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「お邪魔します」
普段よりも緊張気味に声を上げて、浩二の後に続いて紺色のブーツを抜いて羽月はいよいよ玄関を上がる。
「ずっとあのアパートで暮らしてるから、広々としたお宅にお邪魔するの、久々かも」
廊下を抜けて、リビングに入ると、広々とした部屋に通され羽月はパっと表情を明るくして嬉しさでいっぱいになった。
「あれくらいの部屋の方が掃除もしやすくて楽だけどな」
日頃苦労を思い知らされている浩二は、羽月の暮らすアパートの一室の光景を思い出しながら言った。
「窮屈なのはよくないって、心理学でもやってるでしょ? 妹さんとの生活、感謝しないと」
優等生らしく羽月は言葉を返す。自然な会話の流れから羽月にとって樋坂家のリビングが居心地の良い場所であるという印象を浩二にも共有させた。
「それもそうか、せっかくだからな、今日はゆっくりしてくれ」
「うん、そうさせてもらうわ。何だか学園祭が終わってちょっと気が抜けすぎかも」
「それくらいでいいんじゃないか。生徒会も後輩がこれからは引き継いでくれるんだから」
「それはまだ気が早いかな……、まだ私も二年生だから」
学園祭が終わったことで、生徒会では例年通り引継ぎが徐々に始まっている。
引継ぎを行うことで羽月の業務も減っていき、次第に自由な時間が増えて、こうして一緒にいられる時間も作れるようになってきている。
そういったことも、二人で過ごす時間を前向きにさせているのだった。
「ちょっと、幸せすぎて申し訳ないくらい。だって浩二といると、何もかも満たされるみたいで」
しみじみとした調子で、嬉しさがこみ上げてくる羽月は、案内されるままにソファーに腰を下ろしてそっと呟いた。
「そうか、それじゃあ共犯ということで。俺はたくさん羽月と一緒にいられる今のままがいいな」
「調子がいいわね。私もよ、浩二」
ソファーに座る羽月と浩二の視線が合わさって、恋人として見つめ合う時間が続いた。
そうして仲睦まじく二人の時間を過ごしていると、唐突に止まった時間が再び動き出すように足音が聞こえた。
きっと真奈だろう、浩二はそう思って廊下の方に目を向けた。
「おにぃ、帰って来てる!」
手すりを掴み、階段を降りて元気な真奈の姿が目の前にやってくる。
小学生になったばかりの真奈はまだ甘えん坊で年相応の愛くるしい姿をしている。
真奈は浩二の姿を見つけると明るく声を上げ、帰宅を喜んだ。
「おう、もうすぐお昼にするからな。料理の材料、買い物して帰って来たよ」
真奈の言葉に浩二はいつものように自然に答えた。
「きこうのきかんをしゅくして、おかえりなの!!」
真奈が言葉と一緒に人懐っこく浩二の傍によりぎゅっと両手で腕を掴む。
だが、次の瞬間には真奈の視線は浩二に寄り添うようにソファーに座る羽月の方に移動していた。
仲睦まじく見つめ合っていた二人を見ていた真奈は“どうして?”と、すぐさま思った。
真奈はまだ自分がよく知らない女の人を兄が連れ込んで二人きりでいるところを見るのは、思いつく限り初めてだった。
舞でもなく、この前学園祭の時に兄と一緒にいた人、そう思いながら次の瞬間には真奈の口は自然と開いて、思いつくままに次に発する言葉を止まらなかった。
「あの時、いっしょにいた女の人? どうしておにぃといっしょにいるの?」
浩二は真奈に恋人ができたこと、恋人が羽月であることをこの日まで伝えてこなかった。
無邪気に聞く真奈の言葉に心がざわつくような感覚がした浩二はちゃんと紹介しなければならないと思い、真奈の疑問に答えようと口を開いた。
「付き合うことにしたんだ。八重塚羽月さん、この前、学園祭の時に会っただろ?」
あまり驚かせないように、そして真奈にも知ってもらおうと平静なまま浩二は真奈にはっきりと答えた。
真奈は浩二の言葉の意味を瞬時に理解した。
それは頭で理解するというより、感覚的に二人が漂わせる愛情の大きさを感じてしまったからだった。
「―――どうして、この人なの……。おにぃ、どうして、お姉ちゃんじゃダメなの? ずっと、一緒に暮らしてきたのに」
真奈の視線が羽月の視線と重なって、羽月が口を開き話しかけようとするが真奈の方が一歩早かった。
言葉の内容から、隣に住む、幼馴染の唯花のことを言っているということは誰もがすぐさま分かった。
真奈にとって唯花は隣近所に住んでいる、いわば家族のような存在だった。
唯花が兄の浩二と一緒に仲睦まじい関係で自分を育ててくれた経験をしてきただけに、ショックは想像以上に大きかったのだ。
反射的に出た真奈の言葉は冷たいようであり、二人を責めているようでもあった。
思わぬ言葉に挨拶しようとした羽月は急に怖くなって押し黙り、この空気の中、何と言っていいのか分からない心境になった。
真奈に二人を困らせようという自覚はなかった。ただ真奈はずっと家族同然に暮らしてきたお姉ちゃんと呼ぶ唯花と、兄である浩二がずっとこの先もそばにいてくれることを信じて疑わなかったのだ。
「―――唯花は、隣近所でこれからもずっと面倒見てくれるよ。それは、何も変わらないって」
浩二は喉の渇きを覚えながら、羽月の事を認めてもらおうと説得した。
真奈のことを傷つけてしまい、心にヒビが入ったような感覚を覚えながらも、なんとかフォローしようと必死だった。
「そんなのちがうもん!!
おにぃがいちばん大切なのは、おねえちゃんだもん!!
おにぃのバカ!!
ぜんぜん、おねえちゃんのきもちも、マナのきもちもわかってないよ!!」
浩二の言葉に納得できない真奈は大きな声でそう言って、涙を見せながら引き留める間もなく自分の部屋に走り去っていった。
真奈がリビングからいなくなり、途端に心に穴が開いたように沈黙が流れる。
「浩二、いいの? 追わなくて」
動揺が広がる中、どうしていいか分からないまま羽月は浩二に言った。
なぜそこまで自分が拒絶されているのか、羽月は浩二と唯花の関係を見れば何となく理解できたが、それでもいきなりここまで否定されることになるとは、思ってもみなかった。
「後で、ちゃんと話しておくよ。今はそっとしておこう」
今の浩二にはそう言葉にするのが精一杯だった。
ちゃんと説明するしかない、それは分かっていても、納得してもらうのには時間が必要なのかもしれないと浩二は切実に思った。
「浩二がそれでいいなら」
気持ちが一気に沈みながら、羽月は言葉を振り絞った。
真奈はしばらく部屋から出て来ないかもしれないと浩二は思った。
「料理の準備でもして、待ってようぜ」
「うん」
「お腹空かしてきっと降りてくるさ、心配しなくても大丈夫だって」
「そうよね……」
浩二の空元気に羽月はなんとか自分を納得させて、他にやりようもなく、心が沈んだまま料理の準備に取り掛かった。
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