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5 相似
義姉から、肖像画をなかば強引に借り受け、ろくに事情も説明せぬままふたりはとっとと退散した。
そして今度は、琅玕の先導で街中へと足を運ぶ。
「…閣下、一体、どちらへ向かっておられるのですか」
実は、紫翠は行き先をまったく聞かされていない。不審感全開の表情であたりを見回す。
が、どういうわけか周囲の風景に見覚えのある界隈へさしかかり、琅玕のうしろについて歩きながら紫翠はますます困惑。このあたりに一体なんの用があるのか、理由はさっぱり見当がつかない。
先日、火災で焼け落ちた安宿の近所だった。
世辞にも巷の柄はよくない。貧民窟であるから当たり前の話で、残飯と小便のすえた匂いがそこら中に立ちこめている。まだ陽が暮れるには間のある時刻だが、辻には早くも街娼が立ちはじめ、薄汚れたなりの酔客が彼女たちに袖を引かれる姿が見え隠れする、そんな中をかたや政府高官、もう片方は役人の制服姿という、おっそろしく場違いなふたりづれが足早にさきをいそぐ姿は大変な悪目立ちぶりで、そのうえ視線を投げかけてくる連中のうち何割かは紫翠の面相に露骨に動揺する。
が、肝心の琅玕は、そんなことは意にも介していない。
「ここだ」
やがて立ち止まった先は、薄汚れた安酒場の前だった。
小汚いなりに、繁盛はしているようで、扉の外にいても酔漢どもの濁声が漏れ聞こえてくる。
「…閣下、一体こちらにどのような御用でございますか」
戸惑う紫翠を構わず促し、扉を開くと、押し寄せる騒音と安酒の匂い、煙草の煙。
「ああら、これはこれは共先生、じゃなくて兵部卿閣下、お久しぶりじゃありませんか」
わざとらしく高い声をあげて、厚化粧の年増女が寄ってきた。
「よろしいんですか、うちなんかに出入りして。可愛いお妾様お迎えしたばかりだって言うのに、ばれたら一大事じゃござんせんの?」
そんなことを言いながら、琅玕にしなだれかかろうとして、背後の紫翠の容貌にぎょっとして半歩後ずさる。
琅玕は、相手にしない。
「苑環はいるか」
ぶっきらぼうに、そう問うた。
「上にしけこんでますけど…」
それだけ聞けばもう用はないとばかりに、指先で銀粒をひとつ弾きとばして放りながら、足早に階段へと向かう。
階上には、個室がいくつか並んでいた。
「うわっ、な、なんだ」
叩扉もせずに勝手に扉を開けては、早くも女の上で励んでいる男の顔を確認し、人が違うと見るや詫びも言わずに出ていくを繰り返すこと数回。勝手知ったるなんとやらとはこのことか。
(意外と、閣下はこういう所でのお遊びに精通しているのだろうか)
屍でないものは男女問わず見向きもせぬ、浮いた話などかけらもなしと名高い兵部卿閣下である(なので紫翠に手を出した時は余計に世間に驚かれた)。にもかかわらず、予想もせぬ、というか訳のわからぬ行動に、紫翠は当惑するばかりだったが、そんな彼をしりめに、琅玕は何度目かでようやく尋ね人に当たったらしい。無言のまま髷を掴んで女からひっぱがす。
「痛え!だ、誰かと思えば先生じゃねえか、何事だい」
「いいから早く来い」
まだ若い男である。素っ裸のまま、琅玕にひったてられるようにして、空室のひとつにたたき込まれた。
琅玕も紫翠を連れて部屋に入ると、念入りに内側から鍵をかけた。
「先生よう、久しぶりだってのにひでえなあ、一体なんなんだ」
「聞きたいことがあるのだ」
正直に答えれば、あとで金でも酒でもなんでもくれてやる、そう言うと、裸で床にじかに座り込んだままの男に着物を放った。
苑環とやら言う男が服を着るのを待って、琅玕は、ものも言わず彼の目の前に、くだんの解剖所見の素描を突き出した。
「なんだいこりゃあ、誰かと思や、王仁礼じゃねえですかい」
あいつは絵描きのモデルなんぞやってたのか、それにしちゃ古い紙だな、などと苑環は、無精髭のまばらにのびかけた薄汚い顎をひねって言った。
その言に、紫翠が目をみはって驚く。
横から、
「王仁礼を、妓楼からうちに仲介したのはこの男だ」
「ぎ、妓楼?」
琅玕の言に、紫翠は再度驚く。妓楼づとめということは、当たり前だが体を売る商売をしていたわけで、普通、たとえ短期間でもそんな稼業をしていたものを奉公人に雇うような家ははない。
「細かいことはあとだ、肖像画を出せ」
琅玕に急かされ、懐から例の額を取り出すと、それを見せられた苑環は、また妙な顔をした。
「ん?ああこの素描の完成品がこれですかい。王仁礼の野郎、売れっ妓でもあるまいに、たかだか三ヶ月やそこら妓楼にいただけの癖して、こんなもん描かせてやがったのか」
そこで急に言葉を切って、
「…いや、変だな。こんな埃の集った古道具、昨日今日描いたもんじゃねえな」
こっちの素描も紙が日焼けしてやがる、などとぶつぶつ呟き、
「まさかと思うが先生、こりゃ、骨董品の贋作かなんかですかね。それならわざと汚したり煙で燻したり、そういう古く見せかける細工して高く売りつけることもあるが、こいつもその手のしろもんですかい」
「そんなわけがなかろう」
「だったら一体なんの判じ物だい、先生、そいからそっちのおっかねえ顔のお役人さんも」
先刻までとは人の違ったような貌で、ふたりを交互に見た。
紫翠の義姉の説明によれば、“お姑様“こと後妻の江氏は、岐の帝都・北師で生まれ育っている。
「嫁入りで、華にご帰国なさったそうですが」
この肖像画は、北師に暮らした娘時代からの持ち物であるらしい。
紫翠の推察通り、当時の若い娘たちにとって憧れの的だった、さる貴公子の肖像である模様。ただし板絵の裏にあった以上の情報は不明、持ち主である江氏は故人、義姉は世代も違えば北師に暮らしたこともない。姑の若い頃の思い出話なぞ、義姉とてもあまり真面目には聞いていなかったようだった。
「苑環、お前も北師の出だったはずだな」
かたわらの椅子に腰かけ、腕を組んでふんぞり返り、目の前のやさぐれ男を睨みつける琅玕。
やさぐれ男は、存外まじめな顔で、素描と肖像画をかわるがわる見比べている。
「この肖像画の人物について、なんぞ知っていることがあるだろう」
「ええ、そりゃ多少は知ってまさあね」
――岐玉髄の肖像、尖晶王家第二王子。
「王家ってなあ、要するに、岐の帝室の分家でやすよ」
尖晶王家ってのはそのうちの一つでさ、とやさぐれ男。
皇帝の兄弟、あるいはその息子や孫など、傍系の皇族に王の称号を与え、その者を当主に据えた家柄をさす。二十年ほど前、この尖晶王家には美貌で評判の兄弟王子がおり、北師に暮らす若い娘でこの兄弟に焦がれぬ者はおらぬと謳われたという。
「ただ、俺ぁなんせ餓鬼の時分に清寧に来ちまったからなあ。名前を聞いた事ぐらいはそりゃあるが、御尊顔までは知らなかったよ」
苑環なるやさぐれ男は、ぐいと首を曲げて紫翠の方を向き、
「ちょいと整理さして下せえよ。そっちのおっかねえ顔のお役人さん、いやさ先生の御側室様、あんたはこの先生がもう二十年も昔に解剖した遺体の素描を見て、御実家にあったこの肖像画によく似ていると思い出した?」
「はあ、仰る通りです」
「んで、あんたは肖像画のモデルの素性までは知らなかったが、どうあれ肖像画になるような有名人が一体なんで解剖なぞされているのかと驚いた。そりゃそうだな。ところが当の先生は、大昔に自分が切り刻んだ遺体のことなんぞすっかり忘れてて、そのくせあらためて素描見せられて、どういうわけか全然別人の―――自分とこの奉公人だった王仁礼のことを思い出したと」
無言で頷く紫翠と琅玕。
「そんで、わけがわからなくて俺んとこに面通しに来たと。はあ、ようやくこっちも合点がいったよ、全く、何事かと思ったぜ」
「御託はいい。苑環、お前ならこの謎、なんと解く」
琅玕に再度睨みつけられ、怯えたように首をすくめる。そのくせ口元だけはにやにやと笑っていて、本気で怯えてなどおるまい。
「なんと解くもなにも、どうせ先生のこった、もうとっくに仮説のひとつやふたつ、思いついてんじゃねえのかい」
そいつを先に聞かせてほしいなあ、と苑環。
「なまいきな事を言いおって。…まあいい、だったら聞かせてやるが、その前に念のため、さきに紫翠に聞きたいことがある」
「はい?」
「お前、さきごろ焼死した王仁礼の、生前の顔を知っていたか」
「いいえ、火災の現場で黒焦げの遺体をちらりと見たきりです」
閣下がいらしてすぐに御一緒に現場を離れてしまったので、それすら一瞬でした、と紫翠。
「だろうな」
「そりゃいいが、先生よう、あんたはあんたで、その昔に北師の華と謳われた岐の皇族、前尖晶王家の美青年王子様兄弟のこと、ホントに全然知らなかったんですかい。丁度そのころ北師暮らしだったってえのによ。俺と違ってそれなりの年齢だったろ」
「知らんな。俺は世間の流行りものには全く疎いし興味もない」
「やれやれ、先生らしいっちゃらしいが…」
「ともかくだ、つまり、俺やこの苑環が、この解剖所見の素描や、こっちの肖像画を見せられて、まず思い出したのは焼け死んだ王仁礼の方だ。つまりかつて俺が切り刻んだこの遺体と、紫翠、お前の実家にあったこの肖像画の人物と、死んだ王仁礼の三者は、同一人物と言って通るほどによく似ている―――ということだな」
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