1 出会い

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1 出会い

 輝安三十八年大寒の頃。  その日、(きょう)琅玕(ろうかん)は、早朝寒空の下で脂汗を流していた。 「…お(やしき)(つと)めの奉公人おひとりのために、閣下おんみずからのお出ましとは恐縮でございまする」  琅玕のかたわらでは、中年の小役人が変に(かしこま)っている。  下町の貧民窟(ひんみんくつ)の一角で、火事騒ぎが報じられたのは昨夜遅くのことである。夜明けまでに安宿が一軒燃え尽き、さいわい近隣の類焼はなく、焼け跡からは焼死体が3体。うち一人が燃え残りの衣服から、琅玕の平素暮らす邸につとめる若い従僕(じゅうぼく)(おう)()(れい)であるらしい事が判明した。  呼ばれてやって来た火災の現場が目の前に広がる。いまだにぶすぶすと音をたてて(くすぶ)る焼け落ちた(はり)や柱、あたりに(ただよ)う焦げ臭い匂いと白煙。時おり、きつい木枯らしが吹き抜けるが、風が止めばまたすぐ臭いと煙が立ち込め、状況はなにも変わらない。  が、そんなことは今の琅玕には、どうでも良いことだった。 「今回の件ですが、私のほかにもうひとり、専任の担当者をつけます」  閣下には及びもつきませぬが、私もこれでそれなりに忙しい体でございまして、などとどうでもいいことを言いつつ、小役人は連れてきた部下をひとり引っ張り出して挨拶をさせた。 「…()(すい)と申します、どうぞよしなに」  周囲は皆、口には出さぬが、三十路の後半という若さでこの国の兵部(ひょうぶ)(きょう)(軍務大臣)をつとめる高官が、なにやら妙に挙動不審である原因が、この新米役人であることに気づいている。 (無理もあるまい)  紫翠なる役人は拱手(きょうしゅ)一礼、顔をあげた。  その顔は左側が半分以上、火傷の(あと)にも似て、ひどく溶け(ただ)れている。  が。  琅玕と、この紫翠なる若い役人のふたりは、その後、すぐに火災現場から(そろ)って姿を消した。     『共兵部卿、(たましい)(つがい)ヲ得タリ』  列伝(政府当局が公式に編纂発表する高官の伝記)には、そのように記されている。  ―――あのとき閣下の御様子がおかしかったのは、あの面相に驚いておられただけではなかったのか。  ―――魂の番など絵空事ではなかったのか。現実に存在するなど信じられぬ。  琅玕と、紫翠のふたりが俗に言う『魂の番』として出会ったというのは、噂が広がっていく過程で自然発生的に湧いてきた、真偽不明の言説である。誰が、どんな思惑あって最初に言い出した事であるのか、詳細など判明りようもないが、自分たちが言い出したわけでもない当のふたりは、あとからその噂を聞いて驚き、また同時に妙に納得もした模様。 「しかし、その魂の番なる事例、あくまで俗説であるゆえ、医学的になにがどうと解明されたものでもなければ統計もなされておらず、よって俺のような立場の者がいま現在、論ずること能わず」  琅玕の前職は、医者であった。したがって科学的根拠の薄弱な物事に対して、憶測でものを言わぬ習慣が身に沁みている。  そんなものか、と紫翠はまあまあ素直に納得したが、しかし、そのように簡単には納得せぬのが、世間というものであった。  ―――だとしてもあんな面相の者に御手を着けるとは、失礼ながら随分と(もの)()()な。  ―――いやいや魂の番というのはただ普通に発情香(フェロモン)にあてられるのとはわけが違う、己で相手を選べるものではなく、出会ってしまえば否応なしに結ばれるしかないものだ聞くぞ。  云々。  なにしろ、若くして異例の出世を()げた高官のことである。大声で(だん)ずる者はいないが、しかし、それにしても昨今これほど世間の好奇心をくすぐる話題も珍しい。噂は官憲を(はばか)りつつも速やかに流れていった様子だった。  琅玕が、前記の通りなにかと人々の耳目を集めやすい立場であったことも無論だが、その彼に「見染められた」紫翠なるオメガ男性の容姿や身分も、相当に話題の種となった。  当然と言えば当然のことで、紫翠の顔面はそれほど(ひど)い。 『ソノ容色、瘢痕(はんこん)有リテ()ニ醜シ』  わずかに残ったもとの顔をよく見れば、本来は相当の美貌であったであろうことは誰にでも容易に想像がつく。おかげでよけい傷痕の酷さが目立つ。 「あの容貌では、オメガだてらに役人づとめをしようなどと思うのも解らんではない」 「嫁入り先などあるわけもなし、体を売る商売すらつとまるまいよ、客がつかぬ」  紫翠の容姿を直接見た者のなかには、そんな失礼な感想をこぼす者が(当人の目の前で言うわけではないにしろ)結構いた。  紫翠は、さる士大夫(したいふ)層の家柄の生まれだが、 「オメガが職に就けぬのはあくまで慣習。明文化された法にあらず」  などと称し(事実その通りではあるが)、勝手に科挙を受験しトップクラスの成績をおさめて及第した挙げ句、湯水のように袖の下をばら撒いて周囲の黙認をとりつけ、まんまと任官してしまった―――という、なんとも無茶な経歴を持つ。  この時代、オメガに就ける職業などはないに等しかった。嫁に行くなり妾奉公に出るなり、その後はひたすら子を産み育て、家の中で生涯を終えるのが常識で、それが嫌なら尼寺に放り込まれることになる。特殊な例外は別として、世間の表舞台に出る例はまずありえない。  ―――彼こそ、その特殊な例外というやつだろう。  貴族、富豪、士大夫層のようないわゆる良家出身のオメガなら、通常はいずれ自動的に同程度の家柄に嫁ぎ、生涯優雅に暮らすのが当然とされるが、  ―――なるほど、あれではとても嫁や妾の口はあるまい。  紫翠本人が出て来てその姿を晒せば、大概の者は黙る。  職務の上では、まだ任官して数ヶ月にしかならないが、なかなかの有能ぶりを発揮していたらしい。日頃は発情香(フェロモン)をおさえる抑制剤を大量に服用し、つねづねそれを公言していた。そうでなければ、たとえ容貌がああでも、周りの者がおそれをなしてオメガなどとともに立ち働くことを了承するまい。  実際、これまで彼に手を出そうという猛者(?)があらわれたことはなかったのだが、いったい何をか間違って、若き兵部卿閣下のお目にとまり、そのうえ疾風(はやて)のごとき素早さでお手がついてしまった。  ちなみに問題の火災現場でも、当然、紫翠は抑制剤を服用しており、周囲に発情香を撒き散らすような状態ではなかった筈である模様。  実際に、琅玕以外にも少数ながら現場にアルファの者がいたが、彼らは紫翠に対してなにも感じず、せいぜいごく薄っすらと漂ってくる体香でオメガと気づいた者がいた程度。が、どういうわけか琅玕ひとり、発情期真っ最中のオメガを目の前にしたかの如き反応を示した。それが、彼らふたりが『魂の番』であるという噂の根拠に、一応世間ではなっているらしい。  ―――いやはや、だとしてもあのような容姿の者にお手をつけるとは、さすが我々凡愚とは一味違うお方、若くして栄達なさるのも(むべ)なるかな。  などと、賛辞とも皮肉ともつかぬ見当違いな言説まで流れた。
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