甘心(かんしん)

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甘心(かんしん)

巧翔と言う青年の名を知った真輝は何も言わず、彼の身体を抱き寄せていた。 「真輝、さん?」 「俺の事、信じてくれたのかな。本当の名前教えてくれて、今、すげぇ嬉しい」 そして二人は目線を合わせる。 すぐに真輝はニコリと笑って見せた。 その笑顔を見た巧翔は、また動けなくなってしまった。 こんなにも自分の事を愛おしく想ってくれた人は今まで居ただろうか。 ただ、身体だけを求め合い、本能のまま貪り合うだけの行為。 初めて巧翔はその事に気付くと、これから自分はどうしたら良いのかわからなくなった。 だけど、今は目の前に居る真輝の優しさに触れていたいと思った。 巧翔は真輝の背に手を回し、強く抱き締めた。 その行動に、真輝は驚いた様子を見せたが、すぐに二人はハグし合い、互いの熱を感じるのだった。 それから巧翔は一人、真輝に用意して貰った風呂に入っている。 湯船に浸かりながら、風呂場の天井をじっと眺める。 (真輝さん。不思議な感じのする人だ) こうして知らない人の部屋で風呂に入る事自体、別に気にはしていないのだが、何故だか一人だと寂しいと思った。 本当は真輝と一緒に入りたい。なんでだ。 だが、そうしたい理由が分からないから、ただじっと身体の芯が温まるまで湯船に浸かっている。 すると、 「巧翔くん。バスタオル、置いておくから使ってね」 扉の向こうから真輝の声が聴こえた。 「あ、ありがとうございますッ!」 巧翔は自然と礼を口にしていた。 本当に気が利く人なのだなと思いながら。 風呂から上がり、バスタオルで身体を拭き、持って来た替えの服に着替える。 完全に部屋でくつろぐスウェットになった。 もう、外には出たくない。 髪が濡れたまま、真輝が居るであろうリビングへ向かう。 「お風呂、ありがとうございます」 巧翔がそう言うと、ソファでのんびりしていた真輝が驚いた表情をした。 「巧翔くん。お風呂上がりだと、より若く見えるね」 「いやいや。僕、もう25歳ですけど」 「若く見られるって事は良い事だよ」 「そう言えば、真輝さんって本当に28歳なんですか? プロフィールで見たんですけど」 「そうだよ。言ったでしょ? キミには嘘は吐かないって」 そう言って真輝はまた濡れたままの彼の髪を撫でた。 「あ、巧翔くんってさ、お酒呑める?」 「…ええ、少しくらいなら」 「お風呂上りはやっぱり、ビールでしょ。冷蔵庫、好きに開けて良いからね」 「は、はい」 「それじゃ、俺も風呂入って来るわー」 そう言いながら、真輝は鼻歌交じりで風呂場へと向かって行ってしまった。 他人の家のリビングで一人、ポツンとソファに腰掛けている巧翔。 その間も、彼の携帯には幾つかの通知が届く。 だが、画面を見ずに巧翔は携帯をカバンへと戻した。 今日だけは、彼らへの返答をする気持ちにはならなかった。 それから、真輝が風呂から上がり戻って来た。 「あれ。ビール飲んでなかったの?」 肩にタオルをかけたまま、部屋着になって戻って来た真輝。 先程までのスーツ姿と違って、彼のオフの姿を見て、ドキッとした。 前髪を下ろした真輝はカッコよさの中に可愛さを秘めており、とても蠱惑的に見えた。 「真輝さんと、一緒に、飲みたいなって」 膝の上で両手をグッと握り締めながら、巧翔はそう言った。 彼の言葉に、真輝は何かを噛み締める様に目を閉じて そっか とだけ呟いた。 「巧翔くん、キミは本当に優しい子なんだね」 「いえ。僕はそんな…」 巧翔はそれ以上何も言わなかった。 すると、彼の頬に冷たい何かが触れた。 「つめたッ!」 「ハハ、良いリアクション」 真輝がビール缶を悪戯っぽく彼の頬に当てていた。 「な、何するんですか!」 「キミを見ていると、ちょっかいを出したくなるんだよ。もしかして、気分害した?」 「…べ、別に」 ビール缶が目の前のテーブルに置かれ、隣には真輝が腰掛けた。 「それじゃ、乾杯しよっか」 「はい」 泡が弾けるような良い音が部屋に響く。 「お疲れ様。今日はキミと出逢えて本当に良かった、乾杯」 「僕も。真輝さんと会えて良かったと思ってます、乾杯」 ワイングラスのようなお洒落さはないけれど、二人の心は何物にも代えられない温かさで満ちていた。 それから互いに眠くなるまで、雑談を楽しんだ。 巧翔は多くは語らないが、これから何処に行ってみたいとか、何をしてみたいとか、前向きな話で切り抜けていた。 過去を詮索されないように。 真輝はその事を悟ったのかどうかはわからないが、一切彼の詳細について詰問する事はなかった。 「さてと。遅くなったし、そろそろ寝ようか」 ビール缶が幾つか重なったテーブルを横目に、真輝は立ち上がる。 「巧翔くんは寝室使って良いよ。俺はここで寝るからさ」 「えっ?」 「実はこのソファね。ベッドにもなるんだよ」 真輝はそう言って背もたれ部分に手をやると、あっと言う間にベッドへと変形した。 自慢そうに真輝が見せ付けて来るので、巧翔はただ戸惑うだけだった。 「俺の事は気にしなくて良いからさ。ゆっくり休んでね」 背中を押されて、巧翔は彼の寝室へと足を踏み入れた。 整理整頓された部屋に、フカフカのベッドがある。 何より、真輝の匂いに満ちていて、巧翔は言い知れぬ安心感を得た。 「それじゃあ、巧翔くん。おやすみ」 寝室の扉が閉まる。 (あっ…) それが何故か、真輝との別れになるような気がして、巧翔は無意識のうちに手を伸ばしていた。 「あ、あの」 少し震える声で、巧翔は真輝の手を掴んでいた。 「一緒に、寝てくれませんか」 今日は彼と離れたくないと本能的に思った。 だが、すぐに言葉の意味が破廉恥だと感じ、 「あ、これは、その…。シタいとか、そうじゃなくて」 巧翔は訂正しようとした。 だが、 「巧翔くんが嫌じゃなければ、良いよ」 真輝はあっさりと、彼の言葉に従う事にした。 そして二人は同じ真輝のベッドで横になる。 「まさか。自分のベッドでキミと一緒に寝れるなんて。なんか、緊張する」 「ごめんなさい。僕が変な事言って」 巧翔がそう言って横を見ると、そこには穏やかな表情でこちらを見る真輝が居る。 「全然。寧ろ、嬉しいよ。知らない巧翔くんが見れて」 真輝は本当に自分の事を大切に考えてくれている。 巧翔はその優しさに触れながら、真輝と共に眠りに落ちて行くのだった。 この時間がずっと続けば良いのに。 初めて抱いた感情だった。
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