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12 玄牝観
ひと晩しごく普通に寝み、翌朝、これまたしごく普通に紫翠が琅玕の別邸に帰宅すると、
「ああ紫翠、帰ったか」
琅玕が先に帰宅していた。変に眼をぎらつかせている。多忙というのは本当のようで、目の下に青黒い隈をつくり、どうも昨夜は寝ていないらしい。徹夜ハイか何かにでもなったような顔つきで、どうも、琅玕は琅玕で朝帰りをした様子。
おまけに、なにやら風呂敷につつんだ大荷物をかかえ、
「お前を待っていたのだ。外出をする、早く支度をしろ」
「このような早朝にでございますか。閣下とてお戻りになられたばかりでは」
「その通りだが、時間が惜しい」
引っ立てられるようにして再度別邸を出た。
連れて行かれた先は、道観である。
『玄牝観』
色とりどりに飾られた、きらびやかな山門に掲げられた真紅の扁額には、金墨でそう書かれていた。
「ここは元々、非常に格の高い道観でな」
昔は坤道門跡だったという。この場合、出家して坤道となった皇族女性が観長をつとめる道観のことで、当然、岐の皇族のことをさす。
「昔はともかく、なにしろ今は岐とは手切れになってしまっているからな。先代の観長は数代前の岐皇帝の末妹だったそうだが、気の毒に、死ぬまで北師に帰れず家族とも再会できずじまいだったそうだ」
その門跡観長は数年前に遷化したが、代替わりにあたって、さすがにまた岐の皇族をつれてくるわけにはいかなかったため、いまは先代観長の片腕をつとめていた古株坤道が観長の地位についている、らしい。
「仏教寺院で言うところの尼寺で、乾道(男性修行者)はおらぬが、男の信者や参詣者を排しているわけではない。いいから行くぞ」
「行くのは良いですが、一体なんのご用です」
「王仁礼の母、王葎華が、ここで坤道をしている」
なかば、駆け上がるような有無を言わさぬ勢いで、石段を登った。
「こんな朝から、一体なにごとですか」
観の朝課を終えたばかりという王葎華は、あまり機嫌の良くない様子だったが、それでもふたりを追い返しはしなかった。とはいえ当然、よろこんで逢いたいという顔色ではない。
観内が、なにやら妙にばたばたとしている。聞けば、今夜はこの観で月に一度、定期的に開かれる宴席のある日だとやら。
富裕層の邸宅や、この種の有力寺院などでは、特に目的を設けず、親睦を深めるための宴が頻繁に催される。遠方からの客もあり、前日あるいは数日前から来るものもあり、なかにはこの観に泊まるものもあり、要は有力檀信徒の接待であるからしっかりもてなさねばならず、日頃と同じお勤めのあいまはその宴の準備で走り回らねばならぬそうな。
琅玕は、頓着しない。
横柄、かつ勝手に人払いを告げて、お付きの若坤道たちをしりぞけると、客用椅子にどっかと尻を落ち着けふんぞりかえる。
そして、
「実は先日、我が家に妙な泥棒が入りましてな」
これまた勝手に語りはじめた。
「その泥棒は、邸の周囲を巡回する兵士だけでなく、邸内のたれにも見咎められず侵入し、私ひとりしか鍵を持たぬはずの書斎に入り込んだ」
仮にも自分(琅玕)はいまや国主の一族のひとりたる身の上、侵入されたのはその自分が公邸と頻繁に行き来して暮らす別邸であるゆえ、警備は軍から兵士が派遣されており、決して緩くはない。
「にもかかわらず侵入を許した、しかもたれにも気づかれず―――これだけでも随分と奇妙な話なのだが、そのうえこの泥棒、どうも、なにも盗っていかずただ侵入しただけであるらしい」
おかげではじめは一体なにが目的なのか分からず困り申した、と琅玕。
「はあ、左様ですか、それは難儀なことでございましたが、しかしそれと妾と一体どんな関係が?」
王葎華は、ますます嫌そうな顔をしている。
琅玕は、ナニ暫く話を聞いてくださればすぐ解る、などと澄まして言い、
「よくよく脳味噌を絞って考えた結果、一体なにを盗もうとしていたのかはおおかた見当がついた」
「そ、そうなのですか?」
それは紫翠もいまはじめて聞いた。
琅玕は、慌てる紫翠をあまり気にせず、
「ついたのだ。それで確認したところ、幸いそれはまだ盗まれておらなんだ」
盗人は、それを探しはしたものの、一度の侵入では発見できなかったらしい。
「ですのでそれをとりあえず安全な場所に隠し、その後、一計を案じまして」
言いつつ、どさりと風呂敷包みを卓上に置く。
「なんです、それは」
中から出てきたのは、なぜか、琅玕の別邸で働く女中の制服のひとそろいだった。
琅玕の別邸では、女中や従僕など、室内仕事がメインの奉公人たちは揃いの制服を着せられる。いいかげんに畳んだその制服を前に置いて、琅玕は、
「御母堂、私の前歴は、ご存じでござろう」
と、なぜか全く関係なさそうな話をはじめた。
「はあ、確かお医者様でございましたか」
葎華の声音は不審げである。琅玕の言わんとするところなど、全くわからぬようだったが、わからぬなりに戸惑いながらもやや警戒気味のようだ。もっとも紫翠にも、琅玕の意図はさっぱり読めない。
「左様、医者でござる。したがって我が家には、いまも様々な薬品が置いてありましてな」
「?」
無論、薬品を仕舞った部屋や戸棚には厳重に鍵がかけられ、琅玕以外の者が簡単に持ち出せたりはしない。
「その、様々な薬品の中から一種類選び、書斎の床の各所に目立たぬよう撒いておいた上で、昨日は出勤したのです」
面倒だからいちいち薬品名は言わぬが、と琅玕。いわく、その薬液は無味無臭で無色透明、人体に悪影響はないが、しかし強い脱色作用があるそうな。
「脱色?」
「左様、外気に触れればすぐに揮発するが、拭き掃除でもせぬかぎり、当分のあいだ、撒いた場所では脱色作用が継続する」
そして昨日、戌の刻(午後七時頃)。
紫翠たち下っ端役人どもが、小汚い大部屋で仮眠をしていた、その時分のことらしい。
琅玕は、本来帰宅する予定ではなかったが、極秘の内緒で別邸へ戻った。
事前に警備の者たちに言い含め、邸うちで働く奉公人たちに気づかれぬよう、こっそりと塀を乗り越え、某部屋の窓から邸内に侵入した、のだそうだ。
「それこそ、まるでこっちが盗人かなにかのようでござったな」
で、真っ先にどこへ向かったのかと云うと、
「洗濯室でござる」
まだ洗う前の汚れものが山積みになっていたのを、残らず念入りに確認したという。
「で、これを発見致した」
卓上に、女中の制服をバサバサと広げ、裾のあたりを出す。
制服は裾長の足首丈であるが、
「…特に、なにか異常があるようには見えませぬが」
王葎華はそう無気力に呟いたが、琅玕は無言で、裾の裏を返した。
裏地は濃いめの紺の無地だが、端の方に少し、白いシミのようなものが点々と散っている。
「色落ちでござるよ。なにをしてこのようになったかは、説明するまでもございますまい」
…たれぞが再度書斎に侵入し、撒かれた薬品には気づかず家探しをし、書斎を出ていったあとも裾の異常には気づかぬまま、制服を洗濯場に出した。…
「先刻は、外部からたれにも気づかれずに曲者が侵入したような言い方をしたが、無論、あれは言葉の綾でござる。実際には、わが邸に、外部から曲者の侵入した形跡はない」
たれひとり害された者もなく、金目のものを持って行かれたわけでもない。ただ書斎にのみ、勝手な出入りの痕跡があったとなれば、
「常識的には、邸内の者の仕業と考えるべきでござろう」
だからこそ薬品なぞ使って罠を張り、わざと邸を留守にしてみせたのだ、と琅玕。
「まあ制服の洗濯は毎日ではないゆえ、初日で見つかるとは思っておらなんだ。できれば急ぎたかったゆえ、そこは運が良かった」
王葎華は、蒼褪めた顔色で沈黙。琅玕は底意地の悪そうな表情を隠しもせず、
「この制服を着ていたのは、女中の某という者だが、早速とっちめたら存外簡単に吐きましたぞ。貴女が小遣いを握らせて来たと」
書斎の鍵は、琅玕が風呂のあいだに粘土で型を採ったのだという。なるほどそうやって主人の留守を狙い、書斎に忍んで家探しをしていたのか。
「ただし女中某は、貴女に、書斎に忍び込んで“あるもの“を探せと命じられただけで、なぜ貴女がその“あるもの“を欲しがるのか、理由までは聞かされていないと言っていた。なので貴女に直接尋ねに来たわけです」
「その、“あるもの“とは一体なんなのですか、閣下」
横から紫翠が疑問を呈すると、
「これだ」
琅玕は荷物のなかから、今度は見慣れた紙挟みを取り出した。
広げると、中身は当然のように、これまた見慣れた解剖初見。
「また素描ですか?」
「違う。少し待て」
数枚の紙面をめくって出したのは、素描ではなく、琅玕の、あまり上手ではない筆跡で紙面にいっぱい、真黒になるまで隙間なく文章が描き連ねられた、覚え書きの頁である。
「なんだかよくわかりませんが…」
文中には専門用語ばかりが次々と並べられ、正直、素人には意味不明もいいところだが、その琅玕の指先が示した先、
―――“胃の腑より消化管異物を回収、銀製の鍵一個、約1寸5分“…
「…銀の鍵…?」
紫翠の呟きが終わらぬうち、横から、物凄い勢いで腕がのびてきた。
「⁈」
王葎華に、解剖所見をひったくられた。
紫翠が呆然として、その方向に目を向けると、彼女はさながら食い入るかの如き形相で、奪い取った紙挟みのなかの解剖初見に、穴が開くほど見入っている。
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