16人が本棚に入れています
本棚に追加
⑩アカウント名:?
「あんた、俺に扮して、ずっと呟いていただろう⁉︎」
その瞬間、私用スマホが森藤の掌から滑り落ちた。
カランカラン。机上で跳ねて、無機質な音が支局内に響く。
「てか何ですか、この〈ライティングマシーン〉ってアカウント名。俺が原稿を書かされまくっているからですか?」
尾崎が笑う。
「……」
「そもそも森藤さん、あなた、何でこんなにも多くのアカウントを持っているんですか?」
バクンと森藤の心臓がまた跳ねる。何も言葉は返せない。
・デスク上の空論@desk-kuuron
・新人記者ヌー子@KisyaGnuko
・森藤岳彦(日の出タイムス記者)@Takehiko_Moritou
・匿名記者ボ・ランチ@Tokumei_Volante
・子育てママ記者マホ@MaMakisyaMaho
・匿名記者ガメ蔵@gamezoukisya
・マスコミポリス@Masspolice110
・ライティングマシーン@Writing-Machine222
「今挙げた8つのアカウントって、全部、森藤さんですよね?」
驚愕に見開かれた目で押し黙る森藤の問いを見透かすように尾崎は言う。
「森藤さん……この8つのアカ作る時、1つの電話番号を使って作ったでしょう?ダメですよ、その場合はちゃんと非表示にする設定に変えないと。〈知り合いかもしれないツイッター利用者〉で、8つとも出てきちゃってましたよ」
そう言って尾崎は笑った。森藤はグッと息を呑む。
ーそうだ。俺は私用スマホの電話番号を使って8つのアカウント作った。
1つの番号当たり最大で10のアカウントまでしか持てない。だから〈新人記者よち子〉も合わせて、先日までは9つのアカウントを持っていた。あと1つのアカウントをどうしようか考えていた矢先、よち子が炎上し「昇天」した。
「でも、この匿名記者アカウントって、一体誰のことですか?何かどれも支局内の人たちとは違いますよね?」
尾崎は口角をさらに上げる。
「〈デスク上の空論〉こと綿貫デスクは、ただただ怒りたいだけで、部下を育てようなんて気持ちは微塵もないです。〈新人記者ヌー子〉こと尋木は、押し出しが弱い記者で、いつも遺族感情がどうとか言い訳ばっかして逃げているだけです」
ーやめてくれ。
「〈匿名記者ボ・ランチ〉こと森藤さんは、そもそもこんな陽キャじゃないです。〈子育てママ記者マホ〉こと戸丸総キャップは、仕事そっちのけで権利ばかり主張するオバさんです。だから、わざわざ総キャップなんて全く必要ない職を設けて、置いてあげているんでしょ?」
ーもうやめてくれ。
「〈匿名記者ガメ蔵〉は一番笑いました。江藤キャップって、こんな部下思いの正義感に溢れる人でしたっけ?いまだに昭和の新聞社で生きているみたいな暑苦しいだけのクソ上司ですよ。さっき森藤さんが投稿していたみたいに『この人が上司で本当に良かった』なんて、僕は一度も思ったことないです。そして、〈マスコミポリス〉こと古郡支局長は、ただの宴会好きのハラスメントおじさんです。マスコミを斬るなんて、とんでもない。むしろ、斬られる側ですって」
尾崎はケラケラと笑う。
「一体、こいつら誰ですか?こんな匿名記者アカウントの奴ら、この宇都宮支局にはどこにもいないですよね?」
「やめろって‼︎」
思わず叫んでいた。
「俺の居場所を奪うなよ……」
唇の隙間からかろうじて出てきた言葉は床に落ちて、パリンと弱々しい音を立てて割れた。
その瞬間、宇都宮支局で過ごしてきたこの四年間の出来事へと森藤の思考は浮遊していった。
サンドバッグよろしく。何かにつけて、吠える支局長やデスク、キャップ。常軌を逸した出稿量と休みもなく働かなければならぬ労働環境。森藤は配属から1年持たずにノックアウト。精神を病んだ。県警、行政、司法のどこにも属さず、遊軍としての日々が始まったのだ。
「普段、大した原稿も書いていないんだから」
そんな皮肉を今にも吐いてきそうな表情をした上司たちは、新人教育、飲み会の幹事、取材で困った時の応援を森藤に押し付けてきた。使い勝手の良い駒。後から支局に来た後輩たちは、どんどん異動していく。栄転していく。自分だけが、ここに取り残される感覚。
ー俺は一体、何でここにいる?
ー何なんだ、この生き地獄は?
そんな時だ。匿名記者アカウントの存在を知ったのは……。
誰かとして、SNSの中で生きる。ツイッターはこれまで満たしてくれなかった充足感を森藤に運んできてくれた。いわば暗闇のトンネルで見えたそれは一筋の光だった。
最初は支局の誰かになりきっていたが、次第に脚色され、誇張され、自分がなりたかった理想の像をアカウントに反映していった。いつしか、支局の誰でもない別人へとアカウントは変質していった。
いいね、リツイート、返信。炎上ですら、誰かが自分という存在を認めてくれていると感じるようになった。その度に満たされた。だから、罪悪感はなかった。
––この空虚感を埋めてくれるのは、匿名記者アカウントしかない。
いつしか現実の世界に戻れなくなった。もはや、森藤はツイッターの中でしか生きられなくなっていた。
「まぁ森藤さん、俺も匿名記者アカ持っていますよ」
不意に声がして、過去の浮遊から戻る。
「それに安心してください。このことは誰にも言わないし、そもそもこんなこと誰にも言えないです」
狡猾な笑みを浮かべた尾崎が席から腰を上げるところだった。
「じゃあ俺、明日も早いんで帰りますね。良い休日を」
ピキ。その瞬間、必死に築き上げてきたツイッターの世界に少しヒビが入ったような感覚があった。
ジジジ。蛍光灯は最後の力を振り絞るかのように、何とか森藤を照らし続けていた。机上の電波時計がピピピと鳴って、午前1時を告げる。
どれくらい、薄暗い空間でボーッとしていたのだろうか?森藤にはそれがとてつもなく長い時間に感じられた。机上の私用スマホを掴んで、その感触を確かめるようにグッと握りしめる。親指でタップして、画面ロックを解除し、ツイッターのアプリを起動した。
ーやはり俺の居場所はここだ。
水色の画面に網膜が包まれた瞬間、顔が綻ぶ。安心感が胸に急速に浸透する。
・デスク上の空論@desk-kuuron
・新人記者ヌー子@KisyaGnuko
・森藤岳彦(日の出タイムス記者)@Takehiko_Moritou
・匿名記者ボ・ランチ@Tokumei_Volante
・子育てママ記者マホ@MaMakisyaMaho
・匿名記者ガメ蔵@gamezoukisya
・マスコミポリス@Masspolice110
・ライティングマシーン@Writing-Machine222
ー何か呟きたい。そうしないと壊れてしまいそうだ。
疲れているのに、頭は冴えきっていた。
ーだが、今、どのアカウントでこの満たされない思いを補えるのか?この中の誰が適任なんだ?
なかなか考えがまとまらない。その時だった。一筋の光が頭を貫く。
ーアカウントをあと2つ作れるじゃないか。新たに理想のアカウントを作れば良いんだ。
心が躍り始めた。
森藤は誰もいなくなった暗がりの支局の席をぐるりと見渡す。目の前の空席で止まる。鳥山楓。1週間前、昇天した〈新人記者よち子〉のモデルである。
ー彼女を違うアカウント名で復活させるのはどうか?名案だ。
『大丈夫。またすぐに生まれ変われるから』
1週間前。よち子を消す前に言ったあの言葉が不意に脳内で反芻される。あの時と同じように、森藤は笑みを浮かべていた。
「大丈夫。またすぐに生まれ変われるから」
森藤は堪能するように、その言葉を実際に口に出してみる。
「さて、アカウント名はどうしようか?」
支局の何でもない薄暗い虚空を見つめながら思案する。ドクンドクン。高鳴る気持ちを抑えるように、森藤は唇を舌なめずりして、歪な笑みを浮かべた。
最初のコメントを投稿しよう!