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6 墓泥棒
先刻から、
―――隣国の、岐の皇族。
と、何度も呼ばれているが、いま紫翠や琅玕が暮らす華国と、その隣国であるところの岐国が、別々の国になってから、まだほんの十五年ほどしか経たない。
いまはいわゆる、群雄割拠の戦国時代である。
かつて琅玕が若かりし頃、そして紫翠の生まれたばかりの頃までは、橄欖山脈以東の地は全て、岐を国号とし、皇帝の支配するひとつの大帝国であったのだが、あるきっかけを経てその支配力が低下、それに乗じた各地の勢力が次々反旗を翻す。いまや華のほか、越、燕、北魏に西魏、その他のいくつもの大小勢力がそれぞれに覇を競っている。
が、もとの岐帝国も、縮小はしたものの、決して滅んだわけではない。
実効支配できる地域が大幅に減り、かつてのような大帝国ではなくなっているが、いまでも帝都・北師とその周辺にある程度の勢力を保ってはいる。ただしその国力は、全盛期の七~八分の一と言ったところか。
「その岐が、まだ歴然たる大帝国だったころ―――というか落ちぶれる直前の数年間、俺は、北師で医学修行をしていた」
かの街には、なんとやら言う高名な医者が医学塾を開いていて、各地から医者の卵が集まってきていたと言う。
琅玕も、当時はそのなかの一人だったわけだが、
「俺は、あくまで医学修行で数年暮らしただけだ。だがこの苑環は、後日こちらに引っ越しては来たが、幼少のみぎりは歴然たる北師の貧民窟の生まれ育ちだ。諸事情あって、俺は、こいつの親父にはずいぶんと世話になってな」
彼の父親、苑の爺と呼ばれた男は、北師に巣食うろくでなしどものあいだでいわゆる顔役というやつだったらしい。どういうわけか、妙に琅玕のことを気に入って若先生と呼び、ずいぶんと世話を焼いた上、琅玕が帰国する際、なにを思ったか家族をともなってついて来てそのままここ清寧に住み着いてしまったとやら。
「はあ、そういう御仁が閣下のお世話を焼くというのは、具体的には一体どんな事を?」
「長くなるから説明は後回しだ」
「左様で」
その、苑の爺とやらは数年前に他界したそうだが、その息子たる苑環は、父の跡を継いで(?)、このあたり一帯の小悪党どもにはずいぶんと顔が利くとやら。
「苑環よ、お前は俺を学者馬鹿の世間知らずのように云うが、そういうお前こそ幼少期を北師で過ごした割には、当時かなり世に名や顔の売れていたらしい皇族の御曹司、名は知っていても顔は知らなんだのは何故だ」
「無茶言わんで下せえよ、いかに美貌を謳われたオメガの王子様つったって、当時はこっちゃ、色気づく前の餓鬼でやすからね」
それでも全然知らなかった先生より全然ましでしょ、とむくれる苑環。
しかし、紫翠は、
「この肖像画のお方、オメガだったのですか」
と、そちらの方に興味を示した。
「そうだ。だから実のところ、いくら似ていると言っても、この解剖所見の遺体と、この肖像画の人物は、別人だ」
「え?」
「お前、顔の素描にばかり気を取られて、所見の記載をよく読んでおらぬだろう」
“身元不明、無縁仏。性別・男性、属性・不明なれどもオメガにあらず。…“
その一文を、琅玕は指し示す。
「アルファ・ベータ・オメガの属性は通常、血液検査でしか判明せぬと言うが、例外がある」
オメガ男性には子宮があるのだ、と琅玕。
「女性ならば属性問わず全員が子宮を持つ。男性ならば、アルファとベータは子宮を持たぬ。オメガ男性のみ、陽根・睾丸(男性器)と子宮を双方兼ね備える」
俺はオメガ男性の遺体も何度か腑分けしたことがある、よってこれは確実なことだ、と琅玕。
紫翠は、あわてて解剖所見を琅玕からひったくる。
琅玕の言う通り、彼の暮らす別邸には、オメガ男性の解剖をもとに作成したという模型人形もあった。ここ数日のこととはいえ、門前の何とやらで、紫翠も人間の腹の中にどんな臓器がどう詰まっているかは概ね飲み込んでいる。所見には無論、くだんの一文だけでなく、数枚めくれば腹部の解剖素描もあり、なるほど、この所見の遺体に子宮らしき臓器が見られる様子は一切ない。
「特殊な例外などは除くとして、通常は、解剖で属性がわかるのは、子宮を持つオメガ男性だけだとされておる。逆に言うなら、男の遺体を解剖して、腹の中に子宮が存在しなければ、すくなくともアルファかベータか、そのどちらかには違いないのだ」
「はあ、なるほど。…」
「尖晶王家の兄弟王子、兄貴の方が岐鋭錘殿下、弟王子が岐玉髄殿下と仰ったが、この兄弟は兄貴はアルファで、弟がオメガだったそうで」
言いながら、横から苑環がぬっと顔を出す。
「歳は離れてたが、まるで双子みてえにそっくりな兄弟だったっつう話だ」
「ふむ、それなら、兄弟の片方の肖像画なり素描なりを見て、もう片方と誤認しても不思議はあるまい」
「当の本人たちは年齢差もあるが、なによりアルファとオメガでござんすからね。体格差っつうもんがありやして、実際には見間違えるようなこたあなかったようですがね」
「なるほど」
「…いや、その、少し待っていただけませんか」
紫翠は、頭を抱えている。
「お話を伺う限りでは、つまり、肖像画のお方が第二王子の岐玉髄殿下、解剖所見のお方が第一王子の岐鋭錘殿下ということでは」
「ん?無論そういうことだ」
「どちらにせよ、だとすると閣下は、その、よりにもよって皇族の一員であるお方を解剖なさったという事に…」
「それがどうした。皇族だろうが路傍の乞食だろうがなんだろうが、死んでしまえばみな同じ屍だ。心の臓が二つあるわけでも、肋骨が一本足らぬわけでもあるまい」
「何ですか、その変な例えは」
「まあ落ち着け。お前が言いたいのは、皇族ともあろう身が、ただ死ぬだけならともかく、一体どんな経緯があって遺体が身元不明者となり、あげく俺のところに解剖用に提供されたのか、という事だろう」
「仰る通りにございます」
「それについての心当たりがあればこそ、この苑環を訪ねて来たのだ」
解剖は、法で明確に禁じられているわけではない。
ただ単に、本人や遺族が薄気味悪がって、同意が取り難いため、解剖可能な遺体が滅多に手に入らぬ―――というだけである。要するに理屈ではなく、感情の問題であった。
むしろ、感情の問題であるからこそ、たとえ医学の進歩という大義名分があっても、理解がなかなか広まらない。
「いまでも、王仁礼の母親のような反応の方が普通なのだからな。二十年も昔、俺がまだ無名の医学生だった頃なぞ、推して知るべしだ」
そのころは、ときおり牢獄などで身寄りのない罪人が死亡した場合など、お上のお情けで遺体が下げ渡されたりせぬでもなかったそうだが、それも数年に一度といったところ。
「とてもではないが、そんなものを気長に待ってはいられない。で、非常の手段を使うことにした」
「非常の手段?」
「あまり裕福でない階層の者が葬られる共同墓地というのがある」
そういう墓地の墓守にわたりをつけて、あとくされのなさそうな者が埋葬されたら知らせを寄越させる。そして、琅玕は人数を引き連れて墓地へ赴く。小金を渡された墓守が見て見ぬふりをしてくれているうちに、埋葬された遺体を掘り起こし、何処ともしれず運び去る。場合によっては、死者の遺族にいくらか包むこともある。
「…あのう閣下、こう申し上げてはなんですが、それはいわゆる墓泥棒というやつでは」
「その通りだ」
その頃の北師で、食いつめた破落戸やならず者を束ねる墓泥棒どもの元締めとは俺のことだ、と琅玕は、むしろ悪戯自慢をする子供のような表情でふんぞり返った。
今日何度目のことか、紫翠、呆然。
『共尚書、芳年ノ砌(若い頃)屍ヲ求メテ屡々墓所ヲ盗掘ス』
一部では、かなり有名な逸話であったらしい。
「無論、当時の俺のような、世間知らずの良家の箱入り息子ひとりで出来る事ではない」
どういう経緯かまでは、琅玕はいちいち説明しなかったが、要するに小悪党どもの顔役だった男―――つまり苑環の父、苑の爺のことだが―――が世話役を買って出てきたとやら。
「まあなあ。先生はなんつったって、今も昔も金離れだけはマジでいいから」
「自分で言うのもなんだが、持つべきものは太い実家というやつだ」
悪びれもせずうそぶく琅玕。そのころ彼は、
―――総額にすれば家が一軒建つほど。
の仕送りを貰っていたそうな。
「子弟を医学修行に出す家なぞ資産家であたりまえだ。実家から湯水のように金を出させ、遊興に浪費する学生なぞいくらでもいるが、俺の場合は高額な医学書と、墓泥棒の手伝いをする破落戸どもに支払う手間賃に消えた」
呆れた話だが、駄賃をはずめば、柄の悪い連中とてもことさらに逆らっては来ない、それが世間の道理ではある。
琅玕のばらまく小銭につられて有象無象どもが集まり、彼らを引き連れ、夜の闇にまぎれて墓場へと向かう。埋められたばかりの棺を掘り起こしては中の遺体を引きずり出す。そして何食わぬ顔で棺だけを埋め戻し、朝日が登るその前に何処へともなく消える。
「…知らぬ者が見れば、屍食鬼か何かと間違えられても文句は言えぬ所業ではございませんか」
「否定はせんが、発覚したことは一度もないぞ」
「…」
もはや無言の紫翠だった。
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