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白夜の月
夜が無くなって、久しい。夜が無くなって魚が獲れなくなった。魚が獲れなくなって私達は飢えた、飢えて小さな争いが起きて、その争いは大きな争いに発展し、それにより私達は更に飢えた。そして赤子や子供の奪い合いまで事が生じた。そして私達は話し合った、どうすればこの昼の明かりの中で魚群の大漁が望めるのか。そして私達は答えを得た。その答えの為に私は此度死んだのだった。
私の屍は大船の先端に麻縄で吊るされゆっくりと降ろされた。私の屍は飢えた男達によって陵辱の限りを尽くされていて沢山の精を浴びていた。その男達が海面に近づく私の屍を目をまん丸に広げて眺めている。薄い死装束を着させられた私の乳房が、男達の体液と吹き荒れる波飛沫でくっきりと浮き出ている。
「かわいそうなあたし。でも世界で一番きれいなあたし」
死んだ私は酷く可愛らしかった。首ががっくりと折れて手首と足首に縄が食い込んでいる。名前も知らない花の毒で私は岬の浜辺で死んだ。生きている時は、私の意識と私の体の二つ合わせて私だった。けれどこうして離れてみると私のこの思考こそ私だといえる。今の私は記憶の集合体、追憶が羽のようにはらはらと剥がれてゆく。この羽が全て落ち切ってしまった時きっと私は此処から居なくなるのだと、私の可愛い屍を見つめながら思う。
屍の足が水につき、腰、胴、胸が沈み、そしてこの為だけに伸ばしていた黒い髪の毛が最期幽霊のように波に攫われて消えた。船上の男達が歓声を上げる。浜辺から様子を伺っていたここいら一帯の人間達も声は届かないが手を組んで跪いたり涙を流しながら飛び跳ねているのが見えた。一体何に喜んでいるのか、一体何に祈っているのか、まだ願いは聞き届けられてはいないのに。お前達の餌を奪った夜の太陽はお前達にとって憎いものではなかったのか。なんてザマだ、それでも世界はお前達中心には回っていないということをきっとお前達は死ぬまで気付かないのだ。
数刻前まで人であったのに、人でなくなった途端ヒトとは何だったか分からなくなった。人であるということは嵐のようなものらしい。そしてヒトでなくなるということはその嵐の目、束の間の休息。
記憶が剥がれ落ちて波間に消える、男の一人が私の屍を繋いでいた麻縄を切る。その緩んだ縄に若い男が足を取られる。大きな波が船上に乗り上げ誰か一人が攫われる、けれど男衆が気が付くのはもっと先になるはず。そんなことをぼんやり思っているとくんと軽々しく手首を引かれた。振り払えたが振り払わなかった、随分と冷たく優しかったので。そしてそのまま崩れかけの海馬と共に私は昼の海へと引き摺り込まれた。
「かわいそうに。こんなに穢されて」
女の声が私の屍を包んでいる。女の波が私の屍を愛おしそうに抱いている。女は海流であり、そしてさざなみであり、そしてみなもであり、同時に女は絶え間なく渦を巻く魚影だった。女は海だったのだ。
ごめんなさい、と私は謝った。
「こんなものを寄越して」
いいのよ、と海は答えた。
「陸のものは私のことを誤解しているのね。こんな風にしたものを寄越せば私が喜ぶと思っている」
海は続ける。私の記憶がきらきらと光って海底へと落ちていく。
「それでもここの子達にとっては有難いものよ。陸の事情はよく知らないけれど、人間達だっていつか光の夜に還るのだから」
太陽の帯が揺れていると思ったら船底が不安定に揺れているのだった。木屑や樽が落ちてくる。きっと今にヒトも落ちる。
「でも貴女をこんな風にしていい理由にはならないわ」
でしょう?と私を振り返る海の影。
「船を殺すの?」と問うた。
「そうなるわね」と返された。
殺さないで欲しい?と問われた。
「まあ貴女がどう答えようとも、私の入り江はもう止まらないでしょうけれど」
ならば聞かなければ良いのに、と思った。それともこれが海の慈悲か。陸のヒトビトは海を男だと信じていた。だから神聖たる船には決して生きた女は乗せなかった、だから此度も男が怒り狂っているのだと女の屍を差し出したのだ。
「あたしは死に損ってわけね」
不思議と悲しいとは思わなかった。元より野良仕事や針仕事は嫌いだったから。ただ夜が無くなって、星灯りの下で波の音が聞けなくなったのが寂しかっただけだ。
「そんなことないわ、此処は良いところよ」
なにものにも縛られない、全てが循環して回ってゆく。海はそう言って私の屍に手を振った。私の屍は緩やかに闇の中へ沈んでゆく、それを追って幾尾の魚が群れをなす。海が私のもとへ駆け寄って瞬く間に手を引く、沖合へ私達は泳ぐ。
「それに見て。ほら、海には夜もあるのよ」
大きな船はみなもにて横倒しになり、陽射しの中に影を作っていた。水のもの達が涼みに、そして血を啜りにやってくる。暗闇だ。美しい暗闇。紅い星。尾の速い流星群。
「海は女の子なのよ」と彼女が言う。
だから私達は海なのよ、と私の意識に唇を落とす。
「そして私達は月のもの。全ては月の仰せのまま。白い夜で見えなくたって私達は小指を絡めて繋がっているの」
私は海と小指を絡めた。私は夜が好きな女の子、波の音を聞くのが好きだった。そして死してなお私は女の子。彼女曰く、女の子は海で、海は月のもので、だから決して月と離れ離れにはならない。
「だから貴女はずっと此処に居ていいのよ」
そう甘い声で海が囁く。
「ずっと此処に、私と共に、居たいでしょう」
「そうね」と私は草臥れて答える。長い髪が解けて泡沫に透き通ってゆく。
どうせ行く宛もないのだし。
「だったら私、あなたと居たいわ」
さざなみの中ゆったりと、私は女と遊泳の旅。月の声に耳を傾けながら、私は追憶の鱗と踊る。
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