二文字の忘れ物

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「轟君! ……わ、忘れ物」  開け放した校舎の窓から、うっそうとした緑の銀杏が遠い潮騒のように音を立て波打っていた。気紛れな風に僕の声もさらわれてしまわないように、なけなしの勇気を今度こそ絞り出す。 「……くも」  震える声のたった二文字。  それだけでもうぐるりと、見たかったはずの少年の顔に背を向け、廊下から逃げるように、保健室へと身を引っ込めて扉を閉めた。 「せんせ……」  感情が吹き出すような呟きを覆うように、予鈴が響き渡り続きを塗り潰す。  お前、顔が赤いな今の何だ?不思議そうな轟君の友達の声が背中に聞こえて、正しく伝わったことを知る僕の顔もきっと同じ色に染まっているだろう。 「また後で絶対来るから!」  扉越しの快活な宣誓に心臓を大きく打たれ、ひぇ…と情けない息が漏れた。バタバタと、遠ざかる足音が名残惜しくも今は有難い。  頭を冷やさねばと収まらない動悸を抱えたまま、膨らむカーテンに近づき熱の籠った顔を風に晒す。白衣の裾がふわりとかすかに持ち上がり、僕の心もやっと軽やかになった気がする。  見上げれば濃く澄んだ青に、大きな綿飴のように夏の顔をした雲が浮かんでいた。飾り気が無く眩しい、あの子の笑顔みたいに。  火照った顔を風に晒す少し前、僕は保健室で姫りんごとバナナのマフィンを噛りながら、大きな大きな溜息をついていた。バナナを練り込んだ優しい甘さの生地に、中心に近づくほど丸ごと包まれた姫りんごの甘酸っぱさが染みだして絶妙に美味しい。いつも簡素な保健室が、温かいバターの香りで幸せに満たされていた。 「先生が嫉妬してくれるなんて、嬉しいやん」  ニコニコと頬杖をつく笑顔の前で、こんな美味しいものを頂きながら身勝手に顔を歪ませる自分に呆れてしまう。 「……君たちを見守る立場としてとても喜ばしいはずなのに嫉妬なんて、情けない限りです」  また深く溜息を重ねると、轟君は目を細めて口をぐっと結んだ。養護教諭の僕より大きな体に派手な赤髪とピアスをたくさん付けた二年生の轟君は、いつも人懐こい笑顔を太陽のように向けてくる。 「先生、嫉妬じゃないですって言うかと思ったのに、認めてくれるんや」  今日は嫉妬記念日やなぁと噛み締めるように呟きじっと見詰めてくるから、焼きたてのマフィンが一瞬喉に詰まりそうになり軽く咳き込む。 「せんせ、大丈夫?」 「大丈夫です……なんというか」  その先をつい口ごもる。なんというか、今更だ。  窓の外の新緑の銀杏がまた黄金色に輝く頃には、轟君に告白されてから一年にもなる。  あの日、生徒とは付き合えないとは思いつつ傷つけることから逃げて、ずるずる返事を延ばした挙げ句断るためにデートをし、大人としてきっぱり返事をするはずがあまりにも引き延ばした間に、僕も轟君に惹かれ始めてしまったことを白状してしまったことがもう随分と懐かしい。  あれから卒業するまでは付き合うことも出来ないまま、こうして昼休みの度に保健室まで会いに来る轟君と……他に生徒がいない時に限り……穏やかに話すことが幸せな日常になっている。君が好きですとはっきり言うことも無ければ、今更好意を取り繕って隠すことも無い。  曖昧な今。  伝えたところで養護教諭の僕は、生徒相手に何も出来ない。そんな終着点の無い好きを渡しても渡された轟君はどうしろと言うのかと考えたら、卒業まではただ一緒に過ごす時間を愛しく大事にしながら口を閉ざしているしかない。  というのが理由の半分。  もう半分は単純に……そんなことスッと言えるほど僕がスマートで社交的だったら、会話する度に赤面したり言葉に詰まったりしていない。  毎日顔を突き合わせたら慣れてくる……どころか前より距離が近づき日増しに屈託の無い笑顔が輝いて見えてしまい、ますます鼓動が早くなる。僕も惹かれだしたのだと伝わった日から轟君は毎日去り際のあいさつ代わりに手を握りしめるようになり、握り返すのにも汗をかく。 今も小さな丸椅子に向き合い座り、上靴とスリッパの先が触れているだけでそこだけ熱を持って、勝手にピントが合わさるような不思議な心地だ。  お互いに好きなんだと自覚するだけで、一緒に過ごす空気の密度も温度も違う気がして、心地良いのにソワソワと落ち着かない。視線を泳がせ適切な言葉を探す僕に、轟君は今日も優しかった。 「先生、顔は涼しげな美人やけどほんま可愛らしいなぁ。マフィン美味しい?」  僕が困っているのを察して話を逸らしてくれる。 「……轟君の方がお顔立ちは良いと思いますが……有難うございます。とても美味しいです。小さなりんごが甘酸っぱくて」 「嬉しいなぁ有難う。そしたらイケメンと美人でお似合いやな」  こういうことを当たり前みたいにニコニコと返せる社交性には心底尊敬する。 「姫りんごそのままだと固くて酸っぱいからコンポートにしてんねん。ええ塩梅の甘酸っぱさやろ。先生に食べて欲しくて調理実習でアレンジして作ったから美味しく食べてや」  先生に、の声に胸がぎゅっとくる。  今、一番欲しかった言葉に嬉しさと僕はなんて浅ましいんだとチクリと刺す罪悪感が同時に絡みながらまた格別美味しさが染みるマフィンを口にした。想いを込めて作ってくれたお菓子は、心を分けてくれた味がする。僕も、自分の分のついでにと轟君の分のおやつも焼くくらいなら、許されるだろうか。 「今週は保健室来ても、ずっと五羽と話しとったもんなぁ。今度からそういう日は放課後も寄るわ」 「いえ、それは!」  五羽君は保健室登校をしている二年生だ。気遣いのうまいいわゆる「いいやつ」な轟君は、そうした訳ありの生徒が来るタイミングとはずらして保健室へ訪れるが、中にはそんな「いいやつ」の轟君が居る時に合わせて来るようになった生徒もいる。先程まで轟君と楽しそうに論理パズルに挑み、明日続きをしようと口を綻ばせて帰宅した五羽君もその一人だ。  良いことだ、とても良いことだ。  流石轟君だと思いながら五羽くんが帰る頃に、お邪魔しましたと体温の高い手でギュッと握り、ひらひらと手の平を振り去る背中を見送る日々が増えていくに連れて、段々僕の胸の奥はおかしくなってきた。  先週は毎日。 「先生、お菓子焼いたから食べて」  不意を突かれて二時間目の後にやって来た、甘く香ばしい香り。溜まり続けたチリチリとした痛みが顔に出ていたらしいのが恥ずかしい。寂しいと思う僕が厚かましくておかしいのに。僕からは、何もあげていない癖に。 「先生迷惑かけたないって思ったやろ?」  轟君はニコニコしていた笑顔の口元を少しニヤッとつり上げた。 「俺が、会いに来たいねん。先生が一番大好きやから」  甘い果実を含んだマフィンと、同じくらい甘い響きに後ろ暗い針が溶けていくのに、じっと見られたら何て返したらわからない。 「あ……はは……その……」  ただふわふわと顔を染めて笑ってしまう。惜しげもなく注いでくれるたくさんの大好きが一つ一つ宝石のように眩しく胸に積もる。 「あー……寂しがってくれるなら、遠慮せんともっと来れば良かった」 「そ、それは有難うござ……います……」  せめて素直な気持ちを出来るだけ伝えねばと、機転の効いた言葉なんか思いつかないけれど真摯にお礼の言葉を口にした。 「なんや先生可愛いなぁ」  大きな手でわしわしと撫でられ、廊下に人の気配が無いか思わずドアに目をむける。 「あ、あのこういうことは……」 「そろそろ予鈴が鳴るから教室に戻るわ。また昼休みと放課後!」  大好きやで、とひらひらといつものように振る手の平を見て、言葉だけでは何もあげられないなんて、嘘だと深く思い直した。君がくれた好きの一つで今こんなに胸が温かい。 「轟君、待って」  扉へ向かおうとする白いシャツの袖を掴み、振り向く視線に緊張して唾を飲む。大丈夫口を閉ざすな、毎日のように会っているじゃないか。空いた片手で白衣の袖を握りしめて、僕の好きな子を見上げる。 「先生、どうしたん?」 「えっと…そのですね…轟君が言ってくれた一番好きって……嬉しくて……」  首に汗が滴り、恥ずかしさで声がどんどん小さくなる。轟君の袖と自分の袖を所在無く掴んでいた両手を、大きな手の平が上から優しく覆った。 「汗で……ベトベトになりますよ」  構わないと心の底から嬉しそうに笑ってくれて、ああ好きだなぁと改めて胸がぐっと詰まる。遠く感じれば寂しさが突き刺さり、心が通えば愛しさが膨れ上がる。僕もこんなに好きなんだと、この子に伝えたらどんな顔をするのだろう。  君も僕の多分……一番なんだと。 「その……一番……好……きって……ぼ…」 「ぼ?」 「その、ぼ……ぼ……」  ぼくも、の三文字が羞恥に負けて出てこない。  ガラリ。  保健室の扉が開く音に慌てて飛び下がり、膝の裏が椅子に当たった。ガシャン、の音に目を丸くしているのは轟君のクラスの子だ。 「せんせ、大丈夫!?」 「失礼します。先生大丈夫ですか?……良かった。轟、もうすぐ予鈴が鳴るから教室に戻るぞ。え?いや駄目だろお前も日直だろ。行くぞ」  友達に引っ張られるように、先生また!とこのままでは嵐のように去ってしまう。  行ってしまって……いいのか?   今言わないとこれは伝わらない気がする。何より、後で改めてこんなこと言える気がしない。熱い手で握られたぬくもりが、一緒に前へ進む勇気をくれている間に。  保健室をもう出てしまった背中を足早に追いかける。 「轟君!」  廊下の窓は開け放たれて、豊かな緑のざわめきがさざ波のようだった。波打つ木葉の潮騒に、僕の決意もさらわれてしまわないように。 「……わ、忘れ物」  なけなしの勇気を振り絞って。  何もあげられない僕が唯一あげられる、心一つを口にした。
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