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王国最高位魔術師シュナギ・ユシュツカと、名門アニサカ家の後継者エリザベス・アニサカの婚約の解消が発表されたのは、卒業式を間近に控えたある日のことだった。
「どういう風の吹き回しだよ」
カイトは呆れた顔で、クッキーをつまむ友人を眺める。
3年ほど前の自分の結婚式の後から、カイトはリアに頼まれてたびたびナギに焼き菓子を届けていた。腐っても王族なので、不可侵領域への入場が許されているのだ。「元」婚約者のエリザベスも、同じようにたびたび届けていたらしい。
そのおかげもあるのか、ここ最近、明らかにナギの体調は回復したように見える。
エリザベスの卒業を待って結婚式を挙げるだろう、誰もがそう思っていた。
「婚約破棄を申し出たのは、エリザベスの方だ」
ナギは沈んだ声で答える。
「何か誤解があるのかもしれない。私は、置いてけぼりだよ」
*
ナギの書斎に入ることを許されているものはごく少数だ。書物に打ち込む彼の横顔を間近で見られるものは限られている。
ベスは、ナギの横顔を眺めながら両手を握りしめた。
「お兄様」
何だい、振り向きながら美しい瑠璃色の瞳が微笑む。読書を邪魔されて、彼が微笑む相手はもっと限られている。たぶん、自分は、愛されているのだろうと思う。
「その呼び方、やめなさいと言ったろう」
姉が亡くなり自分が婚約者となった後も、ベスはナギをそう呼ぶことをやめられなかった。
身代わりだと思ったことはない。ベスにとって、いつでも自分は自分だった。それでも。
「私、卒業試験で、優勝します」
ひどく真剣な面持ちの婚約者の言葉に、ナギはもう一度微笑む。
「良い心がけだ」
「もし、私が優勝したら、……私は、あなたをナギと呼びます」
ナギの美しい眉が怪訝な形をとる。
「もし、もし私が負けたら……その時は、あなたは一生、私のお兄様です」
「ベス?」
問い返される前に、ベスは最高魔術師の書斎から飛び出した。
*
隣にいて、いつもベスは感じていた。姉が死んだ戦いの後、あの人は、ゆるやかに死のうとしていたのだと思う。生き続けていたのは、秘伝の術を伝えきる義務ゆえだ。彼の呪いが進んでいく様を見るのは、身が裂かれるほどに辛かった。
魔術師が魔力を使おうとすれば、自分が自分であろうとすれば、世界が滅びる。そんな呪縛のもと、人の力をもらい受けながら生きていくのは、誇り高いあの人には難しい。ベスには、彼の絶望、彼の死に向かう心を止められなかった。
でも、ある時から彼は変わった。彼をそうさせたのが何か、じきにベスには分かった。
一度訪れた町の外れの彼の店で、彼は店員の女の子と黒い犬の前で、ベスが見たこともない表情をしていた。
彼にリアの作った焼き菓子を持って行ったとき、ためらいながらも彼の顔にははっきりとした喜色があった。彼が菓子を口にした瞬間、みるみる彼に生気と魔力が満ちていくのを、ベスは目の前で見ていた。
敵わない。その時、ベスには分かった。
それでも、もし、彼女に勝つことができたなら、私は堂々と、彼の妻になろう。子供のころから憧れだった、ただ一人愛した人の。それが、ベスの賭けだった。
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