くなるのですが、一度お会いしてみたいと思いまして、今日は来ました」
あのひとの名前を出すと森田さんは鼻の付け根に皺を寄せて笑った。
「あいつの後輩さんでしたか」
「はい。あの、今お時間はありますか? 少しお話したいのですが」
「もちろんです。座ってもいいですか?」
森田さんはバックパックに目をやって言った。わたしは慌てて向かいの席から床にバックパックを下ろした。
森田さんと向かい合うとなかなかに圧迫感があった。わたしにはかなり余裕があるが、彼にこの椅子は小さすぎるのではないかと思った。現に、脚がぎしぎしと音を立てている。
「それで、育馬の後輩さんがどうして私のところに?」
世間話もそこそこに、森田さんは本題に入った。わたしは何度もつっかえながら、あのひととの関係やあのひとが書いた旅ノートのこと、あのひとが見た景色を見たくて自分も北海道まで来たことなどを話した。けれど、あのひとが死んだことは言い出せなかった。感触からして、森田さんはあのひとの死については知らないようだった。彼はまっすぐにわたしの目を見据えて、相槌を打ちながら話を聞いてくれていた。わたしのほうが時折彼から目をそらした。茶色がかった澄んだ瞳があのひとに似ているような気がして、直視できなかった。
一通り説明した後、彼は腕組みをして椅子の背にもたれかかった。
「そうかあ、育馬にこんな素敵な恋人がいたとはな」
トンチンカンなことを言う。
「え、恋人……? 違いますよ、わたしはただの後輩です」
「そうなんですか? 育馬のことが好きで追っかけて来たんじゃ?」
「まあそうですけど、完全にわたしの片思いです。恋人なんかじゃありません。それに、告白してフラれましたし」
「何だ育馬の奴、もったいない」
「森田さんは久原先輩とどういった関係なんですか」
「幼馴染ですよ。幼稚園からの仲でね。高校で私が北海道へ引っ越しするまで、いつもつるんでましてねえ」
森田さんは懐かしそうに目を細めた。
「それからしばらく会ってなかったけど、去年突然訪ねて来てね。俺も北海道に住むからって言って、ハーブティーだけ飲んで帰って行きましたよ。北海道のどの辺に住むつもりなのかなあ、あいつ」
わたしは言葉を失った。あのひとは北海道に住むつもりだった……? でも、あのひとはオホーツクの海に飛び込んで死んだのだ。
「あの、久原先輩が、本当にそう言ったんですか? 北海道に住むって」
「ああ、言ってましたよ。去年来たのはその下見だって。今頃はもう移住したのかなあ」
嘘だ。あのひとは死ぬために北海道へ来たのだ。そうじゃなかったら、真夜中の海に飛び込んだりしない。
でも、もし森田さんが言うように、あのひとは北海道に住むつもりだったのなら。死んでしまったのは事故で、本当はただ海を見に行っただけだったのなら。
海を見に行っただけ? 真夜中に?
わからない、わからない。もう何も考えたくない。
「秋月さん? 大丈夫ですか」
森田さんの声に、はっと目を開ける。知らず知らずのうちに思いきり瞑っていたようだ。心配そうに眉を顰める彼の顔があった。
「大丈夫です、すみません」
取り繕うように水を一口飲んだ。
それから、森田さんとあのひとの思い出話や他愛のない話をした。何か飲み物をサービスしてくれると言うので、迷わずカモミールティーを頼んだ。森田さんは、
「あいつもそれ、飲んでたよ」
と笑った。
途中でお客さんが入って来たので、森田さんはキッチンに戻って行った。わたしは窓の外を眺めながら、カモミールティーをちびちびと飲んだ。遠くの空にぶ厚い雲が浮かんでいた。
再び森田さんがわたしの席にやって来たとき、ちょうどカモミールティーを飲み干したところだった。空のカップが、お暇するべきだと告げていた。わたしは立ち上がって、
「今日はありがとうございました。お話しできてよかったです。ご馳走様でした」
と頭を下げた。こちらこそ、と森田さんは笑った。
森田さんは太い腕を伸ばし、ドアを開けてくれた。カウベルがカロリンと鳴る。店の中には客がいたので言い出せなかったけれど、今だと思い彼に向き直った。
「あの」
「はい」
「実は、久原先輩は、亡くなったんです。彼のお葬式にも行きました。旅ノートは彼の親御さんに貸していただいたものなんです。ごめんなさい、なかなか言い出せなくて」
声が震えた。喉の奥がちりちりと痛んだ。森田さんの顔を正面から見ることができず、下を向いて言った。
「ごめんなさい」
森田さんが言った。謝られる意味がわからなくて、頭を上げ彼の顔を見た。今度は彼が下を向き、苦悶の表情を浮かべる番だった。
「薄々気づいてました。あれから育馬に連絡しても一向に返ってこないし、あなたの表情からも何となく、あいつによくないことが起こったのかもしれないと思いました」
そう言って森田さんは手のひらで額を押さえた。彼の声もわたし以上に震えていた。
「そうか、死んだのか。育馬……」
あのひとの名前を口にするときだけ、森田さんの声はぐわんと歪んだ。嗚咽が厚い唇の間から漏れてくる。涙は大きな手で目を覆っているせいで見えなかった。でも彼は泣いていた。
別れ際、森田さんはわたしに「また来てください」と言った。切実な響きが声にこもっていた。わたしは頷いて、彼に背を向けた。森田さんの視線を背中に感じていたけれど、わたしは一度も振り向かなかった。
胸の奥がざわざわと葉擦れのような音を立てていた。苦々しい気持ちを払うように、わたしは残りの坂を駆け下りた。
朝よりも気温が上がっていた。駅前のホテルを取っていたがチェックインは十五時からで、今はまだ十三時過ぎだった。荷物だけでも預かってもらおうと、とりあえずホテルに向かった。
この後の予定について、旅ノートには「小樽観光」としか書かれていない。またもや迷子になってしまった気分になる。完全に丸投げだ。けれど、あのひとの大雑把さにも大分慣れてきた。あのひとの足取りに思考を巡らせるのは案外楽しかった。楽しむ余裕が出てきた。
ホテルでバックパックを下ろし、中からボディバッグを引っ張り出して身につけた。財布とスマホと旅ノートのみ持つことにし、残りはすべて預けた。番号札を受け取り、ボディバッグの前ポケットにしまう。
ロビーに置いてあった小樽観光のパンフレットを一枚もらい、ページをめくる。運河、水族館、天狗山ロープウェイ、オルゴール館。小樽には見どころがたくさんあるようだ。ここから一番近い運河に行ってみることにする。
カモメが頭上を飛んでいた。海が近いからだろう。わたしはカモメとウミネコの違いがいまいちわからない。もしかしたら今飛んでいるのはウミネコかもしれないけれど、見分けがつかないからすべてまとめてカモメということにする。生物学者が聞いたら怒り出しそうだ。
パンフレットの地図によると、運河は坂道を下った先にあるらしい。アミューズカフェに行くときも急な坂道だったが、小樽は坂が多い街だと書いてある。お年寄りなどは大変だろうなと思う。行きはよいよい、帰りはこわい、だ。ちなみに、北海道弁に「こわい」という言葉があり、意味は「辛い」とか「しんどい」だそうだ。通りゃんせの歌詞の帰りはこわい、という部分はもしかしたら北海道弁なのだろうか。スマホで調べようとしたが、やめておいた。今度ふと思い出したときにでも調べればいい。
運河には観光客がたくさんいた。一人で来ている人もちらほらいたが、多くはカップルや友達グループなど連れがいた。皆一様にスマホやカメラを自分たちに向けて、運河をバックに写真を撮っている。
石段を降り、手すりに両手をついて運河を見下ろしていると、老夫婦に声をかけられた。
「あの、写真を撮っていただけませんか」
「あ、はい、いいですよ」
おじいさんに渡されたのは少し古い型のコンパクトなデジカメだった。二人は寄り添い運河に背を向けて立った。水面がキラキラと光を集めていた。カメラ越しの二人は柔らかく微笑んでいた。
「撮りますよ。はい、チーズ」
死語かとも思ったが、他に何と言えばいいのか適当な言葉が見当たらなくて、使い慣れている台詞と共にシャッターを押した。ピピ、とデジカメが鳴って、画面に撮った写真が映し出される。
「確認してもらっていいですか」
おじいさんにデジカメを返す。二人は顔を寄せ合いモニターを覗き込んだ。
「ばっちりです。ありがとう」
おじいさんが笑うと目尻に深い皺が刻まれた。おばあさんのほうを見ると、同じ顔で頷いていた。
離れて行く二人の背中を見つめる。歩くときも貝殻のようにぴたりとくっついていた。きっと選ばれたもの同士なんだな、と思った。何の違和感もなく、二人の空気は溶け合っていた。あんなふうにお互いの持つ空気が染み出して混ざって穏やかな色を作るには、どれくらいの年月が必要なのだろう。わたしは誰かとそんな関係になれるのだろうか。
あのひとの顔が浮かぶ。わたしは今付き合っている直之よりも先にあのひとの顔が浮かんだことを悲しく思った。いや、厳密に言えば悲しいとも違う。本当は今の今まで直之のことを忘れていた。家では毎日顔を合わせているのに。死んだ人にすら、十年も会っていなかった人にすら負ける直之が不憫に思えた。
運河沿いには「似顔絵、描きます」という看板を掲げた絵描きや、自分で撮った写真を売っている人などが三組ほどいた。彼らの前に客はおらず、絵描きが暇そうにあくびをしていた。
「北海道一周!」のプラカードを立てかけて写真を売っている若者の前で、わたしは立ち止まった。彼はよく日に焼け、森田さんほどではないもののがっちりとした体つきをしていた。写真は色ごとに並べられており、マジックアワーの紫から海の青、草原の緑、ひまわりの黄色、最後は夕日の赤と、虹のようなグラデーションになっていた。
彼はわたしに気づき、
「どうぞ、ゆっくり見て行ってください」
と白い歯を見せて笑った。
「あの、オホーツクの海の写真はありますか」
「ああ、ありますよ、宗谷岬で撮った夕暮れ時の」
彼は赤のコーナーから写真を一枚手に取り、わたしに見せた。
「あ、そっちじゃなくて、根室のほうの海の写真はありますか」
「根室なら、納沙布岬の朝日ですね」
オレンジと黄色の中間あたりから一枚取る。
「根室は北海道の最東端だから、朝日が一番早く昇るんですよ」
「朝日……じゃなくて、あの、真夜中の暗いオホーツク海の写真は」
それまで笑顔で対応してくれていた彼の顔が、戸惑ったように硬くなった。何を言っているんだこの女は、とでも思っていそうな彼の表情に、わたしははっと我に返った。
「真夜中、ですか。それはちょっとないですね」
「そうですよね、すみません。こちらの朝日の写真、一枚ください」
彼に百円玉を二枚渡し、もぎ取るように写真を受け取って、わたしは素早くその場を離れた。心臓がばくばくと暴れていた。
交差点を渡り、運河から十分に距離があるところで歩みを止めた。呼吸を落ち着かせ、握っていた手を開いて写真を見る。右の上端がくしゃくしゃによれていた。
水平線から黄金の朝日が昇ってくるところだった。わたしは思わず写真を真っ二つに破いた。半分になった写真を重ねてまた破る。四枚を重ねて八枚に、十六枚に、三十二枚に、破る破る破る。
花びらのように小さくなったそれを、吹いてきた風に乗せて飛ばした。それはすぐにばらばらになって跡形もなくなった。
あのひとは朝日が昇る前に、岬から飛び降りたのだ。清々しい朝の空気、希望の象徴のような朝日が昇る頃には、きっとあのひとはもう……。
ひどい悪夢を見た。
あのひとが女をナイフでずたずたに引き裂いて、死に絶えた彼女を犯す夢。わたしは始終、その様子を斜め上から見ていた。よく見ると、女はわたしだった。あのひとはわたしの体を自由に操縦していた。
あのひとの狂気がわたしの中に充満していた。あのひとはボロきれのように横たわったわたしを、やさしくやさしく抱き寄せた。目がひときわ輝いていて、ミラーボールのようだった。
背中が汗でびしょ濡れだった。時計を見ると、まだ朝の五時だった。もう一度寝ようとしたが、背中が気持ち悪くて眠れない。胸元にも汗をかいていた。
起きて、シャワーを浴びる。夢の中であのひとに抱かれた感触も水とともにすべて流れていくようだった。わたしは足元の排水溝をじっと見つめた。そこにわたしから剥がれ落ちた赤茶けた錆が溜まっていくような気がして。
洗面所で髪を乾かす。ドライヤーの温風になびく髪の毛の合間から、自分の顔が覗く。身震いをした。わたしは穏やかな笑みを浮かべていた。喜びを噛みしめるような、口元が自然と綻んでしまうような、そんな表情。
あの夢は悪夢ではなかった。これ以上ないほど、わたしは幸せに満ち満ちていた。わたしの死体を弄ぶあのひと。カラスともハイエナとも違う、柔らかさに溢れた顔をして、わたしの機能しなくなった陰部に自分の性器を押し当てていた。
夢であってもいい。わたしが覚えている限り、それは永遠にわたしのものだ。わたしの体験だ。
ドライヤーを止めて、喜びに震える肩を抱いた。鳥肌が立っていた。わたしはどこかおかしいのだろうか。壊れているのだろうか。それでもいい。あのひとがわたしに触れたのだから、もう何だっていい。
簡易な朝食を済ませ、九時にホテルをチェックアウトした。これから人生初のヒッチハイクという大仕事が待っている。旅ノートには、「国道沿いのガソリンスタンド、稚内行きのトラック」と書いてあった。どうしてガソリンスタンドなのだろうと疑問に思ったが、ネットで調べてみると、車が絶対停まるし、これから遠くに行こうとする人も多いため、そこで待つのは定番であると書いてあった。さらに国道沿いというのもポイントらしく、車通りが多いだけに成功確率も上がるのだとか。
地図アプリで国道沿いのガソリンスタンドを調べ、バスで近くまで移動した。コンビニに寄ってミネラルウォーターを買い、軒先で持って来たスケッチブックにマジックペンで「稚内まで」と大きく太く書いた。
信号を渡り、ガソリンスタンドの手前にスケッチブックを掲げて立つ。ちょうど車が減速して入って来るあたりだ。最初は何気なく立っていたが、次第にドキドキと心臓が打ってきた。本当にこれで稚内までいけるのだろうか。親切な車に出会えるだろうか。
あのひともおそらくヒッチハイクは初めてだったはずだ。ネットに疎いあのひとがどうやってヒッチハイクの情報を集めたのか気になった。何せ、携帯不携帯と揶揄されるほど携帯を見ない人で有名だったのだ。パソコンもあまり使わない、レポートも手書きという、超がつくほどのアナログ人間だった。ネットの情報は怪しいから信用しない、とも言っていた。会っていなかった十年で、その性質が変わるとも思えない。
開始して二十分が過ぎた。今のところ、一台も停まっていない。わたしには目もくれず、横を素通りしていく車ばかりだ。そう簡単にはいかないだろうと思ってはいたが、四五分を過ぎたあたりから気落ちしてきた。
スケッチブックの持ち方が悪いのだろうか、もっと目立つようにカラフルに書くべきだったか、立ち位置が手前すぎるのか、服装が地味なのかなど、改善点がいくらでも見つかって溺れそうになる。さらには女一人のヒッチハイクはやはり無理があるのだろうか、と今さらどうしようもないことが頭をよぎる。
開始から一時間が経とうとしていた。気を抜くとつい自分を責めそうになる。そんなことをしていては気力も体力も削られていく一方なので、ここは歯を食いしばる。もう少しガソリンスタンドの近くに寄ろうと思い歩き出したとき、給油スペースに停まっていた車から女の人が降りてこちらへ向かって来た。
「稚内まで?」
「あ、はい」
「狭くていいなら乗せられるけど」
「本当ですか。お願いしてもいいですか」
「どうぞ。でもマジで狭いからね」
彼女は金色の長い髪を風になびかせ、わたしを手招きした。後をついて行くと、小豆色の軽自動車の中には、運転席にサングラスをかけ髪をワックスでツンツンに固めた男の人、後部座席に迷彩柄の服を着たニキビ肌の男の人が乗っていた。
「こいつはアキ。こっちは須賀。んで、私はモモ」
彼女、モモさんが運転席と後部座席をそれぞれ指して紹介してくれる。モモさんと須賀さんはわたしよりも若く見えたが、アキさんはサングラスをしているせいか、いくらか年上に見えた。名字を言うべきか名前を言うべきか迷った末、秋月琴子です、とフルネームを名乗った。
「じゃあ、コトコって呼ぶー」
モモさんが助手席に乗り込みながら朗らかな声で言った。
車の中は確かに狭かった。天井が低いことに加え、足を伸ばすスペースもなかった。助手席の背がわたしの膝にあたる。隣の須賀さんは靴を脱ぎシートにあぐらをかいて座っている。
「狭くてごめんねー。これで精一杯なんさ」
モモさんが座席を動かそうとするが、それ以上前には行かないらしい。大丈夫です、と答えると、急に座席が後ろに下がってきた。えっ、と声が漏れる。慌てて膝を抱える。
「冗談だよー」
ケラケラとモモさんが笑い、座席を前に戻した。アキさんと須賀さんも笑っている。緊張していたわたしを気遣ってくれたのだと思うと、心が温かくなった。
車は国道五号線を走っていた。途中、左側に海が見えた。海、と呟くと、アキさんが、
「二三一号線に入ったらもっと綺麗に海が見えるよ」
と教えてくれた。
「稚内へはよく行くんですか?」
「去年行ったな。須賀とツーリングで」
「へえ、バイクで」
「そう。でも今回はこいつがいるから、このせっまい車でな」
アキさんがモモさんをちらっと見て言った。
「人をお荷物みたいに言うな」
モモさんがアキさんを殴る真似をする。
「モモさんはバイクに乗らないんですか?」
「免許持ってないもん」
「こいつが一番ハーレーとか乗り回してそうなのにな」
須賀さんが茶々を入れ、アキさんが吹き出す。
「はあ? うっざ。事故起こした奴に言われたくないし」
モモさんが須賀さんを振り返って中指を突き立てる。
「俺が起こしたんじゃねえよ。あれはトラックの確認ミスだ」
「どっちも同じじゃん」
「一緒にすんじゃねえ」
「あんたもトラックの動き、先読みすればよかったじゃん」
「ちゃんと減速してたっつーの」
「じゃあ何で巻き込まれんの」
「だあから、トラックが突っ込んで来たんだって」
「距離取ればよかったじゃん」
「あのときは無理だった」
モモさんと須賀さんの言い合いに呆気に取られていると、アキさんが笑いながら、
「こいつらいつもこうだから気にしないで」
と言った。
「仲良いんですね」
「そ。喧嘩するほど仲が良い」
二人はまだああだこうだと言い争っている。わたしは何だか二人が微笑ましくて、つい笑ってしまった。
つかず離れずの距離に見えていた海が、真横に見えるようになった。雲ひとつない晴天に呼応するように、海は青く凪いでいた。
「気持ちいー」
モモさんが窓を開けた。彼女の髪の毛が後ろまでなびいてくる。
「この道、オロロンラインって言うんですよね」
「そうだよ。さっきからずっとオロロン走ってるよ」
「え、どこからですか」
「小樽から」
国道二三一号、二三二号をオロロンラインと言うものだと思っていたが、訊けば、国道三三七号、五号、道道一〇六号なども含まれるのだそうだ。
「じゃあ稚内までずっとオロロンラインなんですね」
「まあな」
アキさんが答えた。
「コトコはさ、何で稚内まで行きたいの? そう言えば訊いてなかった」
モモさんが前を向いたままわたしに訊ねた。
「しかも、ヒッチハイクで」
「えっと」
わたしは言葉に詰まった。どこから話せばいいのだろうと頭の中で説明を組み立てていると、
「好きな男にフラれたとか? 傷心旅行的な」
モモさんが顔だけ振り返ってニヤニヤと笑いながら言った。彼女の勘の良さにわたしは驚いた。傷心旅行というわけではないが、まったく的外れなわけでもない。彼女たちになら正直に話せそうだと思った。わたしは、長くなっちゃうんですけど、と前置きをしてから話し出した。
あのひとを想っていたこと、あのひとが死んでしまったこと、あのひとの父親から旅ノートを借りたこと、あのひとの見せる夢から醒めたくて軌跡を辿っていること。
何度も言葉につかえながら、わたしは話した。途中、あのひとの影が網膜の間を行ったり来たりする感覚にとらわれた。あのひとはわたしの話の中ではちゃんと生きていた。今にも言葉を投げかけてきそうなほど、ありありと浮かんでいた。けれど、それは完全な姿ではなく、あのひとはどこか体の一部が欠けていた。目だったり、右腕だったり、足の親指の爪だったりした。わたしは完全な姿のあのひとを思い描けないことに悲しくなった。モモさんたちは黙って耳を傾けてくれていた。
「じゃあコトコはその人の真似をして旅してるんだ」
モモさんが言った。
「真似と言うか、まあ、そんなところです」
「何か気づくことがあると思って?」
「そうですね」
「ふうん」
モモさんは何かを考え込むように口を尖らせた。
「コトコちゃんは、その人のことが本当に好きだったんだね」
アキさんがしみじみとした声で言った。
「好き、でしたね」
「忘れられないんだ」
「そうかもしれません。過去のこと、と区切りをつけたつもりではいるんですけど」
答えながら、わたしは本当にあのひとのことが今でも忘れられないのだろうかと思っていた。忘れたいとか忘れられないとか、そういうありきたりな感情ではなく、この気持ちはもっと別のものに形を変えているような気がした。
「好きな人の足跡を辿って旅するのもいいけどさ、その人みたいに海に飛び降りちゃ駄目だよ、コトコ」
モモさんがふざけた口調で言った。横顔は笑っていたけれど、口元がかすかにへの字に歪んでいた。
「まさか、そんなことはしませんよ」
わたしも笑ってそう答えたが、語尾が震えてしまった。きっとモモさんのへの字が伝染したのだ。アキさんと須賀さんは何も言わなかった。
車は石狩の道の駅、あいろーど厚田の駐車場に入った。眼下に広がる海がキラキラと光っていた。
「煙草休憩な」
アキさんがドアを開けながら言った。
アキさんと須賀さんは車にもたれかかりながら煙草を吸い始めた。彼らの吐く煙が風に乗ってゆらゆらとたなびいていった。
「なか見に行こ」
モモさんに誘われ、二人で店に向かう。一階では土産物を売っており、エスカレーターで二階に上がると飲食店が屋台のように並んでいた。イートインスペースもある。右端にジェラートの店を見つけ、モモさんが駆け寄って行った。
「コトコ、ジェラート食べようよ」
子供のようにはしゃいだ声を出す。ガラスケースの中を覗くと、十種類ほどの色とりどりなジェラートが輝いていた。目が一気に賑やかになる。
「美味しそうですね」
「私はねー、三種類にする」
モモさんは厚田ブルー、マンゴーソルベ、はまなすソルベの三種類、わたしは同じく厚田ブルーとミルクの二種類を注文した。
「コトコのジェラート、爽やかだー」
「モモさんのはカラフルですね」
海が一望できるカウンターに二人並んで座る。本当に良い天気だった。これほどまでに波がない海を見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。遠くから見ると、海面はシルクの布を敷いたようになめらかでつやつやしていた。
「綺麗ですね。心が洗われるようです」
わたしがそう言うと、モモさんが急に笑い出した。キャハハ、と高い声が人のいないイートインスペースに響く。変なことを言っただろうかと考えを巡らせていると、
「コトコ、舌真っ青!」
モモさんが笑いながらわたしに人差し指を向けた。
「私も青くなってる?」
べー、と長く突き出した彼女の舌も青色をしていた。
「青い!」
「ゾンビじゃん、うちら」
わたしたちは顔を見合わせ、舌を出したり引っ込めたりして笑った。
たっぷり時間をかけてジェラートを食べ、景色を堪能してから車に戻った。アキさんと須賀さんは既に煙草を吸い終えており、
「遅えよ。うんこでもしてたのか」
と須賀さんが怠そうに言った。
「ねえ須賀、見て見て」
モモさんが舌を出すと、須賀さんは目を丸くして、
「うわ、ゾンビじゃん」
と言った。モモさんと同じことを言っている。モモさんが仰け反って笑い、愉快になってわたしも笑った。
その後、何度か道の駅で休憩を挟み、車は稚内へ到着した。アキさんに今日泊まる宿を訊かれ、スマホで場所を検索して伝えると、送ってくれると言う。その前に宗谷岬のオブジェを見に行こうと言うことになった。あのひとの旅ノートにも宗谷岬に立ち寄ったことが書かれていた。オブジェは「意外とそっけない」らしい。
雲一つなく晴れていることもあり、岬から水平線がくっきりと見えた。三角のオブジェは確かに迫力があるわけではないけれど、あのひとの言うようにそっけないとは感じなかった。風が強くて、毛先がばたばたと前に後ろに暴れる。モモさんがスマホで写真を撮ろうと言った。二人で並ぶと彼女の髪がこちらまでなびいてきてわたしの顔を隠した。
北海道に来たのだという実感が再び湧いてきた。あのひとの軌跡を辿るためでなければ、一生北海道には来なかったかもしれない。テレビでたまに観る程度の、遠い異国のような気がしたまま死ぬまで過ごしていたかもしれない。海を見ていると過去、現在、未来の自分が渦を巻いて水平線に吸い込まれていくような気がした。過去のわたしは吸われてもいい。現在のわたしはここにとどまって、未来のわたしはよくわからない。
道路の向こうに小さな神社を見つけ、一人で参拝に行った。アキさんと須賀さんは煙草を吸うと言い、モモさんは神様なんて信じないから行かないのだそうだ。
無人の神社だった。鳥居の前で一礼し、拝殿へ進む。財布から百円玉を一枚取り出し、賽銭箱に入れる。二礼二拍手し願い事を心の中で唱えようとしたとき、はたと気づいた。わたしの願いは何だろう。神様に叶えてほしい願いがわたしにはあっただろうか。手を合わせたまま、わたしは瞬きを繰り返した。
これが願いと言えるのなら、わたしの願いはきっと叶わない。いや、絶対、もう、叶うことはない。いつだって思うことは一つだけだった。それは今も変わらない。あのひとがいなくなってからも。
あのひとに抱きしめられたい。
わたしの中にあるさまざまな願いらしきものをかき集めて究極に煮詰めると、これに行き着く。あの頃だって叶わなかった。あのひとが永遠にこの世から消えてしまった今、どう足掻いたって叶うはずもない。引き出しにかけた鍵をなくすことよりもずっと不確かで絶望的な気持ちを、わたしは飼い慣らすしかなかった。
結局何も願わないまま形だけの参拝を終え、一礼して神社を後にした。モモさんに、
「随分長く祈ってたね」
と言われたけれど、曖昧に笑って誤魔化した。わたしの祈りはどこにも誰にも届くことなく、宙を漂っているだけだ。そして、やがて、消える。
今日泊まるところは、宗谷岬から車で二十分ほど西へ行ったところにある小さな温泉宿だった。小学校を改装したような外観で、柱に括りつけられた看板の宿名の文字はところどころ掠れていた。
「じゃあね、コトコ。元気でね」
わたしと一緒に車を降りたモモさんがわたしをそっと抱き寄せた。
「本当にありがとうございました。ここまで来れてよかったです。モモさんたちもお元気で」
「旅、楽しんでね」
「はい」
モモさんが車に戻って行く。アキさんと須賀さんが窓を開けて、じゃあな、と手を振ってくれた。
「ありがとうございました」
もう一度そう言い、頭を下げる。遠ざかって行く小豆色の車を見つめていると、寂しさが込み上げてきた。でもそれは、心地良い寂しさだった。何かを失ったときや、一人取り残されたときの寂しさとは違う、大きな厚い膜に包まれているような、守られているのだという安心感のある寂しさだった。
車が見えなくなったところで宿を振り返り、数段ある階段を上って玄関の引き戸を開けた。中は暗く、フロントには誰もいなかった。呼び鈴をチン、と鳴らすと、奥から五十代くらいの背の高い女の人が小走りでやって来た。
「ごめんなさいね、気づかなくて。予約の方?」
「はい。今日一泊する予定の秋月です」
「秋月さん、ね。ここに名前と住所、書いてくれる?」
彼女は宿泊帳を開き、ボールペンと一緒に差し出した。ボールペンはインクが先端に溜まっていて書きづらかった。記名して彼女に渡した。
夕飯の時間と大浴場の場所の説明を受け、二階の部屋へ案内された。八畳ほどの和室だった。トイレと洗面所は共同で、部屋には中央に低い木のテーブルがぽつんと置いてあった。左側の壁には掛け軸が忘れ去られたようにかけられてあったが、達筆すぎて何と書いてあるのかはわからなかった。
レースのカーテンを開けると、眼下にあるのは駐車場だった。もっと遠くに、夕焼けに染まった海が見えた。あのひとが泊まった部屋は何号室だったのだろうか。ふと気になった。部屋があるのは二階だけのようだったし、廊下を挟んで反対側は壁になっていた。何号室に泊まっても、今わたしが見ているのと同じような景色が見られるのだろうけれど、小さな旅館で十そこらの部屋数なのだから、どうせならあのひとが使ったのと同じ部屋に泊まりたいと思った。
けれど、旅ノートを見ても部屋番号までは書いていなかった。断片的なノートの情報を頼りにあのひとの軌跡を辿っても、あのひとの足跡とわたしの足跡が完全に重なり合うことはない。それはわたしをひどくもどかしい気持ちにさせた。せめて旅ノートが詳細に書かれてあれば、とあのひとを責めたくなる。
こんなことをして、何になるのだろうか。旅の最終地点であのひとに会えるわけでもない。そんな想念は道中何度もわたしを襲った。わたしは何がしたいのだろう。目的はある。あのひとの軌跡を辿って、あのひとが消えた海を見て、あのひとが見せる夢から醒める。けれど、その先にあるものはわたしをどこへ連れて行くのだろう。
オレンジ色に染まった空と遠くの海を眺めながら、わたしはしばらく思索に耽った。考えても考えても答えの出ないことを自分に問い続けた。苦しい作業でもわたしはやめられなかった。
窓から離れ、畳にごろんと寝転がった。染みだらけの天井を見上げる。夕飯の時間まではまだ一時間ほどあった。畳の匂い。足を動かせばずりずりと鳴る。ざらざらした感触。束の間、あのひとの記憶が遠くなる。ずん、と落ちるような感覚がした。
目を開けると、部屋も窓の外も薄暗くなっていた。眠っていたようだ。起き上がってスマホを見ると、夕食の時間を少し過ぎていた。慌てて一階の食堂へ向かう。
食堂にはわたしの他に二組の客がいた。窓側の席に宿備えつけの浴衣を着た五十代くらいの男性、入口から一番遠い席にベージュの作業着を着た上司と部下らしい男性二人が、それぞれ食事をしていた。二〇五号室、と書かれた札が置いてある席に座ると、厨房から黒いエプロンをしたおじいさんが顔を出した。わたしに気づいてまた厨房へ引っ込み、しばらくすると刺身と茶碗蒸しを持って現れた。
「あと天ぷらと煮つけと汁物がくるから。ご飯はおかわり自由。あそこに置いてあるから自分で取って」
入口の側の長机に置かれた炊飯器を指差して、彼は言った。
「あの、夕食の内容は季節とか、日によって変わるんでしょうか」
わたしは厨房に戻ろうとした彼を引き留めて訊ねた。彼は一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐに、
「そうだなあ、刺身とか天ぷらなんかは季節によって変わるな。他も仕入れの具合でちょこちょこ変わってるよ」
と答えてくれた。それがどうした? というような顔をされたが、わたしはお礼を言って話を切り上げた。
あのひとが食べたものとまったく同じものを食べられるなんて思ってはいなかった。何から何まで同じことをするのはやはり不可能なのだ。心がからっぽになっていくのを感じた。次々と箸で料理を口に運んでいるのに、食べれば食べるほど、その料理が美味しければ美味しいほど、わたしの内側は空洞になっていった。
刺身は新鮮だった。茶碗蒸しは優しい味がし、煮つけは出汁がふんわりと香った。天ぷらはさくさくしていて抹茶塩をつけるとさらに美味しく感じたし、白米はわたし好みのやや柔らかい炊き具合だった。とても満足したのに、わたしは悲しい気持ちでいっぱいだった。
空になった食器を見つめ、今さっき食べた料理の味を思い返そうとしたけれど、うまくできなかった。美味しかったという感想も揺らぐほど、わたしは何も思い出せなかった。静かに席を立ち、よろよろと階段を上って部屋に帰った。体だけは食事をしたことを記録しているようで、たっぷりと重かった。
ドアを開けると、部屋の中央に布団が敷いてあった。布団に寝っ転がると、体が沈んでいくような心地がした。再び起き上がる気にはなれなかった。どこまでも沈んでしまえと思った。温泉に入って体と顔と髪を洗い、上がった後スキンケアをして髪を乾かす、という一連の流れが億劫に感じた。起き上がるきっかけを探しているうちに、わたしは眠りに落ちていった。
微睡の中で何度もあのひとの名前を呟いていた。わたしの口の中に広がり舌に溶けるまで、ずっと。あのひとは自分の名前の由来を、
「馬のように健やかにのびのびと育ってほしいから、だってさ」
と言っていた。サークルで開催したバーベキューがもうすぐお開きになろうとしていたときだった。仲間たちはバイトがあるからとか掛け持ちしている別のサークルに顔を出すなどと言って、一人また一人と減っていった。残ったメンバーも酒に酔い潰れるか、グループを作って語り合っていた。そのどれでもないわたしとあのひとは、弱くなっていく炭火に目をやりながらぽつりぽつりと話をした。
名前の由来を訊いたのはわたしからだった。一歩でもあのひとの深淵に足を踏み入れたかった。あのひとと秘密を共有すること、あのひとを構成している要素をできるだけ多く知ること、あのひとの心に触れること。それらはわたしの目標であり望みであり、テーマだった。名前の由来を知ることは、あのひとを構成している要素を知ることに含まれた。
馬のように健やかにのびのびと育ってほしいから、育馬。
あのひとの飄々とした清潔な雰囲気は、確かに毛並みの綺麗な白い馬を思わせた。
「琴子ちゃんは?」
あのひとはわたしの名前の由来を訊ね返した。
「母の母親、わたしの祖母が琴を習っていたらしいんです。母は小さい頃、毎日祖母が練習する琴の音を聴いて育ったって。とても素敵で心安らぐ音だったから、自分に子供ができたら絶対琴という字を使おうと思った、って母が言っていました」
「へえ。いいエピソードだね。琴子ちゃんは琴弾けるの?」
「弾けませんよ。家にあった琴も、祖母が亡くなったときに処分してしまったらしいので」
「そうなんだ。でも自分の名前の由来になってる楽器を弾けたら格好いいだろうな」
「それは確かに。じゃあ育馬先輩は馬に乗らなきゃですよ」
わたしがそう言うと、あのひとは吹き出して目を細めた。
「馬に乗るのは難しそうだなあ」
「琴を弾くのも難しそうです」
「どっちも機会があまりないしね」
「でも乗馬体験とかあるじゃないですか」
「そうだけど、行く機会があるかって言ったらそうでもないじゃないか」
「じゃあ今度のサークルの親睦会は、牧場で乗馬体験をするってことにしましょうか」
「それって、人間同士より馬と親睦が深まっちゃわない?」
あのひとの言葉に、わたしは声を上げて笑った。あのひとも笑っていた。
誰にもこの空気を乱してほしくなかった。一匹の虫でさえも、わたしたちの中に入ってくるなと思った。わたしはあのひとと理想のワンシーンを築いていた。わたしの望みがそこに詰まっていた。
目を開けると、カーテンの隙間から覗く空が薄明るくなっていた。明け方の四時だった。起き上がってカーテンを開ける。昨日、夕食を食べた後すぐに寝てしまったからか、体が重だるかった。
大浴場は二十四時間やっているそうなので、さっと入ることにした。タオルを持ち階段で三階へ行く。赤い暖簾をくぐり、脱衣所へ入る。脱衣所は狭く、衣類かごが三つ、洗面台は一つしかなかった。混み合うことはないのだろうかと思ったが、どことなく寂れた雰囲気のこの宿の風呂が客で賑わう様子は想像できなかった。
浴室内も例に漏れず狭かった。五、六人入れば窮屈になりそうな浴槽が一つと、洗い場が三つ。真ん中のシャワーを捻ると、冷水がちょろちょろと出てきた。温度調節をして湯量を最大にしてみたが、お湯は出るようになったものの、勢いは弱いままだった。両隣のシャワーも同じだった。仕方がないので、桶にお湯を張って髪や体を洗った。幼い頃、祖母と一緒に家の風呂に入ったとき、そうやって洗っていたことを思い出した。
温泉はとろりとした湯質で少し熱めだった。腕をゆっくり動かすと、お湯が絡まる感じがした。浴槽の底もぬるぬるしていた。温泉は好きだが長く入っていられないわたしは、五分くらい浸かり浴室を後にした。
バスタオルで体を拭き、着替えて髪を乾かす。ポーチを忘れたので、スキンケアは部屋に戻ってからした。一眠りすると、ちょうど朝食の時間になっていた。
食堂では昨日と同じ二組の客がそれぞれ無言で朝食を食べていた。作業着の二人はもう食べ終わりそうだった。席に着くと、昨日受付をしていた女の人が出てきて、白米と味噌汁をわたしの前に置いた。
「ご飯、おかわりしたかったら声かけてね」
朝はセルフではないらしい。入り口前に目をやったが、炊飯器は置いていなかった。
テーブルには他に焼き鮭とほうれん草の胡麻和え、レンコンのきんぴら、だし巻き卵、ヨーグルトのカップが置いてあった。家では朝に和食を食べることがほとんどない。仕事がある日はミキサーでスムージーを作るか、眠気覚ましにコーヒーを飲んで行っている。固形物は胃が重くなるのであまり食べない。休みの日は十時くらいに起きて、ブランチとしてパスタや蕎麦などの麺類を食べる。だから、こんなにしっかりとバランスの取れた朝食を食べるのは、正月に実家へ帰省したときのおせち料理以来だった。
食べ切れないと思っていたが、どの品も癖がなくやさしい味付けだったので箸がよく進んだ。ヨーグルトまで完食し、厨房にごちそうさまでした、と声をかけて部屋に戻った。
布団を綺麗にし服を着替え、歯磨きをした。日焼け止めを顔と首と腕に塗り、出発の準備が整った。部屋を出る前に、旅ノートを確認する。今日は根室の納沙布岬まで大移動することになっていた。稚内から納沙布岬までは車で大体九時間から十時間はかかるらしい。今は朝の八時過ぎ、九時くらいにヒッチハイクの車が見つかったとして、岬に着くのは十九時前後になる。
それでよかった。あのひとが最期に行ったのは真夜中の納沙布岬なのだ。あのひとの軌跡を辿るのなら、そこだけは絶対に揃えなくてはいけない。昼間では駄目なのだ。岬では真夜中まで時間を潰さなくてはならない。どこか待てる場所はあるだろうか。
ノートを閉じ、バックパックにしまう。チェックアウトのためフロントまで行くと、昨日の夕食のとき少し話したおじいさんが宿帳をめくりながら立っていた。鍵を渡すと、
「二〇五のお客さんだね。はい、五千円ね」
と銀色のトレーを差し出した。財布から千円札を五枚取り出し、トレーに乗せる。
「ちょうどね。領収書いる?」
いらないと答えると、おじいさんはレジに五千円をしまいながらわたしの顔をちらりと見た。
「今日はこれからどこ行くの」
「根室の納沙布岬まで行こうかなと」
「随分遠いな。車で?」
「ヒッチハイクで行きます」
「ヒッチハイクったら、知らん車に乗せてもらうやつか」
「そうです。昨日もヒッチハイクで小樽からここまで来ました」
「はあ、そりゃすごいな。親切な車、見つかるといいな」
「はい」
お世話になりました、と言って玄関を出ようとすると、おじいさんに「なあ、あんた」と呼び止められた。振り返ると真面目な顔をしたおじいさんと目が合った。
「あんた、死ぬなよ」
おじいさんはにこりともせずそう言った。背中がぞくりとした。暑いからではない、冷たい汗が、こめかみを伝った。すぐには反応できなかった。何とかして冗談のような空気にしたかったけれど、真顔のおじいさんを見るとその方法が思い浮かばなかった。
無理矢理口角を持ち上げ笑みを作ると、一礼して逃げるように宿を出た。駐車場を小走りで横切り広い道に出てもなお、心臓がばくばくと脈打っていた。まだ後ろからおじいさんがこちらを見ているような気がして、宿を振り返ることはできなかった。
道道二五四号線を北に向かって歩いているうちに、段々と気分が落ち着いてきた。わたしはバックパックからスケッチブックとマジックを取り出し、一旦立ち止まって「根室 納沙布岬まで」と書いた。宿であらかじめ書いてくればよかったと思った。
昨日と同じくガソリンスタンドの前で待つことにしようと近くの店舗を調べると、徒歩では一時間半もかかるらしい。この辺りに車を待てるスポットはないか地図アプリで検索してみる。けれど、どれも遠くまで行く車は期待できそうにない場所ばかりだった。
ヒッチハイクについて、もっと事前に調べておくべきだった。何も知らないまま、何も準備をしないまま、あのひとがそうしたからというだけで今回の旅に出てしまった。あのひとはよく調べてから旅に出たのだろうか。死ぬことを考えていたのなら、行き当たりばったりの旅だったかもしれない。いや、死に場所を納沙布岬に定めたあと、念入りに準備をしたのかもしれない。わからない。あのひとの考えていたことは何一つわからない。頼みの綱の旅ノートでさえ、詳しくは書かれていないのだから。
わたしは途方に暮れてしまった。今すぐ蹲って泣き出したい衝動に駆られた。途端、胃が迫り上がってくる感覚がし、気持ち悪さで口の中が酸っぱくなった。はからずとも、わたしはその場に蹲った。胃の辺りをさすってみたが、吐き気はするのに中のものは出てこなかった。いっそすべて吐き出してしまえたら楽なのに、と思う。
なかなか立ち上がれずにぐずぐずと体を揺すっていると、数メートル先に車が停まる気配がした。ドアを開閉する音に続いて、たったったっ、と足音が近づいてくる。
「大丈夫ですか」
顔を上げると、赤いチェックのシャツを着て黒縁眼鏡をかけた青年が心配そうな顔をしてわたしを見下ろしていた。片手にスマホを持っている。咄嗟に救急車を呼ばれるのかと思った。確かに気分が悪いけれど、ここで病院に連れられて行ったら計画が狂ってしまう。わたしは自分の体調よりも旅が計画通りに進まなくなることのほうが気がかりだった。
「大丈夫です。少し休めば治ると思うので」
わたしは青年を見上げてそう言った。
「でも」
「本当に大丈夫です。それよりもお願いがあるのですが」
「何でしょう」
「もしこれから根室方面に向かうのであれば、わたしを乗せていただきたいのですが」
青年はえっ、と言ったきり言葉を失った。わたしは急いで道に伏せてあったスケッチブックを見せ、
「実はわたし、ヒッチハイクの旅をしていまして。今日中に根室まで行きたいんです。昨日も小樽からここまでヒッチハイクで来ました。でも、この辺りじゃなかなか車を捕まえるのは難しくて、どうしようかと思っていたら少し気分が悪くなってきて」
と言った。何とか青年にわかってもらおうと焦っていたせいか、早口になってしまった。彼はますます不審に思っているような顔をした。わたしはしどろもどろになりながら、ヒッチハイクの旅をしている理由や昨日車に乗せてくれたモモさんたちのことなどを必死に説明した。けれど青年は、
「じゃあ、急病人ではないんですね」
と言い、スマホを持った手をだらりと下げた。
「あ、はい、すみません。病院などには行かなくてもよさそうです」
「それならいいですけど。僕はこれから網走まで行きますが、そこまででもいいなら乗りますか?」
「網走、って根室に近いですか?」
「網走根室間は車で三時間ちょっとですね。ここから網走まで六時間くらいなので、ちょうどいい車が見つかれば今日中に根室まで行くことも可能だと思いますけど」
「そうですか。じゃあ、網走までご一緒してもよろしいですか」
「いいですよ」
青年は頷いて、立ち上がろうとするわたしに手を差し伸べてくれた。
黒のプリウスの助手席に乗り込みシートベルトを締めると、青年がただ、と言った。
「網走まで六時間ほどと言ったのですが、ぶっ続けで運転できるわけではないので、二時間に一度は休憩しながら行きたいです。なので、実際は七時間くらいかかるかと思いますが、大丈夫ですか」
彼の生真面目な物言いに、少し緊張がほぐれた。わたしは笑って、大丈夫です、と言った。
車は静かに走り出した。どういうルートで行くのか気になり、現在地から網走までの道を地図アプリで検索してみると、オホーツク海沿いをずっと南へ向かって走るらしいことがわかった。最終地点の納沙布岬まではさらに南下するようだ。
地図上で「弟子屈」と書いてある地域を見つけ、青年に読み方を聞いた。
「てしかが、と読みます。難しいですよね」
「普通じゃ読めないです。でしくつ、かと思いました」
「北海道には他にも絶対読めないだろっていう地名がたくさんありますよ」
「あ、じゃあ興味の興に部と書く町名は何と読むんですか? 網走に行くまでに通るみたいですけど」
「何て読むと思います?」
「え、何だろう。こうべ町?」
「正解は、おこっぺ、です」
「絶対読めない!」
彼とは北海道の地名クイズでしばらく盛り上がった。生まれも育ちも北海道だと言う彼にも読めない地名がいくつかあった。
二時間ほど走り、枝幸町の道の駅でトイレ休憩を挟んだ。お互い名乗っていなかったことに気づき、出発前に今さらながら自己紹介をした。彼は飯嶋さんと言い、現在住んでいる稚内から網走の実家へ帰省するところだったらしい。公立高校の教員で、二年前に稚内へ転勤になったと言う。
「公立の教員って数年ごとに異動になるんですが、北海道は広くて大変ですよ。実家から通えるなんてことはまずない。今は稚内ですが、次は函館に転勤なんてことも普通にありますからね」
「函館って、北海道の南ですよね? 端から端じゃないですか」
「そうです。そうなったら大移動ですよ」
飯嶋さんとの会話は楽しかった。歳はわたしとそう変わらないように見えるのに、知識が豊富で話し上手だった。紋別の道の駅に着く頃には、わたしたちはすっかり打ち解けていた。けれど、くだけた口調で会話をするようになっても、飯嶋さんはわたしの旅の事情については聞いてこなかった。
それから二時間ほど走り、網走に到着した。わたしは網走駅で車を降ろしてもらうことにした。飯嶋さんの実家は駅から車で五分もかからないところにあるそうだ。途中道が混んでいたこともあり、駅に着いたのは十八時近くだった。
「今から本当に根室まで行くの? 長時間車に乗ってて疲れたでしょう。今日はもう網走に泊まったら?」
飯嶋さんにそう勧められ、実際座りっぱなしで背中と腰が痛くなっていたわたしは、今日は駅前のホテルで休むことにした。とても納沙布岬まで行く気力はなかった。
飯嶋さんにお礼を言って、車を降りようとすると、
「秋月さん、辛いことがあっても諦めないで。またどこかで会えたらいいな。良い旅を!」
運転席から身を乗り出して彼はそう言った。わたしが会釈して手を振ると、黒のプリウスはウィンカーを出して他の車の流れの中に消えて行った。
辛いことがあっても諦めないで。
あんた、死ぬなよ。
わたしには同じ意味の言葉に聞こえた。どうして飯嶋さんまでそんなことを言うのだろう。わたしは自分の話なんてほとんどしていないのに。ましてや、あのひとのことなんて一言も喋っていないのに。わたしはそんなに危うく見えるのだろうか。他人の目から見たら生きていくことに疲れたように、今にも死にそうに見えるのだろうか。
腑に落ちないまま駅構内のベンチに座り、今日泊まれるホテルを探した。すぐ近くにある全国展開のビジネスホテルに空きがあった。ネットで予約をし、ホテルに向かう。徒歩一分程度で到着した。
チェックインをして、四階までエレベーターで上がる。部屋は初日に札幌で泊まったホテルと似たり寄ったりの広さだった。バックパックを床に置き、ベッドに倒れ込む。ちょうど夕飯の時間だったが、外に出るのは億劫だった。コンビニかどこかで食べるものを買ってから来ればよかった。
わたしはいつも後悔してばかりだ。やらなかった後悔が圧倒的に多いが、中にはやってしまった後悔もある。あのひとに告白なんてしなければよかった。わたしがあのとき想いを伝えなければ、仲の良い先輩と後輩でいられたかもしれないのに。わたしが自らあのひととの関係を断ち切ったようなものだ。あの頃のわたしは、告白をすればあのひととどうにかなれると思っていたのだろうか。なんて傲慢で浅はかな考えでいたのだろう。
わたしはあのとき、ずっと好きでした、と言った。それに対してあのひとは、気持ちには応えられない、と。付き合ってほしいと伝えたわけでもないのに気持ちに応えられないと言ったのは、わたしを好いていないということに他ならない。
思い返しても、もう涙は出てこなかった。生きていても二度と会うことはできないのと、相手が死んでしまって二度と会えないのとでは、どちらのほうが悲しいのだろうか。わたしはあのひとが死んだと聞いたとき咄嗟に、
「ああ、これでもう苦しまなくていいんだ」
と呟いていた。なかなか実感が湧かなかったり、信じられない気持ちはあった。あのひとの遺影を目にして随分混乱もしたけれど、それでも咄嗟に呟いたことはわたしの中の真実であったと思う。
旅ノートを開いた。あのひとはヒッチハイクをして一日で稚内から根室まで移動している。わたしも頑張れば行けたかもしれない。あのひとの辿ったルートにはないところで中途半端に留まってしまった。最初から完璧とは言い難い旅だったけれど、せめてルートくらいは正しく辿りたかった。わたしはまた後悔をして心が重くなった。
大学へ行く途中にある公園の水飲み場近くで、ネズミが死んでいたことがあった。頭を踏み潰されたようで、脳みそらしきぐずぐずとした半個体が割れた頭蓋骨の中から見え隠れしていた。
交差点でトラックが曲がり際、わたしのスニーカーに泥水をかけて行ったので、通り道のこの公園で靴を綺麗にしようと思っていたところだった。
ネズミの死骸を見たわたしの脳裏には、あのひとの清潔な顔が浮かんでいた。鳥を殺したと言っていた日から二週間が経っていた。
あのひとがやった確証はない。でも、あのひとがやったのだと思って頭の潰れたネズミを見ると、そのおぞましいはずの死骸すら愛おしいものに思えてくるのは何故だろう。わたしはネズミの体にそっと触れた。ひんやりとしていた。指でつつく程度では皮膚の柔らかさのみが感じられ、摘んでみないと硬直しているかどうかわからなかった。
こうしてネズミの死骸を弄んでいるわたしと、鳥を殺したと言って笑っていたあのひとは同類とみなしていいのではないかと思った。同類項で結んでほしかった。善良そうな顔をして残忍なことをするあのひとは、さらさらと流れる小川のように、小川を泳ぐキラキラした魚のようにどこまでも清潔だった。
水飲み場の蛇口を捻り、溢れてきた水で手を洗った。何度も何度も手のひらを擦り合わせ、ごしごしと力を込めて洗った。ネズミの死骸に触れたからだ。手を洗うことでネズミの死骸はただの汚いものになり下がる。命を粗末にしている。死を軽く見ている。そんなつもりじゃない、わたしはただあのひとのようになりたいだけだ。
わたしは目的であった靴を綺麗にすることは忘れ、手ばかり執拗に洗った。ぬるかった水は次第に冷たくなっていき、それに呼応するように手も感覚がなくなるほど冷たくなった。足元のネズミの死骸にわたしの手から飛んだ水がかかっていた。脳裏にはやはりあのひとの清潔な笑顔が浮かんでいた。
翌朝、十時にホテルをチェックアウトしたあと、まっすぐに網走駅に向かった。根室行きの切符を買い、電車に乗る。あのひとの辿ったルートにはない網走で滞在してしまった今、もはやヒッチハイクで根室まで行く理由がなかった。どうせ正しく辿れないのなら、少しくらい楽をしてもいいのではないか。そんな思いで電車に乗った。
東釧路で乗り換えをし、根室まで行く。根室駅から納沙布岬までは車で三十分ほどらしい。タクシーで行ってもいいかと思っていた。
あのひとの軌跡を辿ろうと思って北海道までやって来たのに、今さら計画が頓挫するなんて情けなかった。思えば旅の最初から思い通りにはいっていなかった。札幌ラーメンの店、泊まったホテル、小樽で観光した場所など、あのひとの旅ノートには記されていなかったからわたしが勝手に判断するしかなかった。
なんだ、最初から頓挫していたじゃないか。
そう思うとわずかに心が軽くなり、同時に途方もなく虚しくなった。
車窓から見える景色が霞んでいた。目を閉じると、あのひとの姿が今でもはっきりと浮かんでくる。あのひとが死んで、わたしは苦しまなくてよくなったかと言えば、実はそんなこともなかった。それまでも思い出したりたまに忘れて何かに集中したり、でもずっと心には居たりと、あのひとはわたしの周辺に点在していた。常に苦しかったということもなかったが、思い出したときに猛烈に苦しくなった。
あのひとが死んで、会おうと思えば会えるかもしれないという甘い期待は打ち砕かれた。もう二度と会えないのだという事実は、確かにわたしを楽にさせた。けれど、あのひとがわたしの中から消えたわけではない。生きていても死んだとしても、わたしの中にあのひとは変わらず居るのだ。それはやはり苦しいことだし、何も解決はしていない。
あのひとから解放されたい。あのひとの見せる甘くて苦い夢から醒めたい。そう思って旅に出た。でも心の奥底で、本当に? と問うわたしもいる。
自ら望んであのひとに縋っているんじゃないの?
鋭い目で問いかけてくるわたしは、あのひとの腕をしっかりと掴んでいる。あのひとの姿は見えなくても、わたしが掴んでいる白い腕はあの人のものであるとわかる。
駅に電車が停まって扉が開くたび、わたしは我に帰る。発車するとまた思考の海へ潜る。幾度も繰り返しながら東釧路へ到着した。重い腰を上げて電車を降りる。まだ乗っていたかった。永遠に乗り続け、もう二度と戻って来られない地まで行きたかった。
あと二時間半ほどで根室に着く。わたしはどこにも存在していないみたいだ、と思った。車窓から見えたはずの景色も覚えていない。あのひとのことを考えて網走から東釧路までの三時間を過ごしていたけれど、どこにも収束しなかった。わたしが居て、思考を巡らせた証はどこにも残っていない。少なくとも、わたしの中には。
乗り換えた電車の中でも、あのひとのこと考えてしまう。それはもう仕方のないことだった。だってあのひとは死んだのだ。その地にわたしは向かっているのだ。考えないはずがない。
あのひとを思い、少しの間眠り、起きてまたあのひとのことを思い浮かべた。そうして根室に到着すると、電車を降り駅前でタクシーを拾った。十六時前だった。
「納沙布岬までお願いします」
タクシーの運転手は何も言わず車を走らせた。彼が無口でよかったと思った。話しかけられたら、うまく愛想笑いをしながら対応できる自信がなかった。わたしは自分の内側をあのひとで満たすのに必死だった。
納沙布岬に近づくにつれ、霧が出てきた。空も曇っていて、岬に着くと夏だというのにかなり肌寒かった。
岬にはアーチ状の大きなオブジェがあった。北方領土を表したものらしい。オブジェの下には灯火が燃えていた。その他、食事処や資料館などもあったが、立ち寄らずに少し離れたところにある灯台を目指して歩いた。
「灯台の下の断崖に打ち上げられて、倒れていたらしい」
あのひとの父親の震える声が鼓膜に蘇った。海に飛び降りたと聞いていたからどんなに高い崖なのだろうと思っていたが、辺りを見渡して拍子抜けした。岬から海までは断崖絶壁というほど切り立っているわけでもなく、何故ここに飛び込んだのだろうという疑問でいっぱいになった。もっと険しい断崖絶壁が他にもあっただろうに。詳しいことはわからないが、肉眼で見下ろした感じだと確実に死ぬにはいくらか頼りない気がした。
ますますわからなくなる。あのひとはもしかしたら死ぬつもりではなく、ただ単に足を滑らせただけなのではないか。不慮の事故だったのではないか。それはあのひとの死を知ってから幾度となく考えたことだった。けれど、いつも「真夜中」という単語がその考えを無にする。あのひとは真夜中の岬で海に飛び込んで死んだとされているのだ。何が正しいのかわからない。真実は誰にもわからないのだ。もういない、あのひとにしか。
岬は曇っていて、遠くまで見えなかった。晴れていれば北方領土が見えるらしい。真夜中の岬では何か見えるものはあったのだろうか。わたしは真夜中までここで待つつもりだった。あのひとが見た世界をわたしも見たい。あのひとが最後に目にしたものを、わたしも。
わたしは五感を目一杯研ぎ澄ませて、あのひとの気配を感じようとした。この場所でなら、あのひとを間近に感じることができるような気がした。けれど、いくら目を凝らしても、耳を澄ませても、鼻をひくつかせても、深呼吸をしても、手を広げても、何も感じることはできなかった。薄黒い海が見え、轟々と風の音がし、かすかに潮の匂いがし、肺に冷たい空気が入り込み、半袖から出た腕に鳥肌が立つだけだった。
柵に手をつき、海を見下ろす。波飛沫がパアン、と飛び散る。だんだん高さがわからなくなる。海面が迫ってくるように感じた。あのひとは何を見て何を思ってここから飛び降りたのだろう。わからない。どうしてもわからない。それだけが、わからない。本当は何もわからない。あのひとが考えていることなんて、わかった試しがない。
わたしもここから海に飛び込めば、わかるのだろうか。風がわたしの前髪を払った。視界が開ける。曇天の空とつながった海が見える。わたしは唾を飲み込んだ。
柵からそっと手を離した。柵の内側ぎりぎりに立つ。風が吹き抜けていった。両足の感覚がなくなる。足元を見ると、ぴたりと揃った靴先があった。このまま風に溶けて、空気に溶けて、海に溶けてしまいそうだった。わたしは今なら何にでも擬態できると思った。
キャハハッ
すぐ近くで高い子供の笑い声がした。わたしははっと我に返った。急激に海が遠のいていく。両足の感覚が戻り、溶けてしまいそうだった体は鉛のように重くここにあった。
振り向くと、母親に手を引かれた五歳くらいの男の子がこちらを見ていた。わたしを、見ていた。吸い込まれそうな大きな瞳は、全然似ていないのに何故かあのひとを彷彿とさせた。
わたしは海に目を戻した。真下を見ても、もう海面が迫り上がってくることはなかった。何もかも剥がれ落ちた感覚が、わたしの体を取り巻いていた。浅瀬に打ち上がった昆布のようなくたびれた感覚だった。あのひとのことを考えてみた。脳裏に鮮明に像を結ぶ。色褪せてなどいない。
わたしはスマホを取り出し、タクシー会社に電話をした。納沙布岬まで一台お願いします。電話を切り、最東端の碑を写真に収めた。もう来ることはないだろう。思えば、初日からまったく写真を撮っていなかった。記念に何枚か撮ればよかった、と淡い後悔をした。
この日は根室駅前のビジネスホテルに泊まり、翌日釧路空港から東京へ帰った。飛行機に乗ってすぐ眠りに落ちた。離陸時にはすでに眠っていたと思う。機体が最終の着陸態勢に入ったところで目が覚めた。夢は見なかった。
それからはずっと窓の外を見ていた。東京の街が近づいて来て、海に滑り込むように機体が傾き、あっと思ったところで滑走路が見えた。着陸はなめらかでほとんど揺れなかった。
羽田空港から京急線に乗り、自宅へ向かう。わたしの気持ちは厚田で見た海のように凪いでいた。直之はわたしがいない間、ちゃんとご飯を食べていたのだろうか。旅中、一度も連絡をしなかった。彼からは何通かラインが送られてきたけれど、既読だけつけて返信はしなかった。お土産を買うのも忘れてしまったし、家に帰ったら怒られるだろうか。
今日帰った瞬間から日常に戻るのだと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。五日間の北海道の旅は振り返ってみれば呆気なく、切羽詰まっていた自分が可笑しく感じてしまうほどだった。わたしは途方もないことをしようとしていたのだと気づいた。
あのひとのことはきっと生涯忘れられない。何故、と問われたらうまく答えられないけれど、あのひとでなければならなかった理由が今もわたしの体の奥底に眠っているのだろう。
夢からは醒めなかった。わたしはあのひとが見せる夢に永遠に溺れたままなのだ。それはわたし自身が見たい夢なのかもしれなかった。叶わなかった想いを精算するには、この旅はあまりに杜撰すぎた。それでもいいのかもしれない。精算できてしまったら、わたしは多分立ち上がれなくなる。
自宅に着き、玄関のドアを開ける。直之は仕事に出ているようで、部屋にはいなかった。バックパックをソファに投げ出し一息つく。急速に日常に戻っていく。休む間もなくわたしは荷物の片付けを始めた。着た服を洗濯機に放り、スキンケアセットを洗面台に並べ、その他細々としたものを所定の場所に戻した。最後に旅ノートを取り出し、パラパラとめくった。あのひとの父親に返さなければならない。大事な遺品なのだ。わたしは旅ノートをいつも使っているトートバッグの中に入れた。あのひとの父親に連絡するため、スマホを手に取る。
連絡帳を開く前に、北海道の旅で一枚だけ撮った納沙布岬の最東端の碑の写真を眺めた。この岬は日本で一番早く日の出が見られる場所らしい。小樽運河で写真を売っていたお兄さんの言葉を思い出した。夏場だと四時すぎには日が昇るという。夜明け前から岬に訪れて日の出を見る人も多いのだとか。
……ああ。
思わず声が漏れた。手が、唇が、震え出す。あのひとは、あのひとは、あのひとは。
日の出を見ようとしていたのではないか。
わからない、そんなことは誰にもわからない。でも、少しでもその可能性があるのなら、わたしは。
自ら命を絶ったことに変わりはないのかもしれない。けれど、あのひとの死にゆく瞳に、薄れゆく意識の端に、眩い朝日が映っていてくれたなら。あのひとが最期に見たのが希望に満ち満ちた日の光であったなら。わたしはそれを祈ることしかできない。いや、祈りももう届かないけれど、それを想像してあのひとの死を、自分の心を、慰める。
いつか、もう一度あの場所へ行こう。そう思った。あの岬から日の出を見たい。何も変わらないかもしれないけれど、あのひとの最期の足跡が朝日に照らされていたことを願って。だから今は、これはいらない。
わたしはデータフォルダから納沙布岬の写真を消去した。コンマ一秒で消え、トップには今年の春に撮った満開の桜の写真が表示された。直之と一緒に見に行った桜だった。あのひとがいなくなった世界の桜だった。
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