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11 公邸にて
翌日。
紫翠は、昼間は非番であった。琅玕が奉公人たちにそう申し付けていたようで、起こされもせずけっこう寝坊をした。一方で琅玕はひとりさっさと早朝に登庁した模様。紫翠が目をさましたころには姿が見えなかった。
侍女たちに世話を焼かれながら朝食を喰っていると、
―――裏口で、お客様がお待ちでございます。
と、従僕が紫翠を呼びにきた。
言われるまま、裏へと向かうと、
「よう、お姫さん」
「苑環どのではありませんか」
薄汚いやさぐれ男が、ふところ手でにやけながら立っていた。
「先生にな、こいつを渡してくれねえか」
取り出したのは、結び文である。
「本当は先生に直接話したかったんだが、ちっとばかり長え話なもんでなあ。できれば急ぎたかったし」
それで手紙にした、という。あんな界隈にとぐろを巻いている割に読み書きは達者らしい。文の結び目には笑止にも封蝋まで垂らしてある。
「承知しました…が、その、お姫さんって何なんです」
オメガとは言え男のはしくれ、それもこんな面相で、しかも仮にも役人の地位にあるものをつかまえて、お姫さま呼ばわりもないものだ。
「おっと気に触ったんなら勘弁してくれ。別に大した意味はねえよ。ただあんた、その傷痕がなかったら相当綺麗だったろうと思ってな」
「はあ、それはどうもありがとうございます」
いまさらだが、真面目なのかふざけているのか、よくわからぬ破落戸である。
「それとちょっと気ぃ付けて欲しいんだがな。この文、間違いなく直接先生に手渡してくれよ。ほかの誰かなんかにことづけたりは絶対するな。たとえあんたが普段どれほど信頼してる奴でも駄目だ」
「はあ、それは結構ですが、でしたらあなた自身が華の公邸まで出向いて、直接閣下に手渡しては?」
情報の漏洩を心配するなら直接手渡しが一番確実には違いあるまい。まあ、どう見ても善良な小市民ならざる外見の苑環であるから、ひとりで公邸へ出向いても入れてはくれまいが、役人の自分と一緒なら話は別である。何なら同行する、と紫翠。
それを聞いて、苑環は、わざとらしくも大袈裟なしぐさで目元に拳を当て、
「何と、優しいなあお姫さん、俺みてえなのをわざわざ公邸に入れてくれようなんて感激で胸が潰れるぜ」
「嘘泣きは止めて下さい、気色悪い」
「いやいやいや、本当の涙だぜこれは」
まあ有り難えお申し出だが遠慮しとこう、あんたに渡しときゃあ心配なかろうよ、と苑環。
「承りました、確かに」
ともかくも、言われた通り文を受け取った。
「ほんじゃ、俺ァとっとと退散するが、いいかい、絶対に手渡しで頼むぜ」
繰り返して念を押しつつも、苑環はさっさと姿を消した。
昼過ぎから、登庁した。
今日はこれから夕刻まで普通に働き、仮眠を取った後、深夜から明け方まで宿直をする、予定になっている。
華氏の公邸には華国の国家運営機能がほぼ全て集約されている。琅玕がトップをつとめる兵部の庁、紫翠が下っ端新人役人としてつとめる刑部の庁、その他諸々。
通ってくる役人要人どもの数も多いが、公邸それ自体も相当にだだっ広い。部署が違えば足を踏み入れたことのない場所などいくらでもある。奥(華氏の一族の暮らす生活空間)と、表(役人どもの行き来する各省庁部分)は、「ひとつ屋根の下(と言うには広すぎるが)」とはいえ厳密に区別されているが、表だけでもさながら、迷宮の趣があった。
いつもより少し早めに登庁し、刑部へ行くより先に兵部へと赴く。「兵部卿閣下」へと面会を申し込むためである。どこかへ出掛けているか、でなければ多忙を理由に断られるか、あるいは随分待たされるかと思ったが、存外すんなりと通される。
琅玕の周囲には、幸い余人のおらぬ状態だったため、事情を説明して結び文を手渡した。
受け取るとき、琅玕は、なにやらごくわずかに意味ありげな表情をして見せたが、口に出してはなにも言わなかった。
その後はしごく真っ当に、おのれの所属する刑部へ向かう。
「ああ紫翠か、ご苦労」
閣下のご機嫌はいかがか、よくお仕えしているか、と相変わらず、上官は紫翠を通じて琅玕にごまをすることしか考えていない様子。そのうち、まだ子はできぬか、そのときは遠慮なく申せ、何も心配は要らぬ、などと親兄弟でもあるまいに、変に先走った事を言い出したので辟易した。
おまけに、
「亥の刻(午後九時頃)になったら西の対の某室へ向かうが良い。手筈は全て整えてある」
「…お待ちください、それは、あまりに」
(閣下の、あの変に意味ありげなお顔の理由はこれか)
要するにこの上官、あきれたもので、どちらも職務の最中だというのに勝手に紫翠と琅玕の逢瀬の段取りをつけてきたのだった。
「閣下とお前は暫時とても離れていたくはないのであろう。構わぬではないか、さいわい今はそう忙しい時期ではない。夜勤のひとりふたり欠けたところで困りはせぬ」
「あちらもお暇とは限りますまいが」
「そんなことはない、大層およろこびいただいた」
(閣下が天邪鬼を起こして、皮肉で褒めてみせただけではないか)
うっすらそう思ったが、たとえ本当にそうでも上官は全く気づいておらず、芯から褒められたとしか思っておらぬ。馬鹿馬鹿しいが、いちいち逆らうのも面倒臭い。黙って従うことにした。
が、この日の夜、琅玕は姿を現さなかった。
逢瀬の場に用意された西の対は、表のなかでも高官が省庁に泊まり込む際に使われる、そこそこ小綺麗な宿舎のなかの一室だった。
どう差配したものか、この夜紫翠が行かされた部屋の周囲は、ほかに誰も泊まっておらぬらしい。怠け者揃いと揶揄される役人のなかにも、仕事熱心な者が多少居るには居るので、だれひとりも残らないなどという日はないはずなのだが、今宵は一体どこに追いやられたやら。
が、約束の刻限にあらわれたのは、琅玕でなく小者がひとり。
「兵部卿閣下に於かれましては、今宵ご多忙にて御成遊ばすこと能わず、…」
帝王、あるいは身分ある男が、後宮もしくはそれに準ずる女(?)のもとを訪れると約したのち、それを違えるというのは、この国の古典伝統的な儀礼に照らせばかなりの非礼にあたるらしい。やむを得ぬ場合にはこのようにすべし、という礼法にのっとり、差し向けられた小者は琅玕に代わり、格式ばった口調でくどくどと詫びの言葉を述べ、蒔絵の盆を差し出す。その上には笑止にも、上等の料紙に書かれて香まで焚きしめた文と、色あざやかな綾錦に包まれた小筐。中身はさぞかし値の張る宝玉か貴金属か。
奥にあらず表ではあるが、国主の一族が公邸のなかで、公式に認められた側妾と逢瀬を楽しむとなると、いやでもこういう古典的儀礼を守らねばならぬ。琅玕が紫翠の身柄を公邸ではなく共家の別邸に置いた理由の一端が窺い知れる。今宵のことが自ら望んだことなら仕方もなかろうが、なにしろ例の上官のおせっかいが発端であるから馬鹿馬鹿しい。
紫翠が盆ごと文と贈物を受けとってしまうと、小者はさっさと退散。面倒なので、紫翠は贈物の封すら開けず、そのへんに置いたまま、すぐに自分の布団へ潜りこんだ。
(もし私が実際に閣下に贅沢品のたぐいをねだってみせたら、閣下はどんな顔をなさるやら)
琅玕のことだから、普通の(?)権力者の囲われ者が望むようなものを、紫翠が欲しがるとは思っておるまい。笑うか呆れるか、それとも面白がって、それこそ紫翠の名の如く紫から翠に色を変える変彩金緑石でも、数年かけて象牙を何層にも彫った多層球でも何でも、無造作に買い与えて遊ぶやもしれぬ。
…先刻まで紫翠は、下っ端役人用の控室で仮眠をしていたから、いまさら眠くなるようなことはない、と思っていたが、ここしばらくのドタバタで、やはり思っていた以上に草臥れていたのだろう。くだらない妄想に耽っているうちに、いつしか、眠りに落ちていた。
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